第3話 経済の立て直しと鉱山開発の始まり
一揆によって年貢による税収に綻びが出てくる。
刀狩りを行ったことで民衆の力は弱体化したとは言え、その影響力までは拭いきれなかった。
増税を行おうとすれば、飢饉によって疲弊した百姓による一揆や打ちこわしが発生してそれは幕府の頭痛の種となっていた。
当時はまだ金山銀山の開発が途上であったため、税収の主力は当然のことながら米であった。
それまでの収入といえば年貢であり、これは単純に米ばかりではなかったが、その年の天候によってその量が左右される非常に不安定な財源であった。
さらには米本位制にはある落とし穴が存在し、それは米が豊作すぎると米価が安くなって逆に貧乏になるというもので、非常に繊細な税収であり、人間には時価のコントロールは到底不可能であった。
これに質素倹約政策で対抗しようとしたが、これは神への挑戦に等しかった。
増税と極度の倹約政策によって農村は疲弊し一揆は増大、町の経済はガタガタになっていた。
必然的に幕府は年貢以外の財源の確保を模索するようになる。
苦肉の策ではあったものの、とにかく真新しかったのは商人へ課税を敷いたことだった。
これまでは暗黙のタブーであった商業資本の積極的活用による重商政策に舵を切っていくことになる。
まずは財政の健全化のために倹約はそのまま一貫し、主要な税収であった米の年貢の量を維持しつつ、さらに商人から安定的に税を取ることによって新たな財源を確保し、年貢の流動的な部分を補おうとした。
誤解の無いように忠言すると、流通税はあくまでも補助的な位置にあり、主力の税収は米であることには変わりなかった。
他にも収支だけでなく、支出の面でも改革が断行される。
まず、予算制度を確立し、その年の予算を幕府各部局に割り振り、その中でやりくりをするように命じた。
予算編成のためには勘定奉行所の役人と老中の過半数を認めさせなければならず、これが認められれば予算成立とされた。
これまでのように、ただ闇雲に倹約倹約と口酸っぱく言うのではなく、これからは上限を決めてその範囲内で節約することにし、それまでは場当たり的で、どんぶり勘定であった財政を刷新した。
将軍関係の予算にもメスが入れられ、将軍の生活費は大幅に削られ、これまでのような豪遊をしようものなら監査部から厳しい詰問が届くため、憚られるようになったという。
征夷大将軍は日本の最高権力者であるにもかかわらず、やたらと庶民的なキャラクターが多いのはことためだ。
経理の状態も毎年計上されるようになり、減価償却や引当金の制度化も行われ、不測の事態に対応できるような状態を構築した。
だがさすがにこれには足利氏も当惑したが、勘定奉行は伊勢貞親に都合の良い人間で固められていたため、彼が生存している間は好き勝手に予算を編成することができた。
そのため伊勢貞親とタッグを組む足利氏もこの改革に首を縦に振る。
次に税制改革を行い、流通グループごとに組織される株仲間を公認・奨励し、商品販売の独占権を与える代わりに運上、冥加金と呼ばれる営業税、いわゆる間接税を導入した。
今でいうところの法人税に近い代物である。
古くから武士にとっては商人は卑しいものであるという認識ゆえに保守派(特に武士)からは幾分かの抵抗があったが、そのような些細な抵抗は無視された。
さらにこの一環として幕府の専売のもとに銀座や真鍮座、塩座などを直営にする様々な『座』が誕生し、京の各地に設けられた。
京都と大坂はこの頃から商人の拠点となり世界に名をはせる経済都市となっていく。
大阪湾から遡上する二大航路の安治川と木津川の分岐点でもある中之島の開拓を行うと諸国の蔵屋敷が集中し、全国各地の物資が集積する天下の台所として大坂の中枢を担った。
幕府は大名の統制のために石高を専ら利用したため、米の生産量は国力の象徴となり、諸大名は競って米の増産に勤しむこととなった。
余剰の米は都市部に高く売却して経済力をつけていく。
日本海側の米所と大坂を結ぶ西廻り航路が開拓されたこともそれを助長した。
そうした米が日本の中心港湾都市である大坂に各地から持ち込まれ、日々取引されていたわけだが、当時の米の価格は買い入れる仲買人によって無秩序に決められ、質や量、規定もバラバラで、それがしばしば市場に混乱をもたらしていた。
そこで全国の米相場の基準となる米市を設立した。
米会所では米の所有権を示す米切手が売買されており、ここでは、「正米取引」と「帳合米取引」が行われていた。
正米取引とは現在で言うところの現物取引、帳合米取引とは先物取引を意味する。
堂島米会所は世界初の本格的な先物取引市場であった。
貨幣の流通は即ち、貴金属の価値の急騰にすぐさま結びついた。
そこで幕府は全国に山師を派遣して、金鉱山は佐渡金山、銀鉱山は石見銀山・院内銀山・生野銀山、銅鉱山は足尾銅山・別子銅山・日立銅山が発見され、それぞれの領地を幕府は直轄地とし、奉行所を設置して貴金属の採掘に注力した。
それと同時に伊勢貞親は各奉行所にアドバイスとなる資料を提出し、その中には木材で補強された坑道内部に軌道を建設して、畚と比較して輸送力を格段に向上させた車(軌道車)を書き示していた。
後にこの技術が応用され、軌道馬車が誕生し、都市部と都市部を繋ぐ交通の革命児となった。
山師に対しては螺旋状に加工された錐を手回しハンドルで回転させ、地中を掘り鑿井する手段も講じていた。
鉱山は発見次第に幕府が所有し直轄地としたため、採掘権を独占することが出来た半面、諸国にとっては発見しても領土を削られるというデメリットだけで、何のメリットもなかったため、後に改められ、発見次第その国は数年に渡って減税や免税の対象となった。
ともあれ幕領となった各鉱山は幕府の監督下で開発されるようになり、今後1世紀に渡って幕府の財政を潤すことになる。
幕政に携わる者からは『幕府の金庫』と呼ばれていた。
貨幣政策も積極的に行われ、これまで流通貨幣は東西によって差異がみられ、西は銀遣い、東は金遣いであり、さらには測り方も西の天秤と東の計数であり全くばらばらであり、これらに加えて明銭も存在したため、これを統一しようとしたのだ。
灰吹法によって精錬された良質な金銀を使って1481年に鋳造された文明銀の流通は、それまで分かたれていた東西の経済圏を結合し、活性化を促した。
これら金銀が国内に流通すると徐々に都市部から通貨は米から硬貨へと移り変わっていく。
もともと物々交換が多かった村落でさえ、貨幣経済が主流になりつつあった。
このタイミングで幕府はこれまで使っていた明銭を改めて、独自の通貨を発行した。
それが、レートこそ違えど現代まで引き継がれる『円(日本円)』である。
これを日本国内で流通させることができた理由は京都と大坂で円以外の通貨を受け付けなかったからだと言われている。
これはつまり各国は支出の半分以上を占めるとも言われた参勤交代で京に滞在する都合上、必ず円で取引する必要があったからだ。
大名が集結するとあって大坂で行われる米の取引量は4割以上に上ったと言われている。
さらに京の滞在費なども必要なので、これまでの明銭よりも円のほうが都合がよく、参勤交代の旅費も置換されることとなった。
こうして円が流通したのである。
また、当時当たり前であった税関の撤廃は都市から農村への流通が活発化する要因となり、これも経済の流動性に助力を添えた。
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