第20話 オランダ戦争
毎回投稿する前に内容を確認と書き溜めたものを切り崩しているのですが、それすら行えないほど忙しい日々が続いております。最初の方は楽しみにしていた感想や間違いの訂正も数日放置したままで申し訳ありません。ひとまずこの話を投稿した後訂正箇所を書き直そうと思います。よろしくお願いします。
1670年、フランスと日本の間にマルセイユにてとある密約が締結された。
その条約の内容は、将軍とフランス王ルイ14世の友好締結、フランスが日本に資金及び兵器を援助、対ネーデルラント戦争での日本・フランスの共闘、対ネーデルラント開戦の時期決定は、フランス王ルイ14世による権限とするといったものだった。
この秘密条約はドーヴァーの秘密条約が発覚するにしたがって芋づる式にネーデルラントに見つかった。
これを平戸のオランダ商館は厳しく糾弾したが、幕府は無視を決め込んだ。
この頃欧州では太陽王ルイ14世によるフランス膨張政策が各国に火の粉を散らしていた。
当時フランス国内では『自然国境説』というものが蔓延していた。
この考えは国境を民族・人種や文化的連帯などによらず、天然の地形や自然境域により定めようとする説である。
ルイ14世は「余には祖国の領土に限界はない」と豪語したが、もともとガリアの昔から、南はピレネー山脈と地中海、東はアルプス、北はライン川、西は大西洋によりくぎられた地が、「甘し国フランスの郷土」とみる思想があった。
そのため、ドイツ(神聖ローマ帝国)と隣接するライン川沿岸で、フランスの自然国境説は絶えず摩擦や紛糾を呼び起こした。
1667年から1668年までのネーデルラント継承戦争は、その性格が如実に表れており、南ネーデルラントの獲得を狙った戦争だったが、結果的にネーデルラント、イングランドに妨害されて、対した成果は得られなかった。
しかし今度の戦争は外交によって中立、もしくは同盟をスウェーデンやイングランド、神聖ローマ帝国の諸侯とも結び、その中には日本の将軍の名前もあった。
幕府はネーデルラントによる東南アジアの覇権に挑戦するべく、フランスと手を組んだわけである。
アンボイナ事件(1623年に発生した虐殺事件。アンボイナ(アンボン)島に入植、商館を開いていた日本人にネーデルラント東インド会社が襲撃し、入植者、商館員の全員が死亡した。対して幕府はネーデルラントの圧倒的戦力差により落とし前戦争を仕掛けることは出来ず、オランダ商館に厳重注意をするだけに留めていた。)によって、ネーデルラント(VOC)に対する憎しみも増大していたこともある。
一方の太平洋の状況を見てみると、スペインが太平洋の植民地から撤退した後、次の対立軸となった日本とネーデルラント。
ゴワ王国などのスラウェシ島南部地域のスルタン国を下し、バンダ海沿岸部を手中に収めたネーデルラントと、ティドレ王国と同盟を組みハルマエラ島周辺海域とスラウェシ島北部で地保を固める日本の対立は不可避であった。
ティドレ王国にとってみれば日本という国は不信極まりない存在であったが、ネーデルラントにも同じことが言え、その点まだ日本は貿易相手としては申し分なかったため日本との同盟を決めたようである。
特に日本に対して香辛料の専売を強制しなかった点から、合理的に日本と同盟を組んだ方が得策であるとティドレ国王は考えたわけである。
更にティドレ王国は自国の地理的重要性を理解し、日本が橋頭堡として利用したいことを見透かしていた。
そのため本来自国より大国であるはずの日本に対して高い要求を吹っ掛けることで日本人傭兵や武器を専売してもらうことで周辺諸国を圧倒し、バンダ海の地域大国にのし上がった。
地保を固めるだけでなく、敵国の地保を突き崩す方策も考えられていた。
ジャワ島などで人々の反乱を扇動したり、スラウェシ島の1669年のボンガヤ条約によって滅亡したゴワ王国を独立させるための下準備をする以外に有効な手は打てなかったが、その効果が発揮されるのは戦時中まで待たねばならない。
幕府が南蛮への進出を狙った理由は欧州と同様に香辛料が求められたからである。
香辛料とは胡椒やナツメグ、クローブ、シナモン、ジンジャーなどが挙げられる。
伊勢貞親によって肉食が推奨されたのは前述したが、そこで問題となったのが保存技術である。
京では食料需要も当然多かったが、それを満たすためには食料の大量輸送が必要だった。
冷蔵技術もない当時、新鮮な食料を産地からそのままの鮮度で届けるのは土台無理な話だった。
そのため、変質した食材の味やにおいをごまかすために胡椒が重宝されたのだ。
また塩だけの味付けに比べて胡椒のスパイシーな風味は料理の美味しさをより一層引き立てるのに役立った。
当時は誰も気づかれていなかったが、後の世になって保存料としての効果があることが発見された(船乗りたちは経験則に基づいてある程度理解していたと見られている)。
