第16話 遣欧使
幕府はこの頃からポルトガルやスペイン、オランダやイングランドに対して興味を示していた。
これまで交流や戦争があったわけだが、驚くほど彼らについて知悉していなかったのだ。
1700年代までに急速に発展するヨーロッパ社会の発展に遅れないようにするために、ヨーロッパの科学、哲学、および経済など、諸々の技術を研究する。
清との交易を始めるべきと言う考え方もあったが、日本は航海における技術とその存在感の点で中国を急速に引き離し始めたため、中華大陸と疎遠になっていく。
これは先見の明があり、直面する主な敵はもはや清ではなくヨーロッパであるという考えが日本で高まっていた。
こうした潜在的不安が幕府主導のもと遣欧使を派遣させることを決定する。
目的は欧州各国の国王に国書を提出し、西欧文明を調査することだった。
遣欧使の中には老中や留学生なども含み59名が参加した。
彼らは各国の雇われ外国人によってポルトガル語やオランダ語などを何とか会得していた。
マラッカ、インド、喜望峰、ゴールドコーストを経由して遣欧使が初めて欧州の土地を踏んだ場所はポルトガルであった。
その後に遣欧使はスペインや未知の国フランス、オランダ、イングランドを巡り、その建築用式や気候、各種産業について理解を深めた。
特に地震大国日本本土では考えられないような石造りの建築は日本人を大いに唸らせた。
帰国は3年後となったが、その間に学んだことは多岐にわたって、語り尽くすことは難しい。
そのまま欧州に残って勉学に励む者もいた。
欧州から得た知見は総じて「青学」と呼ばれ、国内で活発な議論の種となった。
欧州に派遣された留学生らはありありと実情を幕府に報告する。
その内容は徐々に日本国内にも反映された。
家畜の輸入が特に日本に影響を及ぼした。
羊はメリノ種やロムニー種、サフォーク種、馬はアンダルシアやアングロアラブなどが輸入された。
まずは馬について、イングランドから輸入したアングロアラブ種は純血アラブ種とサラブレッド種を交配させて生まれた種である。
サラブレッド種の弱点である気性の荒らさと虚弱体質を純血アラブ種と交配させることで克服することに成功したのがアングロアラブ種である。
つまり、温厚で頑丈な身体を持ち、それでいてスピードもある。
アングロアラブは日本の輸送を劇的に変化させた。
アンダルシアはスペインの外交的な道具として扱われている節があった馬である。
小柄でありながら頑丈なだけでなく、知的で感受性に富み、そして従順な馬であった。
そのうえ長くて太い鬣と尾を持つ優雅な馬であったため、大名らには人気を博した。
これら二種の馬は併せて『欧州馬』と呼ばれて日本の輸送手段として日本で全国的に普及し始めていた道産子から取って代わられた。
アングロアラブやアンダルシアは馬車としてだけでなく、水道において船を牽引するなど水運でも活躍する。
羊のメリノ種はアンダルシアと同様にスペイン王室の外交における重要な立ち位置を占める。
その輸出もアンダルシア同様にしばしば政治的な意味合いを持っていた。
フィリピン戦争の対立から国交断絶状態に等しかった両国なので、イングランドから譲り受けることで間接的に入手することが出来た。
メリノ種の羊毛は高品質で年々需要を増していた日本人の衣類の供給に一役買った。
ただし、その初期は当然のことながら高級品扱いであり、庶民の手が届く産物ではなかった。
メリノ種の羊毛から作られる衣類を着用できることが一種の経済的なステータスとして機能した。
ロムニー種は羊毛も利用できるうえに食用としての価値もあった。
メリノ種の羊毛と比べると品質は落ちるがその分安価であり、庶民はロムニー種の羊毛で作られた絨毯を愛用していた。
サフォーク種は専ら肉食用に調達されていた。
羊は乾燥に強いため瀬戸内地域や蝦夷地中部・南部で育成された。
また、日本において植物の交配は積極的であったが、動物の交配という概念が希薄であった。
恐らく倫理的問題が阻害したものと思われるがその概念と技術が導入されたことは大きな利益になった。
また、去勢によってどんなに気性が荒い家畜でも大人しくなるという事実を知ったのも遣欧使節団が初めてである。
これまでの馬車は馬の逆鱗に触れないように非常に繊細な馬さばきが要求されており、その道中は数人がかりで馬の面倒を見る必要があったわけだが、その面倒ごとも去勢によって解決の兆しを見せることとなる。
次に農業において三圃制が導入された。
三圃制とは、耕地を三分して作物を替えることによって地味の低下を避け、連作障害を防ぐ農法であり、作物の収穫効率が跳ね上がった。
村の全耕地が三つの耕圃に分割され、1つは休閑地とされ、他の2耕圃にはそれぞれ春播き(大麦,エンバクなど)あるいは秋播き(小麦,ライムギなど)の穀物などが植え付けられ、これらが順次繰り返された。
当時欧州と同様に寒冷であり畜産が広まりつつあった蝦夷地にて三圃制農法が採用され、総合的な収穫高を増やしていった。
これが蝦夷地開拓の更なる原動力となり北蝦夷地(樺太)に大規模に入植する直接の原因になったとされている。
三圃制が導入されてから蝦夷地(北蝦夷地や千島列島、多里也半島を含めて)の人口は100万に満たなかったが、一気に2倍以上に膨れ上がっただけでなく、家畜の生産能力は3倍から5倍にと格段に向上した。
思想の流入も活発化した。
