第32話 民主主義革命
投稿ミスっちゃった。
飛鳥の独立は幕府にとって全くと言ってもいいほどの想定外だった。
彼らは同胞であり、独立騒ぎも本国で言うところの一揆程度で収まると考えられていたため、上流階級や知識人層にとって飛鳥の独立の達成は寝耳に水であった。
幕府は植民地において従来の統治方法が間違っていたことを痛感する。
まず、放任主義が独立機運を高めたという説が知識人層の間では主流となった。
リベラル派と呼ばれる知識人たちは当時、東南アジア人やアフリカ人の奴隷に家事を全て任せることで自由な時間が生まれ、その時間は思考に費やされていた。
特に飛鳥大陸や南陸大陸、太平洋諸島では日本本国から見てあまりにも遠国であることから、本国やフィリピン、分寧のような税収をあまり行っていなかったし、取り締まりも弛緩していた。
いわばこれらの地域は租税回避地であったのである。
そこへ急に重税を課したことで不満が噴出し、結果として独立革命となったという論が多数派であり、独立を許した根本的な原因は本国との距離にあると考えられた。
つまり、地理的条件によって飛鳥の独立を許したという結論に至った。
産業革命を迎えて蒸気船を実用化していたとはいえ、日本から飛鳥はあまりにも遠距離であったため、その統治が届かなかったために起こった悲劇だと考えられた。
これを機に日本植民地の各地で独立の機運が高まることは必定であることも確かであり、その対策に追われることとなった。
まず、数々の法律を制定し、これまで大幅な自治を許していた地域に幕府によって信任された人物が総督に任命されることとなり、幕府の意向に従う人間を植民地経営陣に送り込んだ。
また、それだけでは現地人や入植者からの反感は免れないとして、幕府は一計を案じた。
東南アジアや南陸地方に将軍直々に行楽に行くことで幕府の威光を南陸の僻地にまで届かせようとしたのだ。
具体的に多里也半島やフィリピンだけでなく、南陸や青手諸島等の南陸地方、布哇諸島、更にはゴア王国など封冊国にまで行楽に出かけた。
将軍を招聘するという事で各地でお祭り騒ぎとなったこともあった。
表向きは費用は現場持ちであったが、実際は将軍は羽振り良く金をばら撒いたため現地にとってプラス収支であった。
中華の朝貢をもとに編み出されたものだと言われている。
この活動は現地の経済の促進につながったが、逆にこの活動によって幕府は莫大な資金を浪費した。
一説には全国行楽の費用は幕府財源の20%にも達したという研究もある。
やっていることは立場が逆転した参勤交代と何ら変わっていなかった。
この全国行楽は将軍の力が弱体化したことを示すマイルストーンとなった。
当然こんなことを何年も続けていれば幕府は財政難に陥る。
飛鳥が独立していなければカリフォルニアのゴールドラッシュの恩恵を受けて財政難に陥ることを延命できたかもしれなかったのだが、それはifの話であり、知識人の話の種でしかない。
既に幕府のもとから飛鳥大陸は飛び立った。
財政難の矢面に立たされていたのは国民の大多数(90%以上)を占める百姓であった。
幕府は勝てば賠償金として貰えるはずだった国債を手に入れることが出来ず、柬埔寨を捨ててまで手に入れた現金も損害の補填には全然足りていなかった。
そのため、国民に重税を課す他に財政難を突破する方法はなかった。
しかしこの問題は大きなうねりを見せることとなった。
まず、重税は役人、つまり武士には課されなかったのである。
なぜなら、武士は特権階級であったからという理由だけで、税を免除されていたのである。
百姓はそんな武士たちのために働かなければならなかったため百姓たちの不満が高まった。
本来日本は好景気に沸いているはずであった。
人口は農業改革によって荒野の農地転用や収穫高の向上によって緩やかな増加傾向にあり、力をつけた資本家たちによってイギリスとほぼ同時期に産業革命が成し遂げられ、それまでとは一変する効率で綿製品や絹製品などの紡績業にて大成し、安価で大量に東南アジアや清、ムガル帝国という広範で莫大な人口を有する市場において商品を売りつけていた。