一時期には銀と同じ重さのレートで交換されていたという文献もあるくらいに貴重品であり、とても庶民が口にできるどころか、見ることすら難しい代物ではなかった。
なぜここまで高騰するのかというと、インド亜大陸から欧州に胡椒が到達するまでに多くの仲介業者の手が入るため、道中の通行税や関税なども上乗せされる。
そのため、最終的な末端価格は原価とは比べ物にならないレベルの値が付いたわけである。
モルッカ諸島の住民やインド人がこの末端価格を知ればきっと失笑か、あるいはひっくり返ったことだろう。
それでも欧州における需要の大きさが供給量を上回ることはなく、南洋會社は莫大な利益を得ることができたという。
1672年にフランスがネーデルラントに攻撃を仕掛けたことが分かると、日本もネーデルラント及びオランダ東インド会社に宣戦布告し、オランダ商館の全員を拘束した。
欧州では仏蘭戦争、日本ではスンダ戦争(寛文の役)と呼ばれる戦争の幕開けである。
日本は多数の戦列艦を引き連れてバタヴィアに上陸、また、同時多発的にスラウェシ島、マルク諸島に次々に上陸し、ネーデルラント人を拘束した。
ネーデルラント軍は本拠地であるバタヴィア以外では大した防衛軍を配置していなかったために、マルク諸島や小スンダ列島ではあっさりと降伏し、武装解除に応じた。
村上春輝提督率いる村上艦隊は小スンダ列島で流れ作業の如く上陸しては武装解除を呼びかけ、船を出し、また上陸をする退屈な作業などと言った愚痴を航海日誌に残している。
彼は、いや船員全員が勝利を前提として華々しい戦果を期待して船に乗っていたために、不満が漏れるのも無理はない。
あまりにも簡単にVOCに勝利したことから、決着がついていないにもかかわらず、どのようにして民草の心身を掌握するか真剣に議論されていたほどである。
スラウェシ島では日本軍の上陸に呼応してゴワ王国復権派が一斉に蜂起し、円滑な日本軍の占領に貢献している。
バンテン王国に逃亡していたゴワの国民も晴れてスラウェシ島に帰還することが出来た。
ネーデルラントにとってマルク諸島の橋頭堡だったアンボン島の陥落とゴワ王国の反乱によって雌雄は決した。
アンボン島はアンボイナ事件が発生した島であり、日本は半世紀ぶりに復讐した結果となる。
勢いを落とすことなく日本兵は進撃を続け、フローレス諸島まで掌握した。
東南アジアの大部分を制圧することが出来た日本だったが、肝心のネーデルラントの本拠地ジャワ島では行き詰まっていた。日本軍の攻勢はバタヴィア要塞によって阻まれ、なかなか進展を見せない。
バタヴィア要塞の戦いは兵糧不足と震災(1674年)によって2度の撤退と5年の年月を要した。
三度目の正直として、総司令官は港湾内部を制圧し、敵の輸送路を封鎖して暇を持て余していた戦列艦の艦砲を揚陸し、バタヴィア要塞の攻略に充てることとした。
しかしそこで問題となったのが艦砲の牽引である。
これを助けたのはなんとジャワ島原住民であった。
ジャワ島の住民はネーデルラントに虐げられており、奴隷同然に酷使されていた。
一方日本は心身掌握のために奴隷を解放し、食糧を広く配給したため、さながら救世主と捉えられたのだ。
(日本軍を救世主とする意味の文が重複している)
彼らの助けもあって多数の艦砲をバタヴィア要塞に牽引し、その射程圏に納めることに成功する。
合計500門近くの大砲がバタヴィア要塞に火を吹いたと言われており、この戦いにおいて大量の大砲が使用されたことから、その大音響と破壊効果によって精神を病む者が続出していた。
今日的な戦争神経症の始まりであり、鉄砲火器の火力が人間の精神の限界を超える最初の事例といえる。
何はともあれ、これ程の砲撃によってネーデルラント兵の士気はバタヴィア要塞と共に瓦解した。
一方欧州戦線では、本土という事もあってかネーデルラントは洪水線戦術をとるなどして奮戦した。
反撃に打って出てオーストリアの神聖ローマ皇帝レオポルト1世、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルムなど他のドイツ諸侯やスペインと同盟を結び、フランス包囲網を形成するが、その成果は芳しくなく、辛うじて持ち直したものの、それでも危機的状況を脱しきれていなかった。
ただし、海の上ではネーデルラントは獅子奮迅の活躍をし、イングランドに対して優勢だった。
それ故にイングランドはネーデルラントに上陸できなかった。
このように戦局に決定打を与える一手を欠いたまま、戦争は推移する。
フランスはネーデルラント、ドイツ諸侯とその後も戦闘を継続したが、フランシュ=コンテなどいくつかの領有の成功を除き戦局は好転せず、さらに1677年、イングランド王チャールズ2世の弟ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)の娘メアリー(後のメアリー2世)とウィレム3世の結婚により、フランスのネーデルラント侵攻失敗は決定的となった。
