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第31話 飛鳥独立戦争

どんどん長くなっていく……!

 日本はマレー戦争による財政危機に喘いでいた。

 それだけではない。

 これまで足利義彦などが行った数多の外征による財政負担が積り、植民地の鉱山の利益だけでは回収不能なほどにまで追い詰められた。

 この危機を脱するために様々な策が講じられたわけだが、その政策の一つとして植民地へ重税を課すことで財政を回復させようと躍起になった。

 これまでの植民地は入植を奨励するために税率は低率になっていた。

 低金利によって開墾は進みそれなりの土地になってきたのだが、そのタイミングで地租改訂を行うことは入植者にとって悪い意味で青天の霹靂であった。

 そのため入植者は本国に対して裏切りと見做したのだ。

 印紙税や塗料税、ガラス税など些細なことでも税収を得られるような法制度を整えたものの、植民地人からは愚民化政策だと批判を受けた。

 特に今日における固定資産税の全身である『地税』を導入した。

 これは農地如何に拘わらず全ての土地に対して税金をかける税であったが、これは専ら飛鳥植民地において大きな批判を巻き起こした。

 理由は飛鳥大陸の土地が広大であったからだ。

 それだけでなく、飛鳥大陸にはそれなりに多くの人口を抱えていたのだ。

 南陸は確かに巨大な領土であったが、人口が少なかったため個人が保有する土地も比例して大きかった。

 そのため税は大きいが土地の収益も大きいため何とかなっていたが、飛鳥大陸はそうはいかなかったのだ。

 飛鳥植民地の人口密度は東南アジア諸島とそんなに差異はない程度だったのだ。

 更に広大な土地柄故に杜撰な検地によって農耕地でなくてもそれと同等の利率の税を徴収されることとなり、飛鳥大陸内では飛鳥大陸を狙い撃ちする税であると酷評だった。

 しかも飛鳥大陸に安堵する大名たちは当然のことながら参政権は存在しなかったために、本国が一方的に制定した法律に従う必要があった。

 これに反発して税収を拒否すると、今度は日本政府が飛鳥関税局を開き、税の徴収を徹底するようになった。

 飛鳥は遠く離れた土地ゆえに貿易の統制を施工することが難しいため、出先機関となる飛鳥関税局を桑港に置いたのだ。

 これの設置は大多数の後世の人間に批判されている通り、飛鳥の人々は日本政府に対して敵意を隠さなくなるようになった直接的な原因であると言われている。

 飛鳥人たちは飛鳥関税局の役人に対して嫌がらせ行為や脅迫紛いの行為を行い、凄まじい抵抗を示した。

 日本政府と飛鳥植民地との間で急速に関係が冷え込んでいくと、日本政府は反乱に備えて飛鳥植民地への派兵を決定し、政府軍が桑港や北津、幕葉などに派遣された。

 おまけに日本政府は『軍隊協力法』を植民地の意向を無視して制定し、飛鳥人たちは軍隊に対して食糧の供給を義務付けられた。


 このような惨状では何も起きないはずがなく、デモの風景が日常化していたその時に上杉氏の軍団が飛鳥関税局を取り囲む事件が発生する(上杉事件)。

 しかし続々と到着する政府軍によって桑港そのものが包囲され、上杉軍は逆包囲を受ける形となった。

 それでも上杉軍は飛鳥関税局の包囲を解かなかった。

 上杉軍の民衆には断じて手を出さないという矜持が安直な突撃を自制し、この非暴力非服従の姿を民衆はその目に焼き付けることになる。

 これは日本初のハンガーストライキであり、その雄姿は飛鳥大陸全体に急速に拡散されたのだ。

 そのような事態の中、政府軍の中では理性が働かない者もおり、彼らが上杉軍に発砲する事件が起こった。

 この時発砲した銃が燧石(すいせき)式の竹内銃であり、文字通り戦争の引き金になった銃という事でその筋では有名なのだがそれはさておき、この発砲事件によって日本本国からのボイコット運動が盛んに繰り広げられた。

 更に本国のこの態度を見た飛鳥各国は危機感を募らせ、桜府(おうふ)にて徳川慶喜が議長となる第一回飛鳥大会議が開催されるに至った。

 この会議ではあくまでも本国日本に対して()()()()()()()を目的として飛鳥各国の様々な思惑がある中、統一した意思を本国に押し通すという理念があった。

 まずは各国が協力して日本本国からの輸入品のボイコットをはじめ、有事に備えて各地では民兵が徴兵されるようになった。

 民兵とは言え、植民地戦争を戦い抜いてきた飛鳥人にとってはこのような形の有事とはある種の日常であり、また手に取る装備は他の植民地とは違い他国の勢力が陸上で国境を接しているために潤沢にあった。