だがこれまで行ってきた対外戦争や将軍の贅沢によって国庫は消耗していき、素寒貧になるのも時間の問題となるほどまでに経済破綻寸前であった。
特に日英戦争と飛鳥独立戦争は財政難の直接の原因になった。
何しろ莫大な金銭を使ったのにも拘らずなんの成果も得ることが出来ず、ただ闇雲に兵士の命と金を溝に捨てただけに終わった。
また、忘れてはならないのは、室町幕府はあくまでも軍事政権に他ならないことだ。
これまでは上昇無敗だったから文句はなかったものの、日英戦争、飛鳥独立戦争と戦争に負け続ける軍事政権に税金を払いたい人間はどこを探しても見つからないだろう。
しかも財政難であるにも拘らず欧州諸国への恐怖心から軍拡を止めることが出来ず、ことさらに国庫を圧迫していた。
しかも日英戦争の敗北によって日本はムガル帝国の経済圏から追い出され、人口の多かったベンガル地方への市場を失い、泣き面に蜂である。
既に清にもイギリスの安価な商品が流入し始め、日本製品と競合し始めた。
また前述のように植民地を維持するために行楽に出かけただけでなく、城内では財政状況を無視した浪費が繰り返し行われ、武士への免税が幕府の財政を締め付けた。
そんな中でも将軍らは身に余る贅沢が止められず、銀の皿を洗うのが面倒という理由だけで捨てるような驕奢な生活を送っていた。
1783年の浅間山噴火によって日本史上最大規模の飢饉が発生し、都市部への穀物の供給は滞り、食糧事情は悪化した。
堂島米会所が出した米価は通常の2倍にまで高騰し、これは百姓の台所に直撃した。
コメの価格の上昇によって貧困が発生し、日本国民を苦しめた。
元来このような事態を解決するセーフティネットの役割は幕府の仕事であったが、財政難に陥る幕府には食料価格をどうにかする有効な手立てはなく経済は混乱し、これまで最も安定していた農業による国の収入は激減してしまった。
さらに1817年から1823年までカルカッタを発生源とするコレラが大流行して5万人以上が死亡するという大惨事になった。
災害は立て続けに発生し、1833年に天保の大飢饉が発生する。
浅間山の噴火などによって農村部では田畑が捨てられ都市部に今日食べるものを求めて仕事を探しに来る若者が急増した。
都市部に流入してきた農民の数は都市部が賄える人口のキャパシティを越えていた。
これによって伝染病がさらに広がり、犠牲者を増やす結果となってしまった。
この飢饉・伝染病による被害者の数は正式な記録には残っていない。
一説によれば3万人から4万人が犠牲になったと言われているが、正確なところは分からない。
正確な記録がわからないことが、それほどまでに日本社会は混乱していたことを如実に示している。
そのうえ日本本土の政治的腐敗は絶頂に達していた。
特権階級である役人(武士)は免税されていた分働いていたかと言えばむしろ逆に役人によって日本そのものは足を引っ張られていたという見方もある。
この体制を打破するためにこの国難を継承した将軍は民衆の力を強めるために武士と百姓の代表者が話し合うための議会を開いた。
今日で言うところの議会ではなく、選挙制では決してなかったが、この議会が開かれたことで百姓の政治的発言力が増すことが期待された。
その上に百姓の議席数は武士の議席数の2倍である200名であり、百姓の発言力が武士よりも強くなるように仕向けていた。
こうして百姓の支持を得て財政改革に乗り出そうとした幕府だったが利権を手放すことを拒否した保守派、つまり武士らによってこの改革は阻止されてしまい、更に財政改革を主導した役人を賄賂を受け取ったという疑惑を市中に流すことで失脚に追いやった。
この時点で幕府が財政的に立て直すチャンスはもう二度と来なかった。
役人の馘首に民衆は激怒し、その怒りの矛先は当然武士階級へ、更には武士階級への特権を許した幕府へと飛び火することとなった。
民衆の間では啓蒙思想が広まり、百姓は基本的人権などと言った権利を要求するようになった。
欧州からもたらされたのは何も科学技術だけではない。
アメリカ合衆国やフランス革命によって伝えられた『自由』は百姓にとってはこれまでは手の届かない甘美の存在であった。
だが今では誰もがその自由を夢想していた。
