第30話 植民地 ★
しばらく休みます。地図作るのが楽しいのです。小説のほうにも反映しますので許して……。
一応33話くらいまでは執筆しているのですが、投稿するかどうかは未定ですね。
初めに行わなければならなかったことはアチェ王国の処分だった。
東南アジアから徴兵された植民地軍とマレー戦役に参戦した兵士による果敢な攻撃によってアチェ王国の反乱はすぐに鎮圧される。
協議の結果、当然ながら彼らに独立が許されることはなかった。
大幅な自治を許していたアチェ王国が謀反を起こした本戦争で日本本国は南洋の植民地経営の方法の大転換を迫られた。
これまで政治的に不介入を貫き通してきたが、今度はその真逆、積極的な介入を試みるのである。
日本は東南アジアという広範な土地を征服するにあたって数々の少数民族もろとも併呑していた。
取り込んだ少数民族の数は規模の大小あわせて1000以上にも到達した。
とはいえ、その少数民族の人口は統計によれば多くとも30万人を上回ることはなく、日本の庇護下で自治を許されているだけでも充分の少数民族が大多数だった。
統治を受ける民族のほとんどが産まれたときから日本人に統治されており、例え血統上は大和民族でなくとも、日本人と自覚している場合が多数だった。
日本本土で発生した人口爆発によって日本の住む場所が残されていない貧困層が海外に進出し、数世紀に渡って同じ土地で同居したことで混血が進み、人口が少なかった少数民族は同化、あるいは淘汰されたのだった。
西班牙地方でも原住民族が多い地域であったが、迫害と混血が進み人口は大きく減少していた。
ナショナリズムが広まりを見せる中でも、彼らは大半が日本語話者であったために固有の言語を持たず、民族意識に覚醒することはなかった。
文字はともかく、話し言葉は固有のものを保有して、現在も話者が多い種族は稀有な存在だった。
そのような状況下にあっても民族意識に目覚めた人々は急速に発展しつつあった出版業でナショナリズムの高揚を試みた。
しかし組織された秘密警察がそれらの出版を取り締まり著者を逮捕するなどして厳格な対応を取った。
秘密警察は夜の間に人知れず行動したため、革命思想を持つ者らからは『黒いナイフ』と恐れられた。
こうして長年の教育と弾圧によって革命は回避されていた。
だがしかし、ジャワ島、スマトラ島、その他インドシナ半島は例外である。
これらの土地では元々の人口が多かったことに起因して日本人が多数派を形成するに至らず、各地で独立運動が発生した。
これらの島々の日本人の割合はメジャーどころにおいてもスマトラ島では民衆の5%が、ジャワ島では2%と、その他は様々な原住民族であり、直近で日本に編入されたインドシナ半島に関しては在住するのはそのほとんどが支配者層や上流階級の人間のみであったと言われている。
特に問題となったのが、東南アジアを征服するにあたって多くを取り込んだイスラム教徒である。
彼らは寺社勢力と度々抗争に発展し、各地でモスクや寺社の焼き討ちが相次ぎ、治安の悪化は止まるところを知らなかった。
しかし、被支配層は革命を成功させることができなかった。
理由は様々あったが、陸海軍の根拠地は日本人が多数派を形成した場所であったため、大きな暴動が直接軍に被害を与えることなく、軍が革命鎮圧のために冷静に出撃する体制が出来上がっていたことや、そのような根拠地が各地に点在していたからだとされている。
日本は欧州諸国のジャワ島侵攻や内乱に素早く対処するためにジャワ島北部を横断する道路『北爪哇道』を建設していた。
表向きは商業の活発化のための街道の整備だったため、原住民は挙って工事に志願したが、実態がこれでは裏切られたと言われても仕方ない。
また、マスメディアを席巻していたことも大きい。
革命派、独立派は混沌をもたらす悪辣なる悪者として書き連ねられたのに対して穏健派は平和的解決を願う民族の守護者として称賛された。
結果として穏健派はその数を増やしたが、急進派は支持を得られなかった。
対抗して急進派も独自の新聞を発行したのだがナショナリズムを高揚する目的で民族的オリジナルの言語で新聞を書いたのが悪手だった。
100種を超える東南アジアの言語に対応した新聞を執筆することなど不可能であり、共感する以前に民衆の大半は読めなかった。
