第21話 マレー戦争 ★
書き忘れていたので挿話します。
ネーデルラントを下し、スマトラ島を支配下に置いた日本が次の標的に据えたのはポルトガル領マラッカであった。
この位置は日本にとってみれば、ムガル帝国との貿易ルートである天竺航路においては危険な場所だった。
なにせ、やろうと思えばいつでも航路を襲撃、あるいはマラッカ海峡の封鎖を行うことができる場所に敵性国家の一大拠点があったから、警戒も止む無しといったところだろう。
実際、東南アジアに巨大な植民地を保有していたネーデルラントもマラッカを占領する計画をしており、もしも日本の台頭がなかったらマラッカはポルトガル領ではなくオランダ領だったであろうと言われている。
閑話休題、このような危機感から幕府はマラッカの占領、若しくは無力化を企図することになる。
幕府は当時マレー半島南部に位置していた柔仏回王国に目を付けた。
その立地上柔仏回王国に目を付けるのは当然であるが、柔仏回王国、ひいてはマレー半島全域を支配を企図していたと言われている。
そもそも、柔仏回王国の前身はムラカ王国である。
ムラカ王国はポルトガルに攻撃されたことによって崩壊したが、王族が各地に新たな王国を建国していた。
西班牙諸島南部のマギンダナオ王国もそのうちの一つである。
しかし、ムラカ王国時代に首都だったマラッカは未だに盗まれたままであり、奪回の機会を狙っていたのだ。
そこで幕府は日本の封冊国となればマラッカからポルトガル人を駆逐することを約束する。
柔仏回王国は二つ返事で快諾した。
後世の歴史家からはこの返事はマレー史上最悪の失敗だったと見なされている。
マレー半島は日本によって隷属の憂き目にあい、南蛮二十余国と同様の辛い歴史を辿ることになる。
早速日本国籍の戦列艦の砲列がマラッカに狙いを定めた。
そして降伏を要求する旨の書簡を送り、ポルトガル人の動きを注視した。
当然、これの拒否は砲撃による破壊が待ち受けていると、戦列艦が示しており、ポルトガル勢力は撤退する以外の道は存在しなかった。
仮にポルトガルが降伏を受け入れなかったとしても結局は艦隊の砲撃によってマラッカは灰燼に帰し無力化することには成功することから、降伏の可否はどっちでもよかったようである。
無論、無傷で港湾都市を手に入れるに越したことはないが。
こうして、ポルトガルも日本も柔仏回王国も一滴の血を流すことなくマラッカは柔仏回王国に返還された。
その見返りに日本はジョホール・バルの南部の位置する小さな島であるシンガプーラを要求したが、柔仏回王国は驚くほどすんなりと了承した。
後に当時の元号から『宝南島』と呼ばれるこの場所も、人口150人程度の小さな漁業村でしかなかったため、むしろ柔仏回王国にとってみればマラッカを手に入れるための代償にしては軽すぎて不気味に映ったことだろう。
だが日本はマラッカと同様、マラッカ海峡に面するこの小さな島の、立地とそれによる地政学的重要性をよく理解していた。
幕府はこの土地を直轄地とし、マラッカ海峡の重要な拠点を数世紀かけて作り上げることになる。
柔仏回王国はムラカへの帰還を祝し、国号を柔仏回王国からマラッカ王国へと生まれ変わった。
後世においては前期のマラッカ王国と区別するため『新マラッカ王国』や『後マラッカ王国』などと呼称される。
また、この時点でマカオを除いて東南アジア全域において、スペイン・オランダ・ポルトガルなど欧州の諸勢力を排除することに成功していた。
幕府の要職の中には、せっかく手に入れたマラッカ海峡を有効に利用できないかと模索する人々がいた。
その中に、マラッカ海峡を通過する船舶をその積載量によって増加する関税を日本国籍以外の船舶に課してみてはどうだろうかという案が上がってきた。
しかしこの案は老中、将軍の全会一致で棄却された。