百姓自らが憲法の草案を思考して私塾で発表会を行うといったインテリチックな活動が流行し、幕府から衆愚と言われていた彼らとはまるで別人であった。
彼らは胡坐をかいていた武士が想像する以上に力をつけており、とても烏合の衆と一蹴できるような相手ではないことを痛感させられることとなる。
改善しない政治的腐敗と経済的混乱は、堪忍袋の緒が切れた百姓によって全国規模で打ちこわしが勃発し、国内はまるで初期の室町時代の如く戦乱に巻き起こすこととなった。
その先端となったのが1837年の『大塩平八郎の乱』である。
大塩平八郎は汚職で腐敗する上方であろうとも一切の汚職を許さず、内部告発を続ける品行方正な人物であった。
商人たちが自分たちを優遇してもらうために奉行所の与力たちに賄賂を贈る汚職行為を行えば商人を捕縛し、大坂の犯罪を取り締まる役人に賄賂を渡して眼前の犯罪に瞠目してもらおうとしている光景を見れば両者を捕縛することもあった。
よく言えば正義漢、悪く言えば頑固者であった。
大塩は商人からの賄賂を頑なに拒否し、奉行所の同僚たちの道徳の荒廃ぶりを度々批判していた。
役人や商人からは恨まれもしたが、民衆からの好感度は最高であった。
彼は奉行所の与力として働く一方で『陽明学』という儒教の学問を独学で学ぶ学者でもあった。
彼のもとに門下生が集い始めて私塾である『洗心洞』を構えて子弟たちに陽明学を指導していた。
彼ら洗心洞の門下生たちが今回の反乱に付き従っていた。
大塩平八郎が反乱を起こそうとした原因は天保の大飢饉にあった。
1833年からたった5年の間に凶作が何度も起きたことによって125万人が死去するという大惨事であった。
その最初の年には大雨によって洪水や冷害が多発し、全国の収穫高が例年の半分以下となるという大凶作に見舞われ、地方の農村は荒廃した。
一方都市部でも収穫高の激減と商人の買い占めによってコメの価格が急激にインフレしてしまい、日常的にコメを購入して暮らしていた都市住民や近隣の農民は米が買えなくなってしまったことで大打撃を受け、町には困窮した人々が溢れ返り、全国で百姓一揆や打ちこわしが続出した。
特に天保7年の大豪雨による凶作は尋常な被害ではなく、幕府直轄領の甲斐国で国中の飢えた百姓数万人が暴徒と化してしまうほど幕府の支配体制はこの時すでに崩れかけていた。
飢饉の影響は全国から米が運ばれる経済の町大坂でも当然大きく、初期は矢部定謙や大塩平八郎の活躍で何とか難を逃れたものの、だが天保7年の大凶作によって天下の台所大坂も耐え切れなくなり、深刻な食糧不足に陥った。
その秋に来るはずだった米も予定の半分以下しか輸送されず、精神的支柱だった秋の米の到着が期待以下の量であったことから大坂の民のメンタルは決壊し、11月には町中で乞食の行き倒れが続出し、餓死者は1日150人以上を数え、道路には幾多の餓死者の死体がそのまま捨て置かれ、盗賊が街を徘徊し、市中の豪商たちは自らの財産に執着して貧民への施行を渋り、大坂城の堀には飛び降りを防ぐ番人が常に付けられるというこの世の地獄と化していた。
後世の目を借りるならば、その惨状は正に『羅生門』である。
この後跡部良弼によって大坂から外に贈られる米を制限したり貯蓄米を解放して安価で払い下げるなどインフレを抑えようとしていたが、あまりの被害にこれらの努力は焼け石に水であった。
大塩は米を買い占め無暗に値段を吊り上げる癖に庶民に施しを渋る豪商たちやあまり有効な手を打てない奉行所に次第に憤りを感じるようになり、対立は決定的となった。
大塩は洗心洞の門下生に火薬やその他武器の調達を依頼し、幕府と本格的に事を構えようと画策する。
しかし幕府もそれをみすみす見逃すほど愚かではなかった。
目付は武器や防具だけでなく、火薬や弾薬といった戦略物資を重点的に監督下に置いていたため、これらの物資を手に入れることは容易ではなかった。
しかし大塩率いる洗心洞門下生たちはこれまで憎悪の視線を送ってきた賄賂を己自ら行うことで反乱のためのアイテムを手に入れ、着々と準備を整えた。
一方その頃、賄賂によるところも大きいが、飢饉対策に奔走していたために幕府上層部に目付の報告が遅れたことが一番の命取りとなった。
