表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/36

第23話 スペイン継承戦争 ★

 200年続いたスペイン・ハプスブルク朝(アブスブルゴ朝)最後の国王カルロス2世は先天的に虚弱体質で、心身に異常をきたしていた上に跡継ぎもいなかった。

 そのため、後継者探しに奔走していたし、各地で後継者を名乗り上げる者が現れる。

 オーストリア・ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝レオポルト1世、ブルボン家のフランス王14世、カルロス2世の同母姉マルガリータ・テレサの孫ホセ=フェルナンドが候補者として名乗りを上げる。

 イングランド王ウィリアム3世はルイ14世に対して、1698年ハーグ条約(第一次分割条約)を提案し、両者は合意する。

 スペインの王位はホセ=フェルナンドが継承し、南ネーデルラントやヌエバ・エスパーニャを所領とするとし、ナポリ王国、シチリア王国、トスカーナ大公国をルイ14世の息子グラン=ドーファンに、ミラノ公国をレオポルト1世が獲得するものとされた。

 だが王位継承予定だったホセ=フェルナンドが死去するとハーグ条約は死文化し、1700年にロンドン条約(第二次分割条約)が締結されるものの利権は拗れ、履行は困難を極めた。

 極めつけはスペイン国王のカルロス2世がこの条約を拒絶したことだ。

 そして後継者としてルイ14世の孫にしてグラン=ドーファンの次男であるアンジュ―公フィリップを指名した。

 カルロス2世崩御後、この遺言通りにアンジュ―公フィリップはフェリペ5世として即位した。

 今やピレネー山脈は消え失せた。

 ハプスブルク・スペインからブルボン・スペインへの王朝交代は、スぺインがフランスの支配下に入り、国境がなくなることを意味していたのである。

 スペインを事実上獲得したルイ14世は気を良くして、対するイギリス、オーストリア、オランダはハーグ条約(対仏大同盟)を結び、即位に反対した。

 スペイン国内も一枚岩とはいかず、カスティーリャ、ナバラ、バスクとカタルーニャ、アラゴン、バレンシアは対立し、国を二分にするが、フェリペ5世に対する当初の反応はそれほど好意的ではなかったことだけは確かである。

 こうして1701年、同盟諸国とフランス、スペインの全面戦争であるスペイン継承戦争が始まったのだ。

 これは欧州では頻繁に見られた伝統的な王位継承戦争を超えて、海外領土と通商・経済権益の争奪や確保を目指した近代最初の世界大戦となった。

 主な対立軸は「フランス王国・スペイン帝国」対「イングランド王国・ハプスブルク帝国・神聖ローマ帝国・プロイセン王国・ポーランド王国・日本」などであった。

 日本が参戦した理由として、新大陸の利権(特にヌエバ・エスパーニャの銀山)の獲得があげられるが、それ以上に日本としてもスペインとフランスの合邦は危険だったのである。

 というのも、新大陸中央部はヌーベル・フランス、南部はヌエバ・エスパーニャの所領となっており、他の所領となっているのは北西部が日本領、東海岸とハドソン湾沿岸地域がイギリス領土であるのみで、もしもスペインとフランスの領土を合算すると新大陸のほぼ全域を支配することになり、それはつまりフランス・スペイン連合による新大陸の覇権を意味する。

 幕府はスペイン領である飛鳥大陸西海岸の割譲を条件にイングランドに与することを決定した。

 ルイ14世に唆されて始めた日蘭戦争はあくまでも日本としては主戦場は太平洋上に制限されていたため、これは日本が初めてヨーロッパの戦場に姿を現した戦争であった。


 欧州で戦争がはじまるとフランス軍は圧倒的な強さを見せ、ネーデルラント方面、ドイツ方面、イタリア方面のすべてで対仏大同盟軍を圧迫した。

 この戦いで活躍したのはドイツ語圏一帯で英雄視されているプリンツ=オイゲンだった。

 彼はアルプス山脈という要衝で鉄壁の布陣を敷くカティナ元帥に対してアルプス越えを敢行しフランス軍に奇襲をかけ、虚を突かれたカティナ元帥はそのままカルピの戦いでオイゲンに敗北する。