 この飛鳥大会議が政府の逆鱗を逆撫ですることになり、桜府に対する攻撃を決行させた。

 この時点で日本と飛鳥植民地の一時的な親子喧嘩というレベルを踏み越えてしまっており、もう後戻りはできないところまで来ていた。


 その道すがらである羽差(ぱさし)にて、集結する民兵と偶発的な戦闘に発展し、後に第一次羽差攻防戦と呼ばれることになるその戦いで、なんと飛鳥の民兵が勝利してしまったのだ。

 勝利の報を聞いた飛鳥の民は民兵となって羽差に集まり、日本軍は桑港に追い込まれてしまった。

 だが、これを機に日本飛鳥両者の外交的努力は全て水泡に帰すこととなってしまい、両者の戦争はもはや秒読み状態となっていた。

 そんな中、桜府で再び開かれた第二回大飛鳥会議にて、日本政府に対する宣戦が布告された。

 宣戦布告は規定事実だったが、話し合いの焦点があてられたのは、専ら飛鳥独立宣言と飛鳥国憲法についてだった。

 憲法はいくつかの草案が出来上がっていたものの公表は差し控えられ、その代わりに1802年に遂に宣戦布告と同時に飛鳥独立宣言が読み上げられた。

 この独立宣言は新大陸の東側で独立を勝ち取ったアメリカ合衆国の独立宣言に影響を受けており、基本的人権の尊重や革命権の自由、議会と将軍の暴政の苦情、そしてその本国からの独立宣言から成っていた。

 それと同時に議長である徳川慶喜を総大将とする飛鳥軍を結成し、各地で徴兵されていた民兵を飛鳥軍の麾下に編入し戦力を増強させた。

 さらに背後からの一撃に憂いなく日本軍と戦うために飛鳥原住民を懐柔し、独立戦争に協力するように要請した。

 独立成功が成就した暁には原住民族による大幅な自治が約束された。

 徳川慶喜が総大将に選ばれたのはやはり世代を跨いだ人徳によるものであろう。

 数代先の徳川綱吉は晩年に東北の諸大名とともに飛鳥大陸へと入植をはじめ、スペイン継承戦争においても徳川家の活躍は妙々たるものであった。

 その甲斐あって飛鳥大陸に多くの領土を保有し、圧倒的な経済力・軍事力を擁する徳川慶喜を差し置いて他はないと総員の一致によって彼が総大将となると決定されたのである。


 一方日本政府軍に協力した人間も多かった。

 それどころか、政府派と飛鳥独立派、それと立場を決めあぐねている者(中立)によって飛鳥植民地は三分割されており、混沌を極めた。

 飛鳥独立派は10万人以上集結した記録が残っているが、同数程度が政府に協力し、彼ら以外はほとんどが中立を維持している。


 最初に勃発したのは聖野瀬(さんのせ)城籠城戦である。

 聖野瀬が突破されてしまえば、桑港までほぼ要衝は何もなく、聖野瀬城の陥落は日本軍にとっても絶対に避けなければならなかった。

 それゆえに日本軍は聖野瀬城に大部隊を結集させた。

 その数は2万人にも上り、日本本国から派兵された軍の8割近くに上る数字であった。

 対して飛鳥軍は最初は5000人だったのが気付けば6万人にまで膨らんでおり、聖野瀬城の城郭は各地から集められた大砲の砲撃によってボロボロになっており、土を詰め込んだ樽で応急処置をする他なかった。

 その様は正に末期のコンスタンティノープルの様相を呈しており、聖野瀬城の命運は風前の灯火かと思われたが、実際には防衛側である日本軍が勝利した。

 理由としては、飛鳥軍の兵糧が尽きてしまったことだった。

 当初5000人で攻略するつもりだった聖野瀬になんと6万人も集結してしまったのだ。

 飛鳥軍は集結した軍を分散させようと躍起になっていたが戦意旺盛な飛鳥軍を追い返すことは政治的に却下された結果、聖野瀬城攻略に宛がわれることとなり、用意していた兵糧は見る見るうちに蔵から消えた。

