第18話 インドシナ半島と南洋會社
日本人の東南アジアへの進出は本州の人口の飽和によって促進されたと言われている。
既に東南アジアの主要な港湾都市などには日本人町が軍事力と貿易による利潤を背景にその勢力を強めており、暹羅では日本人が現地の政治に掣肘する事例なども存在していた。
原動力となったのが日本で大量に産出された金銀銅を元手とする購買力だったことは言うまでもない。
だが、当然ながら当事者にとってみればそのようなことはあまり芳しい光景ではない。
1630年、日本の勢力拡大を危ぶんだプラーサートトーン王、シャイフ=アフマド=クーミーにより暹羅日本人町は焼き討ちにあい300人以上が死亡し、日本人も霧散、町は没落した。
当時、日本人町には奴隷を除いて15000人以上の日本人がいたとされ、この惨たらしい事態に激昂した将軍は暹羅に派兵を決意する。
タイランド湾には日本の重巡洋船が跳梁跋扈するようになり、暹羅に対しての圧力を日に日に増大させている。
東南アジアからの貿易船も日本海軍の圧力によりタイランド湾に侵入することが出来なくなってしまった。
この行為にはネーデルラントも抗議の声を上げたが、先に音を上げたのは暹羅であった。
暹羅は貿易によって繁栄を築く王国であったため、この封鎖作戦は効果覿面であった。
プラーサートトーン王は遂に屈服の意思を示し、日本人町の焼き討ちを謝罪した。
暹羅は日本人が政治的干渉をしないことを条件に日本の封冊国となることを強要され、また万斛近郊のサムットプラーカーンや、マレー半島の最も狭い地域であるソンクラーを含むクラ地峡一帯を幕府の直轄地として引き渡すことになった。
マラッカ海峡が開拓されていなかった当時、ソンクラーはインド洋と南シナ海を陸路で繋ぐ物流の要衝であったため、ソンクラーの損失による暹羅にとってのダメージは計り知れないものであった。
また日本人による柬埔寨地方への入植を承認させる。
後に暹河と呼ばれたサムットプラーカーンにとある勅許会社が進出した。
同様のことは同じインドシナ半島東海岸一帯でも起こった。
占城はインドとの中継貿易で大変栄えた港市国家である。
インドと中華大陸を繋ぐ貴重な地点であるがゆえに、当然そのような都市にも日本人商人は進出していた。
戦乱状態だったインドシナ半島東海岸にて日本人商人は武力、すなわち型落ちした火縄銃を売りさばき、巨万の富を得ていたが、自分らが武装して占城などといった港湾都市を手に入れる方が利益が大きいと考えた商人らは自らが兵を率いて南部地域を併呑した。
それだけに飽き足らず中部にまで進出し、当時大規模な日本人町が完成しつつあったホイアン以南を完全に手中に収めた。
彼らには未だに北部に進攻する余力を残していたが、その状況に待ったをかけたのは意外にも幕府であった。
その理由はあまりにも暴れ過ぎたからだ。
実際これ以上北部に進攻すると超大国たる清の手痛い反撃を受けかねない。
現状既に清の逆鱗を逆撫でしている状態であることには間違いなく、ホイアンや占城は有用な港湾都市であることも鑑みて、これ以上事態を悪化させるのは幕府としても見逃せないと考えた故の掣肘であった。
それに南越は絶交した清との交易場所でもあった。
清・南越と日本の一触即発の事態は何とか回避された。
だがしかし幕府としても現状は西班牙諸島へ注力していたため、インドシナ半島東海岸の領有化するにはまだ時期尚早だった。
地域の殆どの住民が原住民であるキン族であり、彼らの文化の造詣に浅い日本人は圧倒的にアウェーであった。
今強硬的な統治を行うと反乱は不可避であり、現地商人には彼らの逆鱗に触れぬような穏便な統治が求められた。
彼らは現状維持を選択し、日本人らが新出してくる前からの統治法から新たなものを生み出すことなく、旧態依然の状況を維持した。
その結果、依然と変化したのは統治者が日本人商人に変化したのみであった。
そういった彼らは占城など主要都市には都市防衛のために築城をはじめ、さながら国内における大名のようにふるまうようになった。
その中のある大名が占城を手に入れたなら、インドとの交易路も獲得したいと考え、建設されたのが『南洋會社』だった。
その前身は『津軽會社』といい、蝦夷地と本州を、また北蝦夷地とも便船によって繋いでいた会社である。
津軽會社は津軽海峡の往来で収益を上げると今度はそれを全国規模に拡大。
まだ田舎であった関東地方を拠点に太平洋側、日本海側に限らず物流を席巻し、日本沿岸地域の船舶輸送において大部分のシェアを得ることに成功する(この時点で社名を津軽會社から『日本商船會社』に変更している)。
初代社長が役人としての肩書を持っていたため、経理面で幕府のそれを模倣したわけだが、これが成功している。
南洋會社の特徴は日本で初めて現代でいうところの株式会社のシステムを採用したというところだ。
