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第27話 七年戦争

投稿遅れて申し訳ない。

 しかしこの事態をオーストリアは静観していたわけではなかった。

 プロイセンを「シュレジエン泥棒」と侮蔑し、彼らへの復讐心に燃えていた。

 そしてその成果は外交革命として無事実る。

 オーストリアはこれまで犬猿の仲だったフランスだけでなく、スウェーデンやロシアとも同盟を締結。

 プロイセンの大地を焦土化する気概で戦いに挑んだ。

 1756年から始まる七年戦争の始まりである。

 プロイセン陣営としてイギリス、日本、ポルトガルなどが参戦し、復讐に燃えるオーストリア陣営はフランス、スペイン、ロシア、スウェーデンなどが参戦した。


 七年戦争、それは戦場となった範囲だけを見れば世界大戦そのものである。

 欧州はもちろんのこと、インド亜大陸や南北アメリカ大陸やアフリカ大陸でも戦いが勃発していた。

 参加戦力としても、オスマン帝国以外の主要国は全て参戦していた。

 この時期の戦争は各国の利害関係や同盟関係が(もつ)れに縺れた結果、このように欧州の全土、それどころか世界各地に戦火が波及することがしょっちゅうであった。

 当然日本といえども例外ではない。

 日本も北米での利権を獲得するために戦争に参加した。

 目標はフランス領ルイジアナ(ミシシッピ川以西)の獲得である。


 欧州では日本正規陸軍の参加は見送られたが、代役として日本人傭兵(浪人)集団である『大和武士団』が当てられた。

 傭兵集団といえども彼らはその兵力は約6000人にも上り、報酬の如何によっては騎兵はおろか砲兵というオプションまで拵えていた。

 特筆すべき点は日本やアジアで見られたような和風の甲冑に刀を装備した武士然とした風格ではなく、砲や小銃の煙霧の中でも戦闘できるように鮮やかな軍服を着こんでおり、郷に入っては郷に従えといったところか、西洋の作法をも身に着けていた。

 ここまでくるともはや肌色が違うだけのヨーロッパ人である。

 全時代の日本人傭兵を『前期浪人』、欧州で活躍した彼ら大和武士団を『後期浪人』と定義する場合が多い。

 それほどまでにまるで別物である。

 スペイン継承戦争以後から戦場に現れ、主に四国同盟戦争やポーランド継承戦争、オーストリア継承戦争においても陣営を問わずに参加し、時には民族的同士討ちをすることもあった。

 主人のためなら獅子奮迅の活躍をした一方、報酬が履行されないと見るや否や現地で略奪を働いたということから良くも悪くも「ローニン」は畏怖の目線で見られていた。

 18世紀は()()()()()()()()()()()()()()()こともあって、傭兵事業は盛況を見せ、土地を継承されなかった次男などの就職先になった。

 当時土地など遺産を相続できなかった農民の就職先は南洋會社の船乗りか、軍へ入隊するか、工場や炭鉱で重労働を強いられるか、あるいは傭兵だった。

 彼らは金のためならたとえ国益に反することでも遂行することで国内外で知られていたが、一応日本正規軍が参戦した場合には自制、若しくは国軍に従属したことから、国外では日本の尖兵、あるいは準正規軍と考えられていた。

 今回の戦争においてもフランスと敵対するイギリスやプロイセンの味方に付いて、飛鳥大陸では日本正規軍がヌーベル・フランスに侵攻し、浪人たちは飛鳥大陸におけるメキシコ湾の港湾都市である川嘉良(かわから)から欧州に向かって出港した。

 このような血の輸出は首脳部でも問題として議題に上がっていたが、血の気の多い奴らが国内で暴れるよりかはマシであるという結論が出たようである。

 彼らに対するガス抜きを怠れば本国にその影響が出てくる。

 適当に暴れさせるのも仕方のないことだった。

 そしてそれがついでに国益にかなうものであると言われれば、制する必要はなかったのである。

 反対意見として、とある軍人曰く「彼らは戦争を生業にしている。国益のための戦争をしている我らとはまるで違う。対策を講じなければ我が国益にとって致命的な要因になるであろう」という意見もあった。

 この意見には実際先見の明があった。

 彼らは後に飛鳥独立戦争勃発時に重要な立ち位置にいたのはまた別の話。


 まずは南北アメリカ大陸の戦闘について述べよう。

 フレンチ・インディアン戦争とも呼ばれる本戦争は、はっきり言ってフランスにとっては負け戦もいいところだった。

 理由は制海権をイギリス海軍が握っていたこともあって大規模な補給と増援を輸送することができず、結果として現地の住民に死守してもらうしかやりようがなかったのである。

 その代わりに原住民族との軋轢が比較的緩慢だったフランスは原住民族と同盟を組み、防衛を試みた。

 なぜフランスと原住民族が比較的穏やかな関係にあったのかというと、フランスが植民地を拡大する目的が毛皮の獲得にあったからである。

 日本やスペイン、イギリスのように土地を開拓するために原住民族を虐殺することはあまりなく(無いとは言っていない)、原住民に対して毛皮の獲得を依頼する間柄だったという。