 一方日本軍は聖野瀬城を城塞都市として完成させており、市内の民は桑港に退避させるだけでなく、聖野瀬市内にある港湾も未だに無事に機能していた。

 つまり、日本軍は桑港からの補給を受けられる状況だったのだ。

 これでは持久戦は日本軍側が圧倒的に有利な展開となっていた。

 功を焦った飛鳥軍は決死の突撃を敢行したが、聖野瀬城へのダメージは前述の応急処置によって緩和されており、日本軍は死守することに成功していた。

 日本軍は各地で植民地戦争を勝ち抜いてきた猛者であり、要塞防衛はお手の物だった。

 その上飛鳥軍は桑港湾の制海権を取れないことが何より気がかりであった。

 海上の通商破壊をやろうにも日本軍の戦列艦を擁する艦隊は飛鳥軍といえどもその実態は植民地軍であり抵抗できず海上から一方的な陸上の蹂躙が続いていた。

 かといって桑港湾の内部の隧寸(すいすん)湾は安全圏かと言えばそうでもなく、日本軍の小型船の侵入を許し、制海権を掛けた戦いがあちこちで始まる。

 だが飛鳥水軍は出口が防がれている以上増援が見込めないため、艦隊の保全に走り夜間の奇襲以外に対抗手段がなかった。

 日本海軍は飛鳥水軍の艦隊保全の方針を見抜くや否や桜川を遡上し沿岸地域に対する攻撃を強めた。

 守勢に回っているはずの日本軍であるが、海上では負けなしだったのだ。

 尚、陸上に(おい)ても装備も数は少ないものの射程距離が伸びた新型の大砲をいくつか配備しており、高度の差もあり、アウトレンジから一方的に砲撃出来た。


 飛鳥軍の敗北は兵糧不足に起因するものか、彼らにとって相当堪えたらしくその戦意は喪失していたと言われており、多数の重砲の砲撃音によって戦友が粉砕される様を直接見た者の日誌は、恐怖で文字が上手く書けておらず、ミミズがのた打ち回ったかのように震えていた。

 日本軍はこれを見逃すはずもなく、羽差にてリベンジマッチが行われる(第二次羽差攻防戦)。

 この戦役で日本軍はこのリベンジマッチに快勝し、3000名近くの捕虜を得た。

 日本軍は完全に勢いに乗った形となり、更に増援の到着も併せてここで一気に大飛鳥会議の解散のための大攻勢を立案する。

 そのためには桜府の占領と首謀者たちである大飛鳥会議に参加した大名、特にその議長である徳川慶喜の処刑は必須項目とされた。

 桜府攻略のために派遣された部隊総数は3万人にまで上り、桑港戦線における総兵力と同義であった。

 また桑港戦線を補佐するために弥納(やんな)に上陸し、邊鵞栖(べがす)の制圧に乗りかかった。

 ここは桑港平野の出口の一つであり、ここを封鎖することは増援の侵入を防ぐ思惑があった。

 しかし、最も大きい出入口は桜府であり、ここを制圧しなければどのみち敵増援の桑港平野への侵入は防げないのであった。

 弥納への上陸はあくまでも南部から侵入する部隊への牽制であったため、それほど大兵力を上陸させなかった。

 弥納は桑港、桜府と並んで飛鳥植民地の都心の一つであり、弥納の占領を以てして飛鳥軍は海上からの援軍は望めないことを意味していた。

 更に戦果を拡張すべく日本軍は聖騨宕(さんだご)沿瀬灘(えんせなだ)にも遠征したが、これはただ兵力を弄ぶだけにとどまった。


 紫取(しとる)戦線でも日本軍が優勢だった。

 飛鳥軍による三度に渡る紫取への攻勢も失敗に終わり、飛鳥軍は紫取を占領できないばかりか、増援を許す結果となり、その上幕葉で休息をとっていた部隊が奇襲を受け大敗すると幕葉(ばくば)を占領されて飛鳥軍が幕葉島に撤退する有様であった。