 更にオイゲンの数々の勝利がプロイセン公国の参戦を招く。

 この参戦によって神聖ローマ皇帝レオポルト1世はプロイセン公を王に昇格させ、新たに『プロイセン王国』の称号を獲得した。

 プロイセン王国が戦場に送り出したシュヴェーリン伯やアンハルト=デッサウ候はネーデルラント方面にて大いに活躍することとなる。

 

 これらのことから当初は守勢であった神聖ローマ帝国側は勢力を盛り返し次第に優勢へと回り始めた。

 だがルイ14世は新たに天才的な指揮官であるヴァンドーム公ルイをイタリア戦線に派遣した。

 ヴァンドーム公は決戦を避けゲリラ兵を差し向けることでじわじわと神聖ローマ帝国の気勢を削いでいった。

 彼の活躍もありイタリア方面は再び膠着状態に陥った。

 しかもバイエルン選帝侯国は神聖ローマ帝国を裏切りフランスと同盟を組んだ。

 フランスとバイエルンの猛攻により神聖ローマ帝国は再び劣勢に傾いた。


 だが、そこで掣肘したのはイングランドだった。

 ヨーロッパ大陸を制したフランスが次にブリテン島を目指すことは火を見るより明らかだった。

 フランスの強大化はイングランドにとっても望ましい事態ではなかったのである。

 ことの事態は日本によく似ていた。

 1702年にマールバラ公率いるイングランド軍大陸遠征部隊がネーデルラントに上陸し、ネーデルラント軍と合流。

 ネーデルラント方面のフランス軍に攻撃を開始し、たちまち戦線を立て直した。


 事の発端となったイベリア半島での戦況は大同盟側に有利に展開した。

 ハプスブルク家のカール大公は旧アラゴン王国とカタルーニャ地方を味方につけ、首都をバルセロナと定め徹底抗戦の構えを見せたばかりか、翌年にはマドリードを陥落させる活躍を見せる。

 しかしカール大公の軍が反カトリック軍団という事もあり、マドリード内での数々の狼藉に市民が反発し、フェリペ5世に好意を寄せるようになった。

 また、フェリペ5世の「スペインを見捨てない」という言葉にカスティーリャ軍は胸を打たれ、さらなる奮闘をみせたのだ。

 その後イベリア戦線は一進一退を繰り返したが、フェリペ5世が戦争を優位に進め、アラゴンとバレンシアが1707年に降伏するまで泥沼の戦いを興じた。


 イングランドの参戦を確認した日本も直ちに宣戦布告を行い、手始めに日本は利権を行使するために、飛鳥大陸にて攻勢を始めた。

 しかし(いささ)か性急であったため戦争準備が全然行われておらず、新大陸に関しては開戦してから2年以上経過してからだった。

 その間飛鳥大陸の防衛を担ったのは飛鳥大陸に入植した大名たちであった。

 彼らの鎌倉幕府の時代から受け継がれる一所懸命の精神が、自発的な国土の守護に繋がったばかりではなく、逆に攻勢に出る大名もいたくらいである。

 幸い、スペインは新大陸に兵力を割く余裕がなかったため、まともな軍隊は駐屯していなかった。

 しかし、宣教師によって大規模に布教された結果、ネイティブアメリカンは敬虔なキリスト教聖戦士となっており、彼らの軍勢は日本軍の進出を大いに苦しめた。

 彼らキリスト教徒にとってはキリスト教徒以外は畜生同然であり、彼らの苛烈な攻撃と防衛は戦争初期の日本軍の手を焼いた。

 だがネイティブアメリカンが棍棒や剣など近接戦闘を主体とする武具を身に纏っていたのに対して、日本軍は小銃で対抗し、その供給量は圧倒的にスペイン軍を上回っていた。

 いくらゲリラ的に襲撃してくるとは言っても、戦況は文明の差が顕著に表れた。

 日本軍主力が上陸すると守勢フェイズから攻勢フェイズに切り替わり、スペイン軍を圧倒し始めるのに時間はかからなかった。

 リオグランデ川に沿ってヌエバ・エスパーニャ領内をどんどん南下し、遂に日本軍はメキシコ湾に到達したのである。


 このように時間はかかったとはいえ快調だった新大陸方面であるが、しかし欧州への派兵は日本としては不可能に近かった。

 地球の反対側へ兵を送るのはさすがに無理があった。

 例えばマニラ港から最短経路かつ開拓された航路を通るとしても、マラッカ、ゴア、喜望峰を経由して欧州に兵を展開しなければならないわけだが、当時の技術では到底不可能な話だった。