将軍は国外からの思想を日本の統治を破滅に導く危険思想であると勝手に決めつけ輸入を嫌ったが、欧州でも君主主義が正統派であったことから次第に態度を軟化させ、むしろ輸入を奨励した。
特にニッコロ=マキャヴェッリが著した『君主論』(1532年)は幕府の統治体制に多大な影響を与えた。
フランスでは英仏百年戦争など度重なる戦乱によって貴族が没落していくと国王は中央集権化をはかり、絶対主義体制を整えており、こうした絶対主義国家では、国王は神のみ責任を負い、その権力は唯一・最高・神聖不可侵とする『王権神授説』(ロバート=フェルマーが主張)に基づいた専制政治が行われていた。
トマス=ホッブズの『リヴァイアサン』の写しが持ち込まれ、自然状態は人々が自然権を行使することによって発生する『万人の万人に対する権力闘争』を防ぐには、社会契約は自然権の全面的な譲渡によってなされ、絶対主義を持った政府が成立し、さらには人民の抵抗権は否定されるという理論である。
一方ジョン=ロックの『市民政府二論』(1690年)やシャルル=ド=モンテスキューの『法の精神』(1748年)などの権力分立の考え方が欧州から持ち込まれている。
自然権には所有権があり、平和の自然状態であるが、不安定な状況に陥る可能性があるため、社会契約を結ぶ可能性を模索し、契約は自然権を共同社会に委ねる方式を採り、議会制民主主義が成立するとし、抵抗権も認められるという理論も出現した。
ジャン=ジャック=ルソーは自然状態は人間にとって最善の状態であるが、社会が人間を堕落させるため、全員一致による社会契約を結ぶことによって一般意思が形成され、それは法という形で具体化されるとした直接民主制的な政府が成立すると考えた。
国家権力が一つの機関や勢力に集中していたのでは権力が強大となり、民主政治が保証されない可能性が出てくる。
こうした状況を避けるために、政治権力や統治機関を分割し、権力相互の均衡と抑制によって民主主義を保証していこうとする考え方が生まれた。
思想の流入は禁忌の伝搬も促した。
アンドレアス・ヴェサリウスが著した『人体構造論』が齎され、それまで絶対の禁忌であった人体の解剖が一部の酔狂な医師によって執り行われることになった。
とはいえ、そういったものはまだ畏怖の目で見られており、医学的な進歩は見せたものの、その価値観までは変わらず忌避され続けた。
こうした知識や技術がお雇い外国人を経て日本に伝承したわけだが、特徴的だったのが、ユダヤ人の多さである。
ユダヤ人は欧州で金貸しで財を成した人間が多かった(キリスト教の教えでは金貸しは無利子で行わなければならなかった)が、それゆえに迫害の的とされていた。
なお、時の為政者はたとえ低金利で金貸しをしてても「高利貸し」と呼んだ。
16世紀に発表された『ヴェニスの商人』は正にそれを体現するかの如くヘイトを稼いだ。
非キリスト教徒である彼らは、キリスト教を国教とする国家では居住地や職業選択など、諸処の権利が制限されていた。
近世に入るまで、彼らはポグロムに苛まれた民族であった。
それに辟易したユダヤ人が一縷の望みをかけて日本に向かった。
日本では高利貸しは禁止されておらず欧州よりは居心地が良かったのには違いない。
ユダヤ人の活躍は特に知的専門職で威力を存分に発揮した。
金融業や出版業で大成する者もいれば、不動産業で成果を出す者もあらわれた。
幕府は優秀なユダヤ人を優遇するばかりか、時には外交官や銀行頭取などの場面で登用することもあった。
学術面や芸術面においても知的専門職と同等の活躍をし、日本の学術家や芸術家に大きな影響を及ぼした。
日本で活躍したユダヤ人の全てはこの時期に移住してきたユダヤ人の子孫である。
その子孫の中には後に莫大な財を成し、ロスチャイルド家を銘家にのし上げたマイアー=アムシェル=ロートシルトや、相対性理論を打ち立て、『20世紀最高の物理学者』と呼ばれたアルベルト=アインシュタイン、原子爆弾、水素爆弾を開発し、戦争の在り方を技術力で変貌させたロバート=オッペンハイマー、ユージン=ポール=ウィグナー、レオ=シラード、エドワード=テラー、スタニスワフ=マルチン=ウラムなど、錚々たるメンツが並ぶ。
彼らの科学力は日本の国力を底上げに大きく寄与することになる。
日本史において多くの外国人が登場するようになった決定的瞬間だった。
新大陸に関する情報も得た。
我々が住まう地球は球体であり、欧州から見て西、つまり、日本から見て東側に新大陸が存在するとされ、そこでは唐辛子が取れるなどといった情報がもたらされた(地球が球体であることはスペイン宣教師が持ち寄った地球儀によって理解していたが、船乗りの間でもあまり浸透されていたわけではなかった)。
日本人はこの時点で地球全体の世界地図を大まかに理解したと言われている。
しかも、欧州各国は先を競って植民地化政策を推し進めているという情報も付属していた。
これを聞いた幕府直属船や南洋會社などの船乗りはすぐさま東に船頭を向けて出港した。
目的は貿易のためではなく、新世界の発見である。
欧州ではインド航路の開拓という大きな目標が達成されて鳴りを潜めた大航海時代だが、新大陸の発見を目指して日本による大航海時代は産声を上げた。
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