まず、マラッカ海峡全域を支配下に置いていないし、余計な関税は不要な他国との軋轢を生む要因になりかねなかった。
また、せっかくムラカを手に入れた新マラッカ王国への配慮も足りていなかった案である。
それにもう時代は変わり、世界中で自由貿易が行われようとしていたのだ。
そのような時世に国際水道に関税をかけるというのは明らかに時代に逆行していた。
当初日本とマラッカ王国の関係は他の南蛮諸国のような艱難辛苦とも言える重税を課す関係ではなかった。
だが日本がマラッカ王国に対して巴蕃王国と箆良王国に攻撃を仕掛けるように命じると柔和な態度で拒否を示したが、この時期から日本の高圧的な態度が見え隠れするようになる。
それに対するマラッカ王国も反骨精神が芽生え、封冊国として当然だった軍事通行権すら拒否するようになった。
このような蛮行を見逃すことはなく、日本はマラッカ王国を完全な統治下に置くことを決定し、艦隊を派兵した。
宝南島から上陸した陸軍は旧王都であるジョホール・バルに侵攻し、これを占領。
新しい首都であるマラッカも陸海双方から包囲されたが、頑健に抵抗した。
しかし、マレー半島の豊富な木材を利用して作成されたカタパルトによって同胞の首級が投げ込まれると厭戦気分が蔓延し、1か月の奮闘の末にマラッカを明け渡した。
この戦争に掣肘したのがマラッカ王国の北部に位置する巴蕃王国と箆良王国、懸田回王国であった。
もしもマラッカ王国が敗北すれば次に狙われるのは自分たちであることをちゃんと理解していた国王らは対日本同盟を締結する。
マラッカ王国を支配下に置くと、マレー半島全体の制圧に乗りかかった。
マラッカ王国内の反乱を援助する目的で巴蕃王国と箆良王国がマレー半島南部に3000名の兵士と艦隊を寄越したが、海上覇権を握っていたネーデルラントと東南アジアにおいて熾烈な制海権の争奪戦を戦い抜いた日本海軍の敵ではなかった。
彼ら艦隊は陸上兵力を上陸させる前に轟沈し、海の藻屑となった。
更に意味深長に太泥に上陸する日本軍の対策のために北部に兵力を張り付ける必要があった。
そこで発生したのがアユタヤ朝による太泥侵攻だった。
アユタヤ朝はナライ王が病床に付していたタイミングを狙って、ペトラチャが1688年暹羅革命を起こして彼に政権交代を迫ったわけだが、これに反対したのが太泥王国であった。
それに対してペトラチャは50000の兵力を以てして太泥に攻撃を開始した。
この戦争には日本も一枚噛んでいたと見られており、その証拠に進駐してた日本軍は被害を被るどころか、ペトラチャの軍隊に食糧の供給を行うなど、協力的な態度を示していた。
また、ペトラチャはバンコク包囲戦の最中、デファルジュ将軍が率いるフランス軍を攻撃するように部隊に命じてこれを制圧し、暹羅からフランス人、イギリス人、オランダ人を追放した。
残留を許されたのは日本人だけであり、何らかの陰謀を感じるが、そのペトラチャと日本の蜜月関係は黒いベールに包まれている。
ペトラチャによる太泥侵攻はそれだけに留まらず、日本軍とともに巴蕃王国と箆良王国、懸田回王国を攻撃した。
日本軍と暹羅に南北から包囲された巴蕃王国と箆良王国は戦闘に堪えられず降伏し、懸田回王国も良く抵抗したが、多勢に無勢、降伏文書に調印した。
マレー戦争の結果、懸田回王国、太泥王国を暹羅領に編入し、マラッカ王国、巴蕃王国、箆良王国は日本の所領となった。
日本が占領した3王国は他の南蛮諸国と同様に苛烈な隷属関係を強いられ、マレー史の暗黒期となった。
ルビが多すぎる……
日本の統治下にあることを強調したかったのでこうなったのですが、読みにくいですかね? 読みにくかったらカタカナに戻します。
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