 なのでヌーベル・フランスは広範な範囲だが、実態として領土的価値は毛皮の狩場以外に無かったのである。

 ましてや、ほとんどの場所でフランス人が入植していたわけではない。

 彼らはただテリトリーを宣言したに過ぎないのである。

 フランスは北アメリカ植民地に関しては欧州における勝利の後、講和交渉でヨーロッパの領土を獲得する代わりの捨て石として活用しようとした。

 そのため、日本軍はさしたる抵抗を受けることなく内陸部に浸透し、ミシシッピ川を拝むことになる。

 あまりの軟弱なフランス軍に日本軍も戦略を切り替え、戦後を見据えて可能な限り領土を拡大する方針に変換する。

 今や日本における七年戦争はどのようにして勝利するかという次元からどのようにして戦後を立ち回るかというステージへと足を進めていた。


 手始めにカリブ海のイスパニョーラ島に上陸を開始する。

 西部はフランス領サン=ドマングとして砂糖やコーヒーの貿易で利益を上げていた領土だった。

 フランスの新大陸植民地の中でもとりわけ裕福かつ稼ぎ頭だったサン=ドマングの失陥は何としても防ぎたかった。

 が、本土防衛を優先するフランスにここを守備することは出来ず、サン=ドマングは陥落する。

 ここを失うことはさすがにフランスも想定外だったようで、影響はすぐにフランス全土に波及した。

 更に東進してスペイン領サントドミンゴに侵攻してイスパニョーラ島全域を支配下に置いた。


 南アメリカ大陸ではスペイン領チリに上陸を仕掛け、これを征服し、その戦果としてチリ南部やファン・フェルナンデス諸島を獲得した。


 次にインド亜大陸戦線、こちらは第三次カーナティック戦争と呼ばれている。

 主に戦争を主導したのは正規軍ではなく、南洋會社の傭兵とフランスとイギリスの東インド会社だった。

 すでにベンガル地方南部に勢力圏を拡大していた南洋會社はベンガル太守シラージュ=ウッダウラからカルカッタを奪取すると1757年のプラッシーの戦いで彼を廃位させ、シャンデルナゴルを占領したことでベンガル地方における南洋會社の勢力は確定的となった。

 南インドにおいてはフランスがカッダロールを占領したもののマドラス包囲戦に敗北し、ヴァンディヴァッシュの戦いでイギリスが決定的な勝利を収め、北サルカールに侵攻した。

 その後カリカルやマヘなどのフランス植民地が降伏したことでインド亜大陸からフランス勢力は消滅した。




 話を日本人傭兵から欧州における戦争の推移に戻そう。

 イギリスとプロイセンが欧州では同盟を結んだことは先にも述べたとおりだが、イギリスはプロイセンに協力しようという気は毛頭なかった。

 実際イギリスは大陸に一切の軍隊を派遣することなく、植民地に派遣することでフランスの植民地を蹂躙。

 結果としてフランスが植民地にてボロ負けする主要因となってしまった。

 フランスとしてもそれは防げないと分かっていたからこそプロイセンを叩くことで可能な限り講和条件を緩めようと画策していた。

 つまり、見捨てられたプロイセンの状況はどういうことかと言うと、ロシア、オーストリア、フランス、スウェーデンからの四方向、つまり全方位が包囲されている最初から末期の様相を呈していたのである。


 さすがに絶望してプロイセンも早期講和に打って出るだろうとフランスは考えた。

 そうすれば植民地の失陥は少ない。

 上手くいけば戦略的にはフランスの勝利だった。

 しかし、プロイセン軍は逆境にも拘らず初戦を有利に進め、ロスバッハの戦い、ロイテンの戦い、ツォルンドルフの戦いなどで相次いで勝利した。

 相手はプロイセンの30倍の人口、2倍の軍隊を有し、しかも真面な同盟国はイギリスだけであるが、彼らは経済支援程度のことしかしない。

 そんな相手に拮抗状態に持って行ってしまったのだ。

 無敵軍かと思われたがしかし、そうは問屋が卸さないと同盟国側も反撃に打って出る。

 1759年のクーネルスドルフの戦いでプロイセン軍は壊滅的な敗北を喫する。

 プロイセン国土は蹂躙され、東プロイセンはロシア軍が占領、王都ベルリンはオーストリア軍の侵入を受けた。

 この事態に軍事の天才と呼ばれたフリードリヒ大王も勝機が見えなくなり、毒を仰ごうとしていた。

 だがここで奇跡が起こる。


 1762年、突如としてロシアの女帝エリザヴェータが死亡したのである。

 後継者のピョートル3世はフリードリヒ大王の熱狂的な信奉者であり、ロシア軍を東プロイセンから引き揚げさせた。

 さらにフランスもイギリスとの植民地戦争に敗れて戦線から離脱し、スウェーデンもこの事態に単独講和で手を打った。

 オーストリアが復讐心から地道に築き上げていった同盟は空中分解の様相を呈するようになる。

 一瞬にして3つの敵国が消えたこの一連の奇跡は「ブランデンブルクの奇跡」と呼ばれている。

 単独となったオーストリアにプロイセンを撃滅する余力は残されておらず、1763年にフベルトゥスブルクの和約が成立し、オーストリアはシュレジエンを取り返すことが出来なかった。