国家反逆罪で大塩を捉えようとした目付たちだが、既に洗心洞はもぬけの殻であり、既に手遅れという事実を洗心洞の静寂が彼らに突き付けた。
こうして発生したのが大塩平八郎の乱であった。
この事件は大坂城には近年悪化する治安を維持するための武器が大量に集積してあったわけだが、これが民衆の手に渡ってしまった一大事である。
当時守備兵力は大坂城の堀への飛び降り自殺を防ぐために分散配置されており、本来警戒されるべきであった大坂城防衛のための布陣を組んでいる状態ではなかった。
また、夜盗対策に兵士を城下町の治安維持に差し向ける他なく、これも大坂城の防備を手薄にしている理由の一つであった。
大塩軍はその隙を突いたのだ。
日本最高の防御力を誇ると言われた大坂城だったが、守備兵力がいなければただの豪華絢爛な建物である。
大塩軍はいとも容易く大坂城を攻略した。
しかも大坂城を占拠して大塩軍は籠城戦の構えを見せ、これまで刀狩りと身分制度によって武器を持たざる百姓たちが大阪城内にあった大量に保管されていた銃という名の暴力装置を手にした。
開戦前に準備した弾薬と火薬は1か月戦えるだけの備蓄がある。
この1か月で臣民の心を掌握し、日本全国に革命の風を吹かせることが最大の目標だった。
大塩軍が大阪城を占拠した次の日には幕府軍が大阪城を取り囲んだ。
将軍のお膝元である京都の近くで反乱がおこったとなれば兵士が急行するのも当然である。
現場指揮官と大塩は会合を行う機会を得たが、残念ながら和平の道は開かなかった。
その会合の内容は現場指揮官とその守衛がその場で切り伏せられたことで今尚分かっていない。
その事実が幕府軍に知れ渡ると、各指揮官はさすがに狼狽を隠せなかった。
いくら大坂城と言えどもこれほどの数に囲まれている。
包囲しているだけで勝手に城内は消耗し、幕府軍が勝利できるということは、落ちぶれた武士でも理解できた。
だがしかしちんたらと包囲していればこの暴動が全国規模に波及しかねない。
幕府側としても長期戦は大塩軍の利するところでしかないと察知していたのである。
大塩軍に大阪城を占拠されてからはじめて激突したこの戦いを『大阪城の戦い』と呼称されるが、結果から言えば幕府軍の圧勝であった。
洗心洞の門下生たちは熱狂的な戦闘力を発揮したが、相手は植民地戦争に駆り出されることもある武士である。
腐っても鍛錬を怠るような武士は武士ではない。
銃の取り扱いに一日の長がある幕府軍には敵わなかったのである。
その上、幕府軍の方が数が多く、単純な力押しで大塩軍は押し負けてしまった。
蜂起は失敗に終わり、元役人でありこの事件の主犯格である大塩平八郎は斬首刑に処された。
大塩平八郎の乱はその計画の緻密性からして一揆の延長線上を超えているとされ、国家転覆の大逆を企てた大罪人として、斬首刑は妥当な刑だった。
この反乱の結果大坂の街の5分の1が焼失し、約7万人の人間が家を失う損害を被ったことも大塩の斬首に正当性を持たせた。
この処罰に対して当の大塩は納得しているようであり、悔いを残さぬまま刑に処された。
しかし、大坂では乱を起こす前から私財を投げ打って民を救う人格者と知られており、『救民』を掲げて蜂起した大塩平八郎の処刑は新聞や最新の電気通信技術によって日本全国に伝搬し、これによって民主主義革命は一気に加速する。
彼らの目的は達成され、対して幕府の目論見は失敗に終わった。
大塩平八郎のその生涯は千里進むごとに乖離的なものになっていき、九州や蝦夷地に到達する頃にはまるで伝説や神話のような信じられないような逸話となっていた。
何より重要だったのが、本来幕府の味方をすべき役人(武士)が幕府を裏切る形で民衆の方に加担したことが重要であった。
大塩平八郎の乱は武士は幕府に従うことが美徳であるという身分制度の概念が音を立てて崩れ落ちた瞬間でもあった。
大塩平八郎に続いて民衆に味方する武士も現れ始めた。
畿内の兵士ならばともかく、地方の兵士には給料の滞納がしばしば発生しており、彼らも幕府に不満を持つ集団の一つであった。
政治的に排斥された田舎であればあるほど、反幕府派の数が多かった。