 また、飛鳥大陸で行われたアン女王戦争にて、日本領から(比較的)近しい飛鳥大陸への増援を求められたがインフラが整っていないがために送られた増援は微々たるものであったし、現地に到着するまでに半数が落伍する有様であった。

 そのため、イングランド(戦時中にイングランド王国は『グレートブリテン王国』に国号を変更)は海軍の派兵を要求した。

 幕府はこの要求に応え、砲列艦(ガレオン)6隻、重巡洋船(キャラック)16隻を主力とする大艦隊(幕府が保有する海上戦力の3分の2に近い兵力)を派兵した。

 何隻かは航行途上で落伍したようだが、日本海軍はインド洋経由で欧州へと向かい、出会い頭にカナリア諸島の奪取を試みたが失敗した。

 その後はイギリスが占領したジブラルタルに入港し、主に地中海の海戦に従事している。

 この派兵には欧州の戦争の有様を各司令官が確認、研究するという密命を帯びていた。


 一方ネーデルラントに上陸したマールバラ公は依然としてフランス軍が主導権を握っていたドイツ方面への進出を開始し、イタリア方面が膠着していたオイゲンもドイツ方面への攻撃に参加した。

 オイゲンとマールバラ公はヘヒシュテットにて合流し、ブレンハイムの戦いでフランス・バイエルン連合軍に決定的な勝利を収めた。

 この戦いの結果、フランスのドイツ方面軍は壊滅し、バイエルン選帝侯も亡命を余儀なくされた。

 その後マールバラ公はネーデルラント方面に返り咲き、快進撃を続け1706年までにフランス軍を崩壊させた。

 この事態にルイ14世はイタリア方面において圧倒的に優勢を誇っていたヴァンドーム公を招聘し、ネーデルラント方面の立て直しを試みたため、トリノの戦いでフランス軍に勝利するなど、イタリア方面においても対仏大同盟軍の勝利が確定した。

 3方面すべてで壊滅的な被害を被ったフランスは戦争初期の優勢を失い、次第に追い詰められた。

 オイゲン・マールバラ連合軍を前にフランス軍はアウデナルデの戦いで大敗を喫する。

 事実上フランスに勝利した対仏大同盟側だが、フランス本土に進行するまでの余力は残されておらず、ここで決着となった。

 1711年にカール大公が弟であるヨーゼフ1世の死によって新たな神聖ローマ皇帝に選出されたことで戦線離脱したことが大きかった。

 実のところカール大公自身はスペインに対する興味を失っていたが、イギリスはオーストリアとスペインとの合邦による大帝国の出現を恐れていた。

 オーストリアとスペインの合邦を許せば、これまで何のために戦ってきたのか分からなくなる。

 ここが手の打ちどころだったのだ。

 

 1713年、イギリス、ネーデルラント、プロイセン、日本、フランスとの間にユトレヒト条約が締結され、翌年1714年にオーストリア・フランス間でラシュタット条約が締結され、スペイン継承戦争は幕を閉じた。

 スペイン領ネーデルラント、ミラノ公国、ナポリ王国、サルディーニャが神聖ローマ帝国に渡った。

 フランスはスペイン王位を認められるも、国家としてのスペインとの合併は永久に禁止された。

 スペインは本土とインディアスの植民地以外の全てを失い、ジブラルタルとメノルカ島をイギリスに割譲するなど、戦争の火種だったとはいえ、最も泣きを見た国であった。

 しかもカタルーニャは戦後も抵抗を続けており、実質的な戦争の終結は1714年にバルセロナが陥落するのを待たなければならない。

 戦後、スペイン国王となったフェリペ5世は中央集権化を目的として「新組織王令」を発布し、戦争で対立したアラゴン、バレンシア、カタルーニャの地方特権(フェロス)を廃止して、地域ごとにバラバラだった制度や習慣、体制を解体してカスティーリャ式へ統一した。

 