そのためこれらの主義主張が東南アジアで伝搬することはなかったのである。
穏健派は政府に対する要求として「国内での民族自治」程度にトーンを落としたものを求めていた。
国内は未だにイスラム教を認可しておらず、宗教の自由が日本には無かったのだ。
そのため、イスラム教が許可されているマギンダナオ王国やジャワ島、スマトラ島にムスリムが集結するが、建てられるモスクの数は制限されていた。
その分寺社が進出し、ムスリムのストレスのもとになっていく。
本国政府の内部でも、急進派の鎮圧が達成されれば穏健派の意見が認められることになっていた。
政府は飴と鞭を巧みに使い分けることで各地で発生する暴動を沈静化させ、一応の自治を許容する。
こうしてジャワ島やスマトラ島で誕生した自治州において指導者であるスルタンがイスラム教を復活させ、モスクも各地で建立された。
ただし、スルタンの任命権は日本政府が保有しており、手綱は本国が握っていた。
スルタンも突然就任させられても政治のことは門外漢でさっぱりであった。
そのため、政治に一日の長がある日本人が占める州執権委員会が発足し、州執権委員会が出した結論をスルタンが追認することで体裁を保っていたため、実質的な権力は州執権委員会役員が握っていた。
州執権委員会は司法・警察・行政その他すべての権利を有していたため、その地の絶対的な権力として君臨し、汚職も多かったが反乱騒ぎや独立闘争に比べれば大したことはなかったであろう。
統治を開始した直後の18世紀以来、杜撰だった統治機構を刷新し、農業分野にて大改革を敢行。
大規模かつ効率的なプランテーションを大量に準備して、インディカ米の量産体制を整えた。
それだけではなく、サトウキビ、ゴム、コーヒー、紅茶、キニーネなどの商用植物の大規模プランテーションも導入して国内外に販路を広げ、大きな利益を上げることに成功する。
ジャワ島は大日本帝国の食糧庫と呼ばれるほどの穀倉地帯になった。
なお、ゴムノキに関しては、マレー原産のゴムではなく、ブラジルのパラゴムノキである。
七年戦争で獲得した南米チリから密偵を送り込んで、当時は極秘のレシピだったパラゴムノキの種子を入手したといわれている。
だがその改革の裏では現地住民の血と涙があった。
日本政府は商用作物の利益率を上げるために、意図的に農民の生活水準を引き下げた。
結果的に農村部の生活水準は政府の想像通りに悪化し、農民は収益の半分以上を税として納めなければならなかった上に、国家事業のインフラ整備に労役として駆り出された。
さらに農場分割禁止制度の解除と分割相続制度の導入は、小農的土地経営の更なる零細化に拍車をかけた。
こうして破産し土地を失った農民を資本家は彼らから奪った土地から作られたプランテーションに集めて酷使し、原住民は動物以下の扱いを受けた。
バタヴィアやスラバヤなどの都市で働こうとしても広範な領土を有する日本の中では比較的田舎であったジャワ島は近代化を成し遂げた都市は珍しく、工場労働者の倍率は著しく高かった。
万が一採用されたとしても一日18時間働かされた挙句日給は雀の涙。
文字通り死ぬ気で働いても待ち受けているのは極貧生活の後の餓死であり、都市部では児童の餓死が相次いだ。
そういった彼らを慰めたのは酒と、そしてアヘンだった。
資本家は酒の製造権・販売権を独占すると輸出用の穀物の一部を酒の原料に回して農民に売りつけた。
これによりただでさえ乏しい農民の所得を残らず吸い上げ、それによって資本家は更なる現金収入を確保したのである。
一方アヘンは疲労回復の効果があるとして労働者の中で大いに流行った。
インドシナ半島で栽培されたアヘンの流通を植民地に意図的に流通させていた。
それだけでなく鎮痛作用や陶酔作用によって一日何時間働いても疲労しないという万能ぶりから『魔法の粉』と呼ばれた。
資本家は工場労働者にはアヘンを配布して人体の限界を超えて労働させ続けた。
被害者は大人にとどまることはなく、泣きじゃくる子供にはアヘンを吸引させて黙らせるという鬼畜の所業が横行したのも、男女関係なく重労働に駆り出されて育児に当てる時間なんてものが全くなかった故の悲劇であった。
ジャカルタなど諸都市では工場の煤煙が立ち並び、工業化の象徴として『霧の都』と雅称かのように呼ばれたが、実態は光化学スモッグであった。