 北津戦線ではもはや戦闘に値しないと言った方が適切なほど、飛鳥軍は何もできなかった。

 しかしそもそもこの戦いは独立戦争の趨勢に全くと言ってよいほど寄与しなかった。


 だが大局的に観て日本政府軍が優勢かと言うとそうでもない。

 欧州各国が飛鳥独立の援助をすると約束したためだ。

 主にアメリカ合衆国、フランス共和国が表立って独立幇助を宣言し、新大陸東海岸から大量の武器が送られていた。

 日本はあまりにも嫌われすぎた。

 それを日本軍が防ぐ手立ては存在せず、敵戦力の強化をただ指を咥えて見ているほかなかった。

 逆に欧州各国が太平洋上に手出しをできなかったため対等と言えば対等であった。

 またイギリス帝国、スペイン帝国も実は裏で協力していた。

 イギリスは隙があれば自治領カナダの領域を増やすことが出来る絶好の機会であった。

 またマレー戦争で引き分け、大した領土を獲得できなかった鬱憤もある。

 今度はアメリカやイギリス、更にはフランスやスペインまでもが自陣営であり、負けようがない戦争であった。

 一方スペインも飛鳥の独立はヌエバ・グラナダなどの独立に繋がりかねない事態であったが、日本にそれらの領土が奪われるよりは遥かにマシであった。

 欧州各国は、()()()()()()()()()という信念だけは奇妙に一致していた。

 太平洋で覇を唱える日本への警戒感から飛鳥の分断を狙ったのだ。

 さながら世界vs日本といった構図であった。


 手始めにイギリス士官が飛鳥独立軍に招聘され欧州式の軍隊の訓令方法を享受した。

 これによって民兵の質が向上し、たかが民兵と侮った日本兵は辛酸を舐めさせられることとなる。

 またアメリカ・カナダ経由で援軍が到着し、日本軍と戦闘状態に発生することがあった。


 一番大きな戦いとなったのが、谷蒲(かんるふ)の戦いであろう。

 救援に来たイギリス軍と日本軍が迎撃する形で激突し、その戦いでは日本軍が勝利し、イギリス軍を追い払うことに成功する。

 これにより紫取方面における救援は絶望的となってしまった。

 今後、紫取方面ではあまり進展が見られなくなった。

 主要な都市は殆ど日本軍が占領し、民兵は瓦解したため、まともな戦闘が出来なくなってしまったのだ。

 この不利を覆す可能性があったイギリス軍の参戦だが、これが谷蒲(やかま)の戦いでの惨敗により増援部隊の到着が事実上不可能になった。

 紫取方面は日本軍の勝利だった。


 一方飛鳥軍はもはや有効な防衛を行っているのは桜府くらいしかなかった。

 そこではイギリスの敗退が知らされ、絶望が蔓延っていたが、これを徳川慶喜は必死に鼓舞して士気を保とうとした。

 これはただの精神論ではなく、確固とした勝機を見出していたからだった。

 そしてその時は遂にやってくる。

 桜府に内陸部からの増援部隊が到着したのだ。

 到着したその部隊は前述の通り欧州式の訓練を受けており、士気も十全であった。

 彼らが桑港平野に参陣してから日本軍は一気に形成を不利にした。

 救援部隊は桜府を包囲する日本軍を攻撃しこれを撃退すると、羽差まで追撃戦を行い日本軍を壊滅させた。

 態勢を立て直し、大崙(おおろん)にて決戦を仕掛けた日本軍であるが、勢いに乗った飛鳥軍を食い止めることが出来ず敗北を喫する。

 この戦いが分水嶺であった。

 桑港に迫る飛鳥軍を食い止める戦力と時間は残されておらず、守備隊は戦わずして降伏し、最も重要な局面だった桑港方面を失陥してしまう。

 この一連の逆転劇によって生じた被害は2万名にも上り、飛鳥軍の気概をまじまじと見せつけられる結果となった。

 この戦いが決定打となったことはもはや言うまでもないだろう。


 講和会議は飛鳥軍の占領下である桑港で行われた。

 桑港講和会議の結果、飛鳥の独立を認めることとなり、新大陸における主権をすべて失った。

 国境は新久石半島以西は日本領とされ日本と飛鳥の国境は策定された。

 つまり、日本は飛鳥大陸の植民地をすべて喪失したことになる。

 その代わりに日本政府はハワイ諸島の権益の承認を取り付けた。

 

 飛鳥は首都を桜府と定め、後に『桜都』と改称し(『府』という漢字は日本の機関がある場所をイメージさせ、心象が悪かった)、砂漠の都から始まったこの都市は新大陸最大の大都市として更なる発展を遂げていくことになる。

 講和会議に呼ばれたのは日本と飛鳥だけではなく、アメリカやフランスといった参戦国も参加した。

 但し、スペインはまだしも、直接援軍を派遣したにもかかわらずイギリスは招待されなかった。

 対した結果を残せなかったからだと言われている。

 飛鳥は独立戦争に参戦し桜府の救援に貢献したとして三獅子(みしし)川以東をアメリカに領有権を認めて、事実上、三獅子川を国境とした。

 これは第二次ルイジアナ売買と言われることがある。

 もともとフランスからのルイジアナ植民地の購入によって陸上で接していた日本とアメリカの国境だが、アメリカの迫害によって逃れてくるアメリカ大陸原住民や逃亡した黒人奴隷などに全く対応できておらず、彼らは各地でスラム街を形成し治安の悪化を招いていた。