軍隊の中には倒幕を目標とする秘密クラブも各地で作られている。
などという理由もあるが、実のところ、大名たちも百姓からの攻撃を恐れたために協力することでヘイトを逃れたかったためだと言われている。
事実、百姓の陣営についた大名はジェノサイドが吹き荒れた民主主義革命に於ても命の危険性からは程遠い生活を送っていた。
逆に幕府親政派であると見るや否や焼き討ちや打ち壊しが横行し、中には中立を維持していても関係ないと言わんばかりに攻撃する輩も現れた。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとはまさにこのことで、これではいくら命があっても足りない。
こうして例え幕府親政派であろうとも、立地的に孤立したことによって命の危機を感じた武士や資本家は国民政府軍に味方した。
一方、逆に大塩平八郎の反乱を鎮圧することに成功した大阪をはじめとする近畿地方では自信に満ち、叛逆者は容易に鎮圧することが可能であると錯覚させた。
その結果大雑把に東国で革命派が、西国で幕府親政派が形成され対立することとなった。
尚、この内戦は蝦夷地にまでは波及しなかったが、東北の武将に穀物を送り、幕府軍には制海権の確保が出来ないことを理由に穀物の輸送を拒否しており、間接的に国民政府軍を支援した。
実際幕府軍は内戦を通して瀬戸内海を除いて制海権を奪取することはできなかった。
対外貿易の一大拠点であった大江戸の海軍に幕府軍は太刀打ちできなかったのだ。
こうした国民政府軍優勢であるという事実も流血を含む革命を後押しした。
ある意味戦端を開いたのは革命派であった。
大塩平八郎の乱からそう時間も経っておらず、熱が冷めぬうちに革命派は行動に移していた。
幕府の強化を得ることなく勝手に江戸に国民議会を設立したのだ。
国民議会とはその名の通り百姓が運用する議会であった。
当然特権階級である武士は参加できなかった。
しかも国民議会は将軍及び幕府の指図を一切受け付けないと拒絶の態度を示した。
さらに国民議会の決定に幕府の拒否権はないと断言してしまった。
国民議会の承認しない租税徴収は不法であること、いかなる新税も国民議会の承認無しには不法であることを決定し、もはや幕府の存在の否定するに等しい可決であった。
このような蛮行を幕府としては許しておくわけにはいかず、これにて百姓と武士は完全に決別することとなり、戦争は必定のところまで来てしまった。
幕府側の畿内と、国民側の関東で国は二分され、幕府は国民議会征伐を掲げて畿内から出征した。
東海道ではゲリラ戦術を仕掛けられて征伐軍は思うように進軍することができず、関東地方にすらたどり着けずに苦渋の撤退を決断した。
この撤兵に征伐軍の士気が下がったとみるや否や好機到来とばかりに国民軍が大反攻を仕掛けた。
そして遂に幕府軍と国民軍は関ヶ原で激突する。
幕府軍にとって関ヶ原を通行させるということは京の陥落に等しい行為であり、絶対に通してはならない場所であった。
関ヶ原はまさに『関』と呼ぶに相応しく、日本の関東と関西を分ける重要な要所である。
ここ以外で関東関西を通行するにはどの道を通るとしても山岳地帯を通る羽目になる。
まともな平野は関ヶ原しかなかった。
関ヶ原を突破してしまえば地理的障害物は何もなく、京都まで平野が続いていたのだ。
当初関ヶ原の戦いは幕府軍7万4千名、国民軍4万2千名と、幕府軍が圧倒的に有利と目されていた。
しかし結果として国民軍は決定的な勝利を収めることとなる。
幕府としては時間を稼ぐことが何より重要だった。
すでに西国との交渉によって幕府軍に与することが決定的になりつつあり、ここで無理な攻勢によって敗北しては国民軍に靡く可能性が大であったためである。
幕府軍の巧みな宣伝によって「国民軍は逆賊であり、我ら幕府軍こそに正義がある」という常識も植え付けられかけていた。
そのため、時間は幕府の味方であったのである。
だが謀略は幕府だけの専売特許ではない。
幕府軍の解体のために、国民軍でも謀は行われていたのである。
具体的には幕府に対して新政府が成立した際のポストを餌に、各将軍に対して謀反を起こすように要請していた。