以前は出資者から資金を募って航海し、一度の航海が終わったら利益を生産して出資者に分け前を分配するシンジケート方式が主流だったが、南洋會社は資金を一度で還元せずにそれを資本金として恒常的に運用し、出資者には株式配当という形で定期的にお金を還元していくという革命的な方針をとった。
これによって出資そのものが1回限りのギャンブルではなくなり、また無限責任から有限責任へ転換したことで出資した以上のリスクはなくなるため、他の競合會社とは比肩できない程の出資額を募ることができた。
その上多くの株を保有する株主には特権を与えた。
それは、『株主総会』の設置である。
株主総会では多くの株を保有する資本家の発言権は大きかった。
その上取締役の決定権も有していたためその影響力は、株式会社における最高の意思決定機関という肩書は伊達ではないということを見せつける。
株主総会の設置によって所有と経営が分離する形となった。
このシステムの甲斐あって南洋會社の経営は安定した成長を実現したのだ。
しかも南洋會社は幕府から勅許を貰い、東南アジアにおいて軍事権や要塞の建設権、現地の有力者と交渉する権利さえ認められており、領土を持たない小さな国家と言った方がより正確であった。
それ故にはじめはかなり横暴な組織だった。
これによって関東は資本家が集結し一大貿易拠点と化し、その利益は関東一体にばらまかれたため、平安の博多のような莫大な富がうねる場所となった。
明の滅亡によって衰退した博多とあわせて当時は「西の堺、東の横浜」と呼ばれた。
更にこの会社の拡張路線は留まることを知らず、ルソンなどの東南アジアとの貿易にも進出する。
そして占城を獲得したことでインドへの道が開け、日本商船會社は南洋會社を立ち上げ、人と船を譲り渡した。
南洋會社は海外植民地に自前の造船所を建造し、船の調達を行った。
これには幕府も片棒を担ぎ、多数の重巡洋船や軽巡洋船を売り渡している。
南洋會社が植民地支配の尖兵としての役割を担ってくるようになったのはこの頃であると言われている。
南洋會社はマラッカ海峡を経由して1632年に日本人としては初めてムガル帝国に上陸していた。
南洋會社の中でインド洋への航路の開拓を行い、直接インドへ買い付けを行おうという運動が巻き起こった。
ムガル帝国は日本人が初めて見た欧州のどの国家よりも国力が上の国家であった。
それまではアジア人というものは欧州人に虐げられてきたというイメージからは想像もできないほどに立場はムガル帝国が上であり、その経済規模、人口規模からみても武力による制圧は不可能であると悟るには十分である。
南洋會社はムガル帝国と友好条約を結んだ。
その際に献上した贈り物はその内容から失笑されるという、交渉団にとっては屈辱であり、陰鬱な気分が蔓延したが、ソーマ銀には注目し、対してすかさず商魂逞しい船長が「金銀ならいくらでもある」と言い、その話にムガル王も食いついたため、両社にとって貿易の見込みはあると判断された。
ムガル王としては日本人にはこれから商売に励んでもらい、それによる関税を得ることが重要であった。
国王はベンガル地方のダゴン(現在のヤンゴン)において小さな交易所(弁牙交易局)を設立することを許可した。
ムガル帝国内の市場にはクローヴやシナモンなどの香辛料、数多の宝石類が日本では考えられないほど廉価で売られていた。
日本国内では大商人や大名ぐらいしか手が出せない香辛料も、ムガル帝国では庶民の味であった。
市場であまり売られていないものといえば彼らの要望通り金銀や絹、あとは珊瑚くらいであった。
ムガル帝国には毎年600隻もの交易船が停泊するというのだから、その潤沢具合はまさに世界の中心として鎮座していてもおかしくない。
南洋會社の船団はムガル帝国にて格安で手に入れた物品を満載して夏のモンスーンに乗ってビルマのラングーンを経て帰路に就いた。
この航路を『天竺航路』という。
また、ラングーンでは麻栗樹が生産されていることに目をつけ、ここでも商取引が行われていた。
チーク材は優秀な木材として重宝され、材質は堅く強靭で耐久性があり、病害虫にも強いばかりか、天然の油成分があって、オイルやニスで手入れしなくても耐久性があり加工も容易で、よく乾燥させた場合は伸縮率が小さく家具に向いていた。
耐水性を有していたために、甲板・内装などの船舶用材や建築材として広く使用された。
高価であるため、薄くスライスして突き板の表面材にも用いられた。
天然の古木から切り出されたチーク材は特に耐久性があるが、チーク材の中でも最高峰としてその価値は筆舌に尽くしがたいものとなる。
彼らが持ち帰ったスパイスは仕入れ値が圧倒的に安かったが日本国内やスペイン向けに販売する値段は据え置きとしたため、イスラム行商人の介入によって得られるそれとは比較にならないほどの利益を上げる。
その利益の一部は幕府に渡ったため、財政をますます潤すこととなった。
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