 どうせ管理できないならばフランスの自然国境説よろしく河川まで国境を撤退させるのが得策だという考えに至ったのだ。

 国際架橋となり、陸上国境となったのは南部の新織(におり)、中部の辿涙(せんるい)、北部の水丹(みに)である。

 イギリス自治領カナダとの国境も画定され、ウィニペグ湖、レーンディア湖、ウォラストン湖、ブラック湖、アサバスカ湖、グレートスレープ湖、グレートベア湖を経由してレイ川河口までのラインを国境とした。

 その他、協力的だったアメリカ原住民には自治領を付与したが、日本政府軍に協力した原住民には容赦しなかったと伝わる。

 そのため飛鳥内陸部は主要幹線道路を除いて現代まで大自然が残る自然豊かな地方となった。


 さて、独立したばかりの飛鳥であったが、特に日本との関係構築に腐心した。

 一応書類上は日本から独立を勝ち取ったが、ハワイが日本の勢力圏に入っているという事実は、飛鳥をいつでも攻撃できるという事を示していた。

 また、戦争とならずとも東海岸の制海権を確保できずに太平洋に飛び出していくことも大変危険な行為であった。

 北津はハワイから遠距離であったが、そこは阿龍山列島から近しいことから航路は開拓されなかったし、その上陸路で繋がっていなかったため新久石地方全体は陸の孤島と呼ばれていた。

 そもそも飛鳥北部は先住民以外はとても住めた場所ではなく人口希薄地帯だったため、需要もない。

 よって、金山銀山で得られた資本の初期の投資先は専ら内陸部であった。

 飛鳥が目指したのは太平洋の覇を唱える日本に挑戦し、『海上帝国』を築くことではなく、新大陸の覇者を目指す『陸上国家』になることであった。

 特に国境を接する陸上国境を接するヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)、アメリカ合衆国、イギリス自治領カナダの存在も無視できなかった。

 そのためにまずは州(国)間で連結していなかった道路を整備するところから始まった。

 日本による資本の投下は桑港平野など港湾都市に限られ、内陸までは届いていなかったのが実情である。

 特にヌエバ・エスパーニャはスペイン継承戦争で荒野だったとはいえ、国土の半分以上を簒奪された憎悪があったし、イギリスも自治領の拡大を虎視眈々と狙っていた。

 そのようなこともあり軍をすぐに戦線に展開できるようにインフラストラクチャーの整備を始めたわけである。

 だが、ただ闇雲に道路を引けばいいという安直な問題でもなかった。

 自治領との兼ね合いもあったためである。

 特に飛鳥北部は新久石地方を除いて殆どが自治領であるため、ほぼ野ざらしにされていた。

 この状況は狡猾な英国の介入を招く恐れがあった。

 そのため自治領の土地開発を認めるように原住民に要請したが、突っ撥ねられる結果となり進展は見られなかった。

 しかし自治領が謀反を起こすそぶりを見せることも、英国が介入するそぶりも見せなかったため、ひとまずこの問題は棚に上げられた。

 実際英国としては下手に触れば飛鳥の参戦を招く可能性が非常に高いため、自治領カナダの勢力圏は現状で満足していた。

 一方ヌエバ・エスパーニャは本国スペインが財政難に陥っていたことからそれどころではない。

 むしろメキシコはスペインからの独立志向が年々高まっており、革命騒ぎが常態化するという酷い有様であった。

 このことからも、飛鳥は国境を陸上で接続する各国を警戒しながらも内需に力を注ぐ方針を続けた。

あまりにも地名が多すぎたのでメタ情報

桑港(そうこう):サンフランシスコ

羽差(ぱさし):ストックトン ヤクッツ族の村「パサシマス」より

桜府・櫻府・櫻都:サクラメント

紫取(しとる):シアトル

聖野瀬(さんのせ):サンノゼ

弥納(やんな):ロサンゼルス スペイン統治時代のロサンゼルスの地名

邊鵞栖(べがす):ラスベガス

聖騨宕(さんだご):サンディアゴ

沿瀬灘(えんせなだ):エンセナダ

幕葉(ばくば):バンクーバー 幕葉島:バンクーバー島

谷蒲(やかま):ヤキマ

大崙(おおろん):フリーモント オイロサム族の村「オーロン」より

新織(におり):ニューオーリンズ

辿涙(せんるい):セントルイス

水丹(にみ):ミネアポリス ダコタ語で水を意味する「nmi」より



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