第26話 オーストリア継承戦争
【悲報】史実
事の始まりは1740年のオーストリア継承戦争まで遡る。
神聖ローマ皇帝カール6世が崩御したことで家督継承問題が浮上する。
マリア=テレジアを家督相続人として認められないとしてバイエルンやザクセンが反発し、プロイセンやフランスなど周辺諸国を巻き込んだ戦争が開戦した。
実際は1713年に神聖ローマ皇帝カール6世によって国事詔書が発布され、ハプスブルク領の不可分や男系が存在しない場合の女子相続が認めるといったもので、神聖ローマ帝国諸侯や諸外国に対してもこれを承認するように交渉を行っていた。
しかし実際に即位すると周辺の諸侯や国々はマリア=テレジアの相続に反発し、相続の条件を要求した。
主な戦争国としてハプスブルク帝国陣営としてグレートブリテン王国、ハノーファー、ロシア帝国が参戦し、対する反ハプスブルク陣営としてフランス王国やプロイセン王国、スペイン帝国、バイエルンやザクセンと言った国々が参加した。
もはや継承者問題は戦争のきっかけに過ぎず、各国は国益のために動き始めた。
プロイセンは突如オーストリアの肥沃なシュレジエン地方を占領した。
フリードリヒ2世は豊富な石炭や鉄などの資源、さらに戦略的重要性に着目していたと言われている。
シュレジエン地方は重要な河川であるオーデル川やベーメン方面の山岳地帯に加えて工業も発展していたのである。
1713年に即位した軍人王、フリードリヒ=ヴィルヘルム1世によって、質素倹約を重視する財政改革が行った。
その他重商主義を推進して国内産業を保護育成し、税制改革や東プロイセン地方の開拓事業にも取り組んでプロイセン王国の国富を高めていった。
国家予算を厳格に管理して国家運営の徹底的な合理化や移民の受け入れによって人口増加と技術発展を促進させた。
浮いた財源、得た財源は全て軍隊に注ぎこまれ、カントン制度によって莫大な数の兵士を徴兵した。
プロイセンは人口250万人の小国であったにも拘らず、8万もの大軍を擁する軍事国家となった。
例えば、人口10倍近くある2000万強のフランスと言えども16万の軍隊を養うのがやっとだったと言えば、その凄まじさが伝わるだろうか。
当時の国家予算の80%を軍事費に費やしていたとされており、正に国家を持つ軍隊と言ったところだ。
さらにその軍隊に猛訓練を施し、彼らが決して数だけの烏合の衆でないことをオーストリア継承戦争で世界にアピールするのだが、それはシュレジエン地方を鮮やかに進軍して見せたことからも容易に想像できよう。
プロイセン軍は無血でブレスラウを占領することに成功する。
さらにプロイセン軍が行く先々で解放者として迎え入れられるなど政治的な勝利も獲得する。
これはシュレジエン地方にはプロテスタントが多数派だったのだが、皇帝がカトリックであったがために迫害を受けており、住民はプロイセン軍を宗教的抑圧からの解放者として捉えたのである。
フリードリヒ大王は初陣であるモルヴィッツの戦いに勝利したものの、決定的な勝利とはいかなかった。
だがこの戦いを見た諸外国はプロイセンを討伐する能力のないハプスブルク側につくよりも反ハプスブルク寄りになってしまったのである。
そういう意味では政治的に大きな意味を持つ戦いであった。
また、プロイセンはプロパガンダ戦をも展開し、ハプスブルクの覇権政策への予防戦争としての正当性を主張した。
この意見は抜粋や翻訳が新聞に掲載され正統性が敷衍するようになる。
これはオーストリア側の宮廷や外交官などの支配階級のみを対象としたものよりもはるかに凌駕する効果を齎した。
スペインとバイエルンとでニンフェンブルク同盟を締結し、フランスにも支持を取り付けた(後にニンフェンブルク同盟に加盟)。
そして1741年にはフランスとバイエルン連合軍がオーストリアに進攻を開始するのである。
一方のオーストリア側も何も手を打たなかったかと言われればそうではなく、マリア=テレジアが女王即位のためにハンガリーへ赴くと、ハンガリー貴族に援助を取り付けることに成功する。