フランス国内でも戦争続きで赤字となり、その補填は住民に対する増税で賄われ、憤激した国民が暴動を起こしたりしたためフランスも已む無く講和に踏み切った。
ネーデルラント・神聖ローマ帝国・ハプスブルク帝国・スペイン帝国・フランス・日本・イングランド・スウェーデンバルト帝国が集結し、ナイメーヘンにて行われた数々の和約はフランスによって袋叩きにされたはずのネーデルラントが優勢のまま推移し、締結された。
フランスは目標としていたネーデルラントの併合にこそ失敗したが、フランシュ=コンテをハプスブルク家から奪い取った。
戦後もルイ14世は領土拡大を図り、1679年から1683年にかけて東部国境地帯の領土の過去を調査、フランス領とみなした土地を軍事占領・併合する方法に切り替えた。
これはネーデルラントにおける領土拡張の主張と同一であり、当事者同士の話し合いもなしに一方的にフランスの権利を主張するかなり強引なやり方だった。
1683年までにルクセンブルク、ストラスブールを併合、ナイメーヘンの和約による領土拡大やヴェルサイユ宮殿の移転と並んでルイ14世の治世はこのとき絶頂期に達した。
しかし、こうしたやり方は諸国の警戒心を煽り、1688年から9年間も続くことになる大同盟戦争の勃発に繋がったが、それはまた別の話である。
日本はこの戦争でネーデルラント領となっていた東南アジアを一挙に獲得し、こちらも絶頂の時代を迎えようとしていた。
ただし、ジャワ人の日蘭戦争への貢献から、併合は憚られ、あくまでもジャワ島を独立させるものとした。
どのみち、ジャワ島にはジャワ人だけでなく、スンダ人など多数の民族が混在しており、統治は難しいとされたため、確定事項だったと言う話もある。
ネーデルラント東インド会社が手放した東南アジアは諸王国が独立を宣言し、日本に対して朝貢関係を構築し独立を達成した。
朝貢関係を構築した諸国の数は20国以上に上り、スマトラ島・ジャワ島・小スンダ列島はまとめて『南蛮二十余国』と呼ばれた。
朝貢関係と一口に言うと分かりにくいが、実質的な隷属であった。
各国は日本に対して臣として礼を尽くすことが厳命され、日本の元号を使用すること、白銀1000両か、もしくはそれに準ずる物品の歳幣として上納することが義務付けられた。
通商、通信は許可されたが他国との外交は禁物とされ、王の長子と次男を人質として京に住まわせるなど、謀反が起こされないように徹底した対策が講じられた。
婚姻や城郭の築城、修理についても日本に許諾が必要であり、このような惨状を独立といえるか甚だ疑問であり、もはや緩やかな統治機構といった方が適切だったのかもしれない。
南蛮二十余国はバタビアの南蛮総督府が徹底的に監視した。
戦争終わってすぐにもかかわらず、南蛮の平安は訪れなかった。
ジャワ島中部を支配するマタラム王国で住民の反乱が発生したのだ。
ネーデルラント東インド会社に唆されたシンパが起こした反乱だった。
俗に言うトゥルノジョヨの反乱である。
だが、明らかに時期が悪かった。
マタラム王国は南蛮総督府に救援を求めるとまだ常駐していた日本軍がすぐに駆けつけ、いとも簡単に鎮圧することが出来た。
ジャワ連邦はマタラム王国が実質的な宗主国となっていた。
すでにジャワ島の半分以上を勢力下におくマタラム王国以外にジャワ島を主導する勢力は他におらず、
ジャワ島東部とスンダ海峡を挟む形でスマトラ島にも領土を領有するバンテン王国も存在していたが、こちらはヒンドゥー教国家であり、イスラム教国家であるマタラム王国とは非常に仲が悪かった。
このように隣国同士結託の意思がないことを南蛮総督府が発見すると、それを助長するように努めて総督府に矛先が向かないように敵対感情を煽った。
ジャワ島内のネーデルラント勢力を駆逐することが出来た日本だったが、戦時中にスマトラ島までは手が届かなかった。
だが一大拠点であるバタビアを失ったネーデルラントは離散し、戦後、スマトラ島に新たな拠点を作ろうとするもその政治的空白を日本軍は見逃すことなく、間隙を縫うようにしてスマトラ島に入植を開始したことでネーデルラントの放逐は確定的となった。
ただし、精力的に遠征を繰り返すアチェ王国やマラッカを虎視眈々と狙うジョホール王国(旧ムラカ王国)、そのマラッカを勢力下におくポルトガルも存在するため、入植者たちは外敵に対する防備も整えなければならず、入植者たちは屯田兵となり、片手に農具、片手に刀と銃を持ち開拓に励む。
現地住民との軋轢も生じ、しばらくは流刑地としてその名がたびたび資料に現れる。
一方商戦に敗北したネーデルラント東インド会社は病人のように衰弱していくことになる。
1799年にネーデルラント東インド会社は本国の意向により解散することになった。
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