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第2話 土地開発と食糧改革

 権力闘争が収束に向かい、幕府内部が穏やかな風が流れてくると幕府親政派は外部へと目を向ける。

 世俗は飢饉によって今日食べるものにすら困り喘いでいた。

 1452年に南太平洋のシェパード諸島近海の海底火山であるクワエの大噴火が複数回起こり、その噴煙の影響で日光が遮られたことにより、1455年ごろまで北半球では世界的に平均気温が下がって旱魃や冷夏が続き、さらにその後も気候変動は続いて、世界的に旱魃が頻発したが、当然日本もこの影響を受けていた。

 気候の寒冷化は水の蒸発を偏らせて旱魃や冷夏、一部地域での大雨を引き起こし、それに伴い食糧難も付随して起きる。

 1459年から1461年にかけて起きた、長禄・寛正の飢饉と呼ばれた飢饉の被害は長期間かつ日本全国に及んだ。

 まず1459年は西日本を中心とした旱魃で飢饉が発生、京都では台風が直撃し、賀茂川が氾濫して多数の家屋が流出し、これにより数え切れないほどの死者が出た。

 さらにその2年後の1461年には、前年の冷夏による不作や蝗害によって耕作放棄した農民などが大量の流民となって京都の市中に流れ込んだことで事態はより悪化し、同年正月の京都にはすでに乞食が数万人いたとされている。

 結局幕府は飢饉への準備不足故に彼らを救う手立ては何もなく、バタバタと(たお)れていく民草をただ茫然と眺めているほかなかった。

 出来たことと言えば、鳥葬の禁止だった。

 当時の京都では河川敷に死体を放置して、鳥葬を行うのが一般的な葬送の方法であり、あまり埋葬はメジャーなものではなかった。

 しかし今回の飢饉は明らかに鳥が喰って浄化できる死体のキャパシティを軽くオーバーしており、そのことに気付いた伊勢貞親が埋葬を厳命した。

 彼は穢れを嫌ったとされているが、実際彼の行動は正しく、もし埋葬が行われなければハエが発生し、ハエが媒介した疫病がさらに蔓延し、犠牲者が増えていただろうと推測されている。

 一説にはこのときに餓死、病死した人数は50000人は下らないと言われており、埋葬が行われなかった場合は80000人以上が犠牲になっていた可能性もあった。

 今回の飢饉は、中央政権が権力闘争に明け暮れ、有効な対策が出来ずに後手後手に回ってしまった、つまり幕府による人災の側面もある。


 しかしこれで飢饉の恐ろしさを実感した幕府は政策を怒涛の勢いで飢饉対策にその身を傾倒させていくことになる。

 まず、室町幕府は後に「義政検地」と呼ばれることになる全国規模の検地を実施した。

 全国津々浦々まで行き渡るほどの検地は前代未聞であり、有力一族の抵抗により頓挫するかに思われた。

 実際、関東足利一族が検地を拒絶したため、斯波氏は関東管領の上杉氏と協調し征伐する羽目になった。

 関東足利氏は降伏を申し出たが鎌倉公方は解体され、彼ら一族もろとも斬首刑に処された。

 8代将軍足利義政が6代将軍もかくやといった具合の暴君であることを印象付ける事変となった(だが実際に斬首刑に処したのは伊勢貞親であり、近年の研究ではむしろ足利義政はそれを(いさ)める立場であったことが分かっている)。