餓死を免れた者はもれなく都市の霧の正体たる光化学スモッグに肺をやられて喘息で死に至る。
そうでなくとも本国とは違って労働者の家屋に上下水道が完備されているわけがなく、不衛生が祟ってコレラに感染したとしても診療してもらえる経済的余裕は何処にもなかった。
この時の諸都市に流れる河川は揃ってドス黒く変色していた。
河川で死の天使アズラーイールが舟を漕ぐ風刺画はあまりにも有名だろう。
むしろ雨風を凌ぐ程度でも家があるだけまだ労働者階級の中では上位であり、酷い場合はスラムや路上で生活する他なかった労働者は星の数ほどいたことから物乞いはもちろん、窃盗や詐欺が横行し、治安は国内最悪だった。
特に悲惨な運命を辿ったのは子供たちである。
農村部では子供は労働力として当たり前に利用されたからか親は子供を出稼ぎとして都市部の工場に送り込んだ。
特に炭鉱は細い坑道を掘る都合上、未成年労働者のニーズが高く過酷な労働に従事させられた。
これほど大量に子供が工場労働者として従事させられたのは、産業革命によって職人的な技術が必要なくなったことによって子供でも労働力として見做されるようになってしまったことが最たる理由だった。
都市の労働者は貧しさから栄養状態も悪く、平均寿命が20歳に満たなかったという記録もある。
流石に子供に重労働は酷過ぎるということで制限しようと議論の的になったこともあったが、利潤を重視し倫理観を軽視する社会性によって黙殺された。
工場を経営する資本家からの賄賂によって政治家は閉口するようになる。
まさに「資本家の、資本家による、資本家のための政治」がそこにあった。
ジャワ島に住んでいるのはジャワ人と日本人だけではない。
東部にはスンダ人が、マドゥラ島とその周辺にはマドゥラ人が住んでいた。
彼らとの対立構造を明瞭にするための火種をばら撒いた。
ジャワ島内では日本語が公用語として叩き込まれたが、第二公用語として各自治州、王国、自治県の主要な民族の言語を採用し、言語の壁を築き、隣国の分断を試みた。
日本語教育は兵役のためのもので、流暢な日本語話者は下士官になることができた。
こうして大多数を占めるジャワ人によるジャワ島統一という大きな脅威を民族対立を利用することで細分化して反乱の危機を縮小することが出来た。
やがて、独立の機運も一度は沈静化し、大日本帝国による統治を甘受するようになる。
反乱の鎮静化を受けて幕府は東南アジアを同化するために行政の大改革を行った。
インドシナ半島、マレー半島、スマトラ島、ジャワ島、小スンダ列島、ブルネイ島、スラウェシ島、マルク諸島を南洋地方(その他、八洲地方、西班牙地方、南陸地方が存在する)という大きな括りでまとめ、大陸領ではインドシナ自治州、マレー自治州、島嶼領ではスールー王国、ブルネイ王国、マカッサル自治州、マタラム王国、バンテン王国、ブランバンガン王国、マジャパイト自治州にて自治を許容した。
「王国」は単独の王朝によって支配され、「自治州」は複数の王国を連合としたものである。
自治州や王国としての行政区分が許されなかった場所でも、下級区画においてはアチェ自治県、マキンダナオ自治県などにおいて権力は小規模ながら自治や宗教の自由などが認められている。
殆どの自治州や王国ではイスラム教が信仰されていたが、ブランバンガン王国とマジャパイト自治州ではヒンドゥー教が信仰されていた。
なお、地政学的に重要と思われたシンガプーラとバタヴィアは日本の直轄地として日本領に編入している。
ペナン島もその中の一つであったのだが、残念ながら失陥してしまった。
南洋地方
大陸領
インドシナ自治州
マレー自治州
紲星連邦市 ※旧シンガプーラ島
(肥野連邦市) ※旧ペナン島(現在イギリス領)
島嶼領
ブルネイ島
大寧州
ブルネイ王国
スールー王国
スラウェシ島
三湾州
マカッサル自治州
マルク諸島
澄海州
スマトラ島
諏訪奈州
アチェ自治県
ジャワ島
南京連邦市 ※旧バタヴィア
バンテン王国
マタラム王国
ブランバンガン王国
小スンダ列島
マジャパイト自治州
なお、このような統治機構を確立した彼は、欧州の多民族国家である某二重帝国を参考にしたと後年自著に綴っている。
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