 日本も約束通りヌエバ・エスパーニャの内陸総指揮部(アルカ・カリフォルニア、バハ・カリフォルニア、サンタフェ・デ・ヌエボ・メヒコ、ヌエバ・エクストレマドゥラ、ヌエバ・ナバラ)をスペインから割譲する。

 飛鳥大陸東海岸どころかメキシコ湾を臨むところまで日本領は届いたのだ。

 かくして西ヨーロッパ全土、太平洋を戦場としたスペイン継承戦争は終結した。


 日本は最も権益を獲得した交戦国であった。

 戦争全体では10年以上かかったが、10年間ずっと戦い続けていたわけではない。

 にも拘らず日本は広範な土地を手に入れた。

 その領土があまりにも広大であることから、これまで当然であった日本風の地名をつけることが間に合わず、スペイン語からの借用が目立つ。

 例えば今では世界的港湾都市である「桑港(そうこう)」はサンフランシスコの当て字である「桑方西斯哥(そうほうしすこ)港」が短縮した形だ。

 日本が獲得する前から、桑方西斯哥(そうほうしすこ)港と呼んでいたものをそのまま利用したに過ぎず、地名が長すぎたから短縮したのだ。


 飛鳥大陸は空前の移民ブームとなり人口増加を続ける日本国内は初めて減少傾向がみられた。

 1732年頃から発生し始めた享保の大飢饉もそれを後押しした。

 特に東北地方や北海地方からの移民が多かったようだ。

 幸い、瀬戸内海地方で栽培されていた占城(チャンパ)米や、輸入されたジャガイモ、九州南部の甘藷(かんしょ)(サツマイモ)の栽培によって民衆は辛うじて食つなぐことができたとはいえ、その被害者は1万人を超える。

 獲得した新大陸の新たな領土では幕府主導のもと、積極的に開墾が展開された。

 これまで開拓してきた紗取(しゃとる)付近は山がちな地形が多く、地理的に農耕に向いていない土地が多かった。

 今回手に入れた領地は殆どが砂漠であったが、新たに獲得した港湾都市桑港(そうこう)の付近は耕作が出来るだけの肥沃な大地があった。

 しかも櫻都(さくらと)(後に「おうと」と読まれるようになった)の郊外から金鉱脈が発見され、日本人ばかりではなく、欧州人も富を得るために遠路遥々やってきた。

 活気に満ちた加利福尼亜(カリフォルニア)粘騨(ねばだ)山脈以東は僅か数十年のうちに大都市に成長する。

 他にも羅府(らふ)讃驒港(さんだこう)など飛鳥大陸東海岸は日本人居留地が徐々に増えていき、スペイン人や原住民族を上回る勢いである。

 それと同時にスペイン繁栄の源泉を奪略するような形で鉱山開発も率先して行われ、スペインに代わって日本に繁栄をもたらした。

 ポトシ銀山と共に二大銀山と呼ばれたサカテカス銀山(日本名:逆手粕銀山)を所領に収め、既に枯渇しつつあった日本国内の金山銀山に代わって金銀の供給地と相成り、これが実質的な賠償金となる。

 この頃には(もっこ)からトロッコへの置換が行われ、労働環境が激変し鉱山労働者の増加に寄与した。

 1750年には70万人近い日本人が上陸、移住したと見られている。

 新大陸の内陸部は今後1世紀をかけて水田地帯へと変貌することになる。


挿絵(By みてみん)

追記:スペイン継承戦争時、ヌエバ・エスパーニャには内陸総指揮部は存在しなかったのですが、当時まとめてこれらの地域を包括的に指す言葉がなかったため、あったことにしました。日本の進出によって行政改革が進んだという感じで妄想しています。また、ヌーベル・フランスのルイジアナも実際これほど広範な範囲を統治していたわけではありませんでしたが、当時どのくらいの範囲を統治していたのかよく分かってないので、とりあえず名目上の範囲を描画しました。


もしよろしければ、いいね、ポイント評価、ブックマークの登録を宜しくお願いします。

感想や誤字脱字報告もよろしくお願いします。

評価されるということは筆者に対してこれ以上とないモチベーションの向上に繋がっております。


Pixivで架空地図を作成しています。

https://www.pixiv.net/users/84505225

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