同時に英国との仲介でプロイセン軍との休戦交渉も行われた。
にもかかわらずその間も戦況は刻一刻と不利に傾きつつあり、ザクセンがボヘミアに進攻を開始し、合流したフランス・バイエルン連合軍と共にリンツを占領し、その奥にあるウィーン前面にまで迫り包囲の構えを見せるなど、逼迫した状況であった。
一方で状況改善の兆しも見えるようになり、互いに表向きは戦争しているようにふるまう秘密休戦協定であるクラインシュネレンドルフの密約を締結し、ハプスブルク側は休戦と継承問題の解決、プロイセン側は来たシュレジエンとナイセの獲得を条件として密約が結ばれた。
これによってシュレジエンに向けていた兵力をウィーン前面に集中できるようになった。
一方ニンフェンブルク同盟軍はウィーン前面まで迫っておきながら領土や覇権の拡大のためにプラハに向けて進軍していた。
これにシュレジエンから帰投してきた軍を差し向けたが、フランスの名将モーリス=ド=サックス将軍の奇襲によってプラハは陥落し、救援は失敗した。
更にバイエルン選帝侯カール=アルブレヒトがベーメン王として即位するなど、他人の家で土足で入り込んだかと思えば勝手に家主宣言し始める始末であった。
しかもこのタイミングでニンフェンブルク同盟の快進撃に遅れを取り、最終的な和平で不利になると悟ったプロイセンがクラインシュネレンドルフの密約を反故にして侵攻を開始したのである。
プロイセン軍はモラヴィアへ進軍し州都オルミュッツとベーメンのグラッツ要塞を包囲占領した。
押され気味だったオーストリアも負けておらず、ボヘミア戦線では攻勢を強めてカール7世(バイエルン選帝侯カール=アルブレヒト)の戴冠式の日にバイエルンの首都ミュンヘンを占領するなど勝ち進んでいた。
プロイセンはウィーン方面への攻勢を強めるものの、強固な守りと十分な補給を受けられないことから後にモラヴィアから撤退する。
これを反撃の好機と捉えオーストリア軍はプラハへ向けて進軍するがコトゥジッツの戦いとザッハイの戦いで敗北するとベーメンへの反撃は挫折し、敵を減らしたいハプスブルクと資金や兵士が不足し始めたプロイセンとの利害が一致し、ブレスラウ条約(後のベルリン条約)が結ばれ、正式に両国は休戦したのである。
内容としてはデッシェン公国とトロッパウ市を除いたシュレジエンがプロイセン領へ編入、プロイセンは次回の皇帝選挙でフランツ1世(マリア=テレジアの夫)に投票することを条件としてプロイセンは戦争から離脱した。
この動きを見たザクセンもベーメンから撤退し、講和を結んでこちらも戦線離脱した。
オーストリア軍はプラハを解放し、合流したイギリス軍と共にフランス軍をデッティンゲンの戦いで破り、バイエルンを再び占領したことによって一気に戦況がハプスブルク有利に傾いた。
イギリスとサルデーニャ、ザクセン、オランダとヴォルムス同盟を結び、プロパガンダで世論を喚起することを目論んだ。
これに驚いたのがフリードリヒ大王その人である。
というのも、プロイセン王国が戦線離脱したとしても、戦況はオーストリア不利で推移するだろうと目論んでいたものが、マリア=テレジアの巧みな外交戦術によってプロイセンは一気に孤立してしまったのである。
フリードリヒ大王は平素を醸しつつ軍備にさらに国富を注ぎ込み、特に第一次シュレジエン戦争で脆弱性を露呈した騎兵に対する強化を図った。
1744年にプロイセンはバイエルン、プファルツ、ヘッセン=カッセルによるフランクフルト同盟を締結し皇帝カール7世の勢力を回復させることを誓った。
その上スウェーデンとロシアを縁組によって不可侵とし、背後を固めた。
プロイセンが準備万端に整える中、ついにロートリンゲン公カール率いるオーストリア軍がエルザスに進出し、第二次シュレジエン戦争の戦端が開かれた。
プロイセン軍はベーメン方面において猛攻を敢行し、抵抗していたプラハは降伏した。