 話を戻してこの検地では惣の解体も目的の一つだった。

 惣は徒党を組んで土一揆を行い自治を承認させるという幕府にとってはこれ以上にないほど面倒な組織であり、彼らには手を焼いていた。

 同郷であるためその結束も固く、これを瓦解させることは困難を極める。

 幕府は惣の解体に腐心することになるがしかし、それでも土一揆は終わることはなかった。

 そこで発案されたのが『刀狩り』であった。

 これは百姓(農民)は刀、槍などを所持することを禁止した法であり、すでに薄々始まりつつあった身分制度が明文化されたのだった。

 この刀狩をもって日本においては明確に身分制度が確立したと言われている。

 刀狩りを実行すると惣は大きく弱体化。

 『惣解体令』によって遂に消滅することになる。

 自然的な村の代わりに近代的な村落が形成され、自治権は祭祀面や水利面などに制限され、村の幕府や国による統一維持が出来るようになった。


 義政検地によって荘園の下で働いていた隷属農民である小農の自立を促した。

 名主的な有力農民のもとに下人らの隷属農民、半隷属小農、半隷属的傍系親族などが新たな世帯を形成し、大規模な合同家族を中心とした家族形態をとっていたが、徐々に各々独立して比較的小規模な直系家族を中心とした家族形態への転換が起こった。

 新たな世帯の増加は、それまでは出来なかった隷属的農民の結婚が可能となり、有配偶率の増加と未婚率の減少に繋がり、都市部を除いて皆婚(かいこん)が当たり前の社会が生まれた。


 小家族経営によって農民の勤労意欲を増幅させ、都市人口の増加が農産物需要を招いたことなど、複合的な理由が重なり、15世紀から16世紀にかけて、日本は稀代(きたい)の人口爆発が起こった。


 その他、検地によって痩せ地と認定された場所においては牛や豚などの畜産を奨励した。

 当時はまだ仏教的価値観によって食肉は禁忌とされていたが、それを打破したのは9代将軍足利義尚であった。

 牛や馬だけではなく、山羊や羊の飼育も随時奨励していく。

 主な理由は羊毛であり、これを利用した紡績業を活発化させ、さらに土地開発の過程で行われた治水工事のおかげもあって河川の推力を利用した水力紡績機や自動織機などが全国至る所に現れることになった。

 日本人が身に着ける衣類は麻から一気に毛織物へと進化し、手触りよし、耐寒よしと毛織物は麻の完全上位互換として世に君臨し、これを着た人間はもう二度と麻を着ることができなくなったと言われている。


 そして、升を統一されたことによって統一された利率で年貢を取り立てるだけでなく、一つの土地に対し、作人は一人までとされ、荘園は廃止された。

 収穫高は石高として表され、1石は1年間成人男性1人が食べていける量と定義し、この単位を浸透させた。

 効率的な稲作のために区画も整理され、曲がりくねった畦道(あぜみち)は碁盤の目のように一直線に交わり、「京ができるのか」と住民に言わしめるほどであったという。

 田畑永年売買禁止令を布告し、百姓を農地に縛り付けることに成功する。

 また、村単位で年貢を納める村請制度を制定し、追い打ちとばかりに分地制限令によって分割相続を制限しただけでなく、五人組制を制定し、年貢は5世帯共同で納めさせるように義務付けた。

 1世帯が納められなければ連帯責任で5世帯が罰を受ける(それが嫌なら他の4世帯が代わりに収めろ)という過酷なものであった。

 領主は数年おきに検地をおこないその地勢を追認して石高に相応の年貢を取り立てるように義務付けられ、四公六民(4割が大名、6割が民衆)の取り分とされた。


 年貢を少しでも和らげるようにして同時多発的に数々の農具が発明された。

 例を挙げるなら千歯扱きや千石通し、三本鍬や竜骨車、踏車などである。

 また、肥料は糞尿や野草(刈敷)という単純なものから干し鰯や石灰など加工生産されたものが流通するようになり、この頃から日明貿易によって得られた明銭を通貨として貨幣経済が本格的に始まろうとしていた。

 伊勢貞親は肥料研究の一環として、小規模ながら硝石(硝酸カリウム(KNO3))の生産も行っていた。

 日本では梅雨の時期があるため、雨に流されやすい硝石は採掘できない。

 後に硝石丘法(人畜屎尿を屋外で積み上げて1~3年を経過させた土と灰汁を反応させる方法)を考案して大規模生産することに成功したのだが、生産された硝石は本来の想定とは違う使い方をされることになる。