送った密書の数は100通以上に上り、誰彼構わずに送り付けていたようである。
明らかにポストの数は足りていなかったが、幸か不幸か謀反を起こそうと画策している将兵の少なさに助けられ、ポストの平仄を合わせることができた。
革命意識のある人間は西洋化によってグローバルな視点が養われていた関東や東北に限られ、実のところ関西以西では保守派が大半を占めていたということだ。
あまり期待されていなかったが、下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるということなのか、謀反は実行された。
幕府軍右翼に展開していた小早川軍が松尾山を下り友軍を攻撃し、挟撃された形となった幕府軍右翼は壊滅し、それは全軍の壊滅に繋がった。
「3か月は堪えてみせる」と豪語していた幕府軍大将石田六成は責任の重さに耐えきれず落ち延びた先で切腹した。
これによって国民軍はさらに勢いづき、京都・大坂は陥落した。
後年の研究によって、関ヶ原の戦いは実は戦力は拮抗していたことが明らかとなった。
理由は幕府軍は書類上にしか存在しない幽霊兵を配属し、幕府から請求した架空人件費を横領するなど汚職が蔓延して腐りきっていたのだ。
まさに身から出た錆であった。
しかも国民軍は最新技術をふんだんに使用した。
当時まだ空を飛んだばかりだった気球を利用して敵軍の偵察を行い、電気通信によって高速で戦況を届けることができていた。
特に京都大坂に入ってからは鉄道を積極的に活用し分散進撃からの合流、攻撃によって幕府軍を翻弄し、次々に撃破した。
何より旧体制の打破を目前に見据えた国民軍は士気が十全にあった。
対する幕府軍の兵器は国民軍と比べて旧式で、戦術は100年前からの使い古しであり、畿内至る所で幕府軍は血祭に上げられた。
幕府は公式で用いられる通信技術は未だに腕木信号機に頼り切っており、その速度は雲泥の差であった。
幕府が財政難になるまでして作り上げた軍隊は役人の中抜きによって彼らの懐の肥やしになっていただけであった。
小早川氏の謀反があってもなくても関ヶ原の戦いの勝敗及びその結末に影響を与えなかったといわれるのはこのためだ。
将軍は臨時首都を宇品に定め徹底抗戦を声高々に叫んだ。
西国としても幕府中枢での発言力を増すために協力したのである。
そのため宇品を首都とすることに肯定的だった。
軍事的に見てみると、瀬戸内地域ならば主要な道路は一本しか通っていなかったし、海上戦力では明らかに幕府軍が有利だったからだ。
防衛戦に限れば、待ち伏せするだけで勝利できる地形である。
瀬戸内海も隘路であるため四国や中国からの監視の目をすり抜けての突破は不可能と考えられていたし、こちらも諸島に船体を隠して奇襲する形で強襲し、幕府軍は国民軍の瀬戸内海の突破を許さなかった。
宇品はまさに天然の要害であったといえる。
幕府はこの要害によって国民軍の出血を強要し、時間を稼ぐことによって革命の熱を冷まし、国民軍が弱体化、或いは意見が対立し内ゲバするのを待つ持久戦術をとった。
だが幕府は具体的に何を待っていたのか今のところ分かっていない。
幕府陣営は国民軍に間者を放っていたわけでもなく、ただ戦術的に耐え忍ぶのみであった。
一応講和の道も模索されており、幕府もある程度の譲歩は覚悟して特権階級の廃止や重税の廃止を検討していた。
だが国民軍は幕府の予想に反して弱体化することはなかった。
国民軍は弱体化するどころか近畿で大量の装備を手に入れてむしろ強化されており士気は向上。
大阪では大規模な徴兵が行われ、関ヶ原の戦いで被った被害を補填したことで国民軍は盤石な体制で瀬戸内地方に攻勢を仕掛けることができた。
その上臨時首都宇品でも革命騒ぎが巻き起こり、身籠っていた正室とともに将軍が捕縛され、抵抗するならば妻子の命はないと脅迫されるとその威勢は消沈し、降伏を申し出た。
これによって幕府軍は崩壊し、頭首を失った幕府軍は国民軍に1838年に降伏した。
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