ところがフランス軍はルイ15世が急病に倒れ軍全体の指揮が混乱したのもあるが、それに輪をかけて消極的な作戦が執られた。
この結果はフリードリヒ大王の満足いくものではなかった。
しかも当のプロイセン軍もプラハにおいて補給問題に苦しみ始めた。
第一次シュレジエン戦争の時から戦争続きだったこの土地では余剰作物を貯蓄する余裕はすでになく、軍隊の食糧を用意することができなかったのである。
さらにマリア=テレジアによってベーメンにおいて占領軍に味方した現地貴族を裁判にかけベーメン貴族に対する統制を大幅に強化した結果、プロイセン軍が侵攻した際、多くの貴族が馬車を連ねてウィーンへ逃亡し、残存した貴族もプロイセンへの協力を拒否した。
そのうえベーメンはシュレジエンとは違い、住民はカトリックが大多数であり、プロイセンは協力者がほとんどいない戦場で戦う必要があったのである。
このようにプロイセン軍はいくら精強といえども、食糧事情の悪化した軍隊はその規律を維持することはできない。
軍中には疾病者や脱走兵が表れ始め、士気は底なしに下がり続けた。
そこを見逃さないオーストリアではない。
エルザスから転進してきたオーストリア軍主力はベーメンに入り集結しつつあった。
一方プロイセン軍はその所在すら掴めておらず、気づいた時には分断包囲されかけていた。
すでにプロイセンは戦争の主導権を喪失しており、危機に瀕したプロイセン軍は急遽反転し包囲化に入る前に脱出を試みた。
時期はすでに冬で、しかもパルチザンからの武力抵抗まで始まっており、プロイセン軍は消耗衰弱しており、軍としての攻撃力を有していなかった。
結局プロイセン軍はモルダウ以東を確保することを諦めて北へ退却した。
オーストリア軍も追撃としてシュレジエン地方に侵入したがハーベルシュバイツの戦いでプロイセン軍がオーストリア軍を撃破し、寒さと傷病兵の多さに戦局は膠着した。
プロイセンはイギリスを介して和平を願い出るものの、もともと和約を破棄したのはプロイセンであり、和平交渉はプロイセンの不利に推移し、うまくいかなかった。
それどころかイギリス、オランダ、ザクセン、オーストリアの4か国によるワルシャワ条約が成立し、プロイセンを包囲する構えを見せたのである。
ザクセンはオーストリアに与し、その対価としてイギリスとオランダから資金援助を約束された。
皇帝カール7世が死去したことでプロイセンが当初掲げていた戦争を続ける大義名分を失った。
皇帝の跡継ぎであるマクシミリアン=ヨーゼフはまだ幼少であり、そうなると皇帝位がハプスブルク家に戻る公算が多くなった。
面白くないのはフランスである。
フランスの戦争目的はハプスブルク家を皇帝位から引き吊りおろして神聖ローマ帝国への影響力を削ぎ落すことだった。
フランスはザクセンに働きかけてアウグスト3世を皇帝として擁立し合わせてザクセンを味方に引き入れようとしたが失敗した。
その間もオーストリアはバイエルンを下してフェッセン条約によってバイエルンは戦線離脱し、全力をプロイセンにぶつけることが可能になった。
プロイセンは絶望的な状況だった。
もはや和平のためにはシュレジエンを手放すほかなかったが、フリードリヒ大王はシュレジエン地方に固執し、断固として徹底抗戦を主張した。
もはやなりふり構わず脱走兵には逃亡の罪を不問とすることを約束し、臨時ボーナスを出すなどして軍への帰還を呼び掛けた。
そして冬が明けた1745年にホーエンフリートベルクにて両軍は激突し、プロイセン軍は窮地の中オーストリアに対して決定的な大勝利をもぎ取った。
だがこれ以上戦争を続けることは、プロイセン本土が英仏の侵攻を受けかねない。
実際すでに英軍とプロイセン軍は対峙していた。
プロイセンとしては第二次シュレジエン戦争は優勢のまま終戦してほしかった。
1748年にアーヘンの和約が成立し、シュレジエン地方はプロイセン領となった。
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