 戦後、北アメリカ大陸において、フランスはルイジアナ、サン=ドマングなどを日本領土とし、それ以外の領土をすべてイギリスに割譲した。

 フランスはヌーベル・フランスの全てを失ったことになる。

 日本はメキシコ湾における重要拠点であるイル・ドルレアンとミシシッピ以西を獲得したのである。

 カリブ海においてグアドループとマルティニークは日本領として編入し、フランスは砂糖やコーヒーの産出地を失うことになった。

 スペインからはイスパニョーラ島東部も獲得し、今やカリブ海の覇権は日本に在りと言ったところだった。

 新大陸はミシシッピ川以西を日本、以東をイギリスに二分された。

 例外としてイル・ドレルアンは日本領であった。


 イギリスは新大陸の領土のうち、スペインからフロリダを得ることとなり、その他カリブ海の島嶼部の一部など、日本の食い散らかし以外の全てを得た。

 しかし、植民地の獲得に本腰を入れた結果としては不十分というのがイギリス政府の見解だった。

 新大陸における戦果はミシシッピ以東を獲得した以外の目ぼしい戦果はなかったが、その代わりにイギリスはインド亜大陸における利権を獲得した。

 インド亜大陸からフランス勢力を放逐して、北カルサースを手中に収め、結果としてそれがインド亜大陸支配の最初の一歩となるのはまた未来の話。


 プロイセンはこの戦争の結果、国際的な地位を向上させ、もはや戦争でプロイセンに挑戦する国家は現れなかった。

 それと同時に彼らは増長した。

 イギリスの財政援助とロシア離脱という強運はすぐに忘れられ、精力的な行動と軍事上の才覚などといったセンセーショナルな話題が人々の記憶に残ったことで、フリードリヒ2世自身の威光も大きく増した。

 だがしかし七年戦争はプロイセンが大国化した契機であったが、同時にプロイセン軍の消耗も大きかった。

 プロイセンの領土と住民は国内が戦場となったことで徹底的に蹂躙されたが、フリードリヒ2世の農地改革と移民の奨励で解決された。

 しかし、肝心の有能な将官は農地改革で生えてくるはずがなく、兵士と共に戦争で多くの優秀な人間を失ったことで、フリードリヒ2世は戦後にプロイセン軍を戦前と同程度までに再建することはできなかった。

 もはや七年戦争の威光だけで生き残った王国の姿がそこにあった。

 このツケはプロイセン戦争時に回ってくることになる。


 戦争の発端となったオーストリアはシュレジエンの奪還には失敗したもののプロイセンのザクセン侵略は防ぎ、マリア=テレジアの軍制改革の成功を証明したのだ。

 そのため、オーストリアはその威信、ひいては神聖ローマ帝国のヨーロッパにおける発言権を取り戻した。

 しかしやはりというべきかオーストリアも財政危機に陥り、しばらく戦争に積極的に参戦できなくなった。

 仕方なくマリア=テレジアは戦後20年間は行政改革に専念した。


 戦争を総括して、日本とイギリスが世界にて大きく台頭し、世界は彼らに二分されたと言ってもよい。

 その理由は海外植民地の運営に本格的に足を踏み入れたからであろう。

 両国は地域覇権国から世界覇権国へと挑戦するために、これまで数世紀にわたって友好関係にあった互いを敵視するようになる。

 これまで有効でいられたのは遠方であるがために脅威ではなかったためだった。

 しかし今やイギリスと日本は新大陸植民地にて国境が接続している。

 インド亜大陸に関しても互いの利権が衝突していた。

 この時限爆弾がいつ起爆するのか、それとも不発のまま終わるのか、誰も分からなかった。

 そして問題はそれだけではなかった。

 コテンパンに敗北を喫したフランスはイギリス・日本両国への復讐を心に決めて軍制改革のはずみとなり、砲兵に重点を置いた改革が行われた。

 後のフランス革命戦争やナポレオン戦争で称えられた砲兵システムのグリボーバル・システムはこの1763年の改革を起源とするものである。


 七年戦争はフランス市民革命の下地となったのである。

川嘉良:史実のヒューストンのこと。カラワカラ族(kə rang′kə wä′,-wô′,-wə)からとりました。


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[気になる点] > イギリスはスペインからフロリダを、スペインからは日本の食い散らかし以外の全てを得た。 どっちもスペインという事は無いかと思いますね
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