 中華大陸から輸入された農具もいくつかある。

 商品作物の生産も貨幣経済の始まりに拍車にかけた。

 貨幣は日明貿易によって幕府が手を加えずとも輸入されていたため、明と貿易を行うだけで貨幣の価値の変動などを知らない当時の日本は経済が潤っていった。

 この時から畜力を利用した農業が活発化した。

 牛馬耕や太一車がその最たる例である。

 牛や馬を利用することが前提の農具がこの後も次々と誕生し、農業用の役畜を貸与する組合も現れる。

 これら百姓の工夫や技術の向上によって日本の国土は石高を大きく増やし、それに比例して年貢による税収も増加した。


 日明貿易によって占城(チャンパ)稲を輸入し、降水量の少ない地域、とりわけ瀬戸内海沿岸地域で稲作が始まった。

 その味からあまり民衆受けせず、雑穀扱いされていたが丈夫であり幾度となく飢饉を救ったことから『救穀』と呼ばれた。


 また、伊勢貞親本人が菌床栽培を実演して見せた際には家臣団から「(にわ)かには信じがたい」と言わしめたとされている。

 必要なものはキノコの菌糸が含まれる原木をおがくずにしたものだけ。

 また、人の唾液を添加するとさらに成功率を引き上げた(これは後に米糠に置き換えられ、米糠とおがくずの培養基を大量に準備することで更なる量産化を達成した)。

 これによって実質的にそれまでは高価な食品だったシイタケを無限に生産することが可能となり、緊急時の食糧となるだけでなく、食卓に花を添える。


 特に保温折衷苗代は革命的だった。

 いくら耕作地を増やしても、稲が病気になればその労働の全てが水泡に帰すことになる。

 ましてや直接的に台所事情を逼迫する百姓にとって、この問題は死活問題だった。

 その中でもやませの影響を受ける東北地方は特に冷害に悩まされていた。

 伊勢貞親は全国検地の視察をする過程で 同じ品種でも早植ほど冷害に強く稔りがよいことに気がついた。

 そこで実験的に春、たまたま野菜苗の温床に紛れて生えていた稲苗を試しに田に植えてみたところ、穂の出が早く、稔りもよかった。

 だがこの方法は成功率があまり高くない。

 そこで水田に苗床をつくり、芽出し種子を床面にすり込んだ後、焼籾殻を厚めにかぶせ、その上を油紙で被覆し、周囲を泥でおさえ、播種直後は通気をよくするため、溝だけに潅水するが、苗が伸びたら床面まで水位を上げる。2週間ほどして、苗が紙を持ち上げるようになったら油紙を除くことによって、高い成功率で苗を早植させることができるようになったのだ。

 魚油や植物油がこれに用いられたが、特に鯨油は重宝され、それを水田に流して油膜をつくり、そこへウンカなどの害虫を叩き落として窒息させることができた。

 何しろ今まで不安定(というより失敗することの方が多かった)だった東北での稲作の豊作の確率が格段に向上したのである。


 また、昔は乱雑に植えられていた苗を、代掻きをして平らにした田に縄を張ったり、型枠を転がしたりして目印を付け、整然と植える正条植えを行った。

 これによって株の間隔が揃い、稲にむらなく日が当たり、風通しも良くなり、除草作業の能率も上がって収量が増加することになる。


 この保温折衷苗代と正条植えが広まってからは常に飢饉に怯えていた東北の庶民はこの農法に驚きつつも大いに喜んだという文献があちこちで見つかっている。

 彼による農業改革は国力の根源である日本本土の人口増加に大きく貢献した。

もしよろしければ、ブックマーク、ポイント評価よろしくお願いします。

Pixivで架空地図作っています。

https://www.pixiv.net/users/84505225

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