第15話 スルタン三国掃討 ★
幕府は増加する日本本土の人口を抑制すべく新たに獲得した西班牙諸島に大量の移民を送り込んだ。
手始めに譜代大名らの次男や三男が一地域の領主として送り込まれた。
彼らは独立を画策するグループやゲリラ、匪賊を討伐しながら土地を開墾する目的を命じられた。
いわゆる屯田兵である。
今回特に陸戦で功労を上げた九州・四国出身の西班牙大名に美舎邪諸島や弥陀直島を安堵した。
だがこれには皆が狼狽する。
呂宋島と違い、南部西班牙は僻地の中の僻地。
石高はおろか、統治すら行き届いていない辺鄙な土地であったのだ。
彼ら西班牙大名が汗水と血潮を流して開墾した土地をみすみす明け渡すことは彼らの自尊心をひどく痛めつける所業であった。
大名の中には幕府と事を構えようと覚悟を決める者も現れた。
進駐しつつあった親藩・譜代の大名に対して西班牙大名は籠城戦で対抗。
血は流れずとも、決戦は時間の問題であった。
さらに事態を重く見た幕府も直接介入に乗り出したため、決戦となれば多くの血が流れるのは誰の目に見えていた。
静寂を破ったのは京極氏と薩摩氏の和睦だった。
薩摩氏の要求を全面的に受け入れ、呂宋島の肥沃な土地への安堵を条件に中南部西班牙の平定に協力するように要請した。
薩摩氏としては願ったりかなったりであり、当然これを快諾。
一連の『西班牙危機』は急速に緊張が弛緩していく。
他の御家人も幕府が仲介し同様の条件で呂宋島への安堵が許された。
幕府としても、西班牙諸島はあまりにも遠すぎるため、親藩譜代大名を北部に安堵する意味は薄いと考え納得した。
ただし揚張、馬尼剌は幕府の直轄地とし軍を駐留する権利を認めさせた。
現在大型船舶が停泊可能な港はこの2港くらいしかなく、その上数少ない大都市であった。
元々西班牙危機の原因となった身勝手な開拓を制限し、貿易を統制しようと試みたのである。
続いて権益関係をおおよそ安定させた幕府は日本各地の農民を募って西班牙開拓団を組織した。
貧しい者でも西班牙諸島に行けば広大な農地が手に入るという謳い文句に惹かれた小作人や都市部で身を窶していた農地出身の若者は挙って志願した。
家族ぐるみで西班牙を目指した家庭も少なくない。
幕府は版画を利用して全国にポスターを配布したことでその夢のような情報は一気に全国に流布され、全国各地から応募が殺到した。
このように幕府主導のもと開拓団を組織したことでおよそ20年で100万人近くの日本人が西班牙に船頭を向けて出港した。
だが、その実情は苦しかった。
開拓民は一攫千金の夢を見て西班牙諸島に渡ったが、日本とは異なる風土や気候に加えて、原住民族との衝突に悩まされることになる。
原住民族は日本人の開拓団によって土地を追われていたため、日本人に対する憎悪は凄まじかった。
その上、総督府は万満河の治水工事炭鉱開発などで原住民族を奴隷同然に酷使した。
対する日本人も原住民族による首狩りの被害も年々増加傾向にあり、もはや無視できないところまで来ていた。
日本人と原住民族との隔絶は決定的なものとなった。
このような実態は日本本土に伝えられなかった。
初代総督京極高次は武力を以てして解決を試みた。
西班牙諸島で安全なのは呂宋島のマニラとその以北である万満河流域などであったわけだが、大名ら屯田兵の活躍もあり、戦場は呂宋島から美舎邪諸島に南下した。
呂宋島で生産された食糧は最前線に届けられ、屯田兵の力の根源となっていく。
彼らは屯田兵として恥じぬ戦いを演じ、耕作地を広げていった。
『馬尼剌総督府』はその支配領域を広げるにしたがって『呂宋総督府』、『西班牙総督府』と名前を変更していった。
当初は幕府の命令通りに行動する忠実なる総督府だが、次第に幕府の名を僭称して傍若無人に振舞うようになり、地方政権としての顔を持ち始める。
中央政府たる幕府が統治するには西班牙諸島はあまりにも遠方すぎたのだ。
そのため、この総督府の事を『征夷大将軍のいない幕府』と呼ぶことがある。
とはいえこの首輪を外れそうな存在に幕府は手を打つことなく黙認したが、総督府長官の任命権は幕府が握っていたため、ブレーキがかかっていた。
派遣された大名にはそれぞれ行政に着手し始める。
『藩』を割り振り安堵し、さらなる下層構造を構築し、自立した政治・経済・社会のまとまりを持ち、さながら小さな国家のように機能した。
抵抗した民族は見せしめとして村ごと焼かれ、農奴か、あるいは要塞の建設、インフラ整備のための重労働に従事させられた。
その労働環境は酸鼻を極め、ある書物には「1日100人は死んでおり、死体の埋葬が間に合わない」とある種の悲鳴を上げているものもある。
日本本土では廃止された小作制度が復活し、日本人豪農によって原住民族は搾取されていた。
この制度は原住民族の人口抑制も狙っていた。
彼らは人頭税を小作料若しくは総督府から支払われる低賃金で賄っていたため、貧困化が留まることを知らず、各地で餓死者が続出しさながら地獄の様相を呈している。
新規にやって来た開拓団に対する年貢は、最初の数年に関しては免除されていたのだが、その皺寄せは原住民族へ重税という形で重くのしかかった。
その上他の民族が謀反を企てていることを密告すれば人頭税を一定期間免除されたことから、各民族が他民族を疑い始め、疑心暗鬼に陥り、各民族が協調して絶対数で勝る日本人を追い出すことは事実上不可能になっていた。
そのあまりの死者数から「白骨街道」と呼ばれた呂宋島横断道路は、結局のところ彼ら原住民族を討伐するために利用された。
特にイロカノ族の密告によって行われたタガログ族への攻撃は惨憺を極めて、タガログ族コミュニティは筆舌に尽くしがたい滅びようだったと言われている。
この事件は「葉魚の惨劇」として今日まで語り継がれている。
呂宋島と美舎邪諸島を手に入れ、残る敵はスルタン3か国となったわけだが、とりわけスールー王国が一番の危険因子であった。
その理由は彼らが行う海賊行為にある。
彼らはただでさえ危険な航海事業を更に危険にしていた。
スールーの海賊はパラウ船やガライ、ラノンと呼ばれる、小型ながらも取り回しが容易な船で接近し、クリスやタロンといった剣、バロンと呼ばれる槍を振り回した。
更には鹵獲したマスケット銃やランカタ旋回砲(名前は物騒だが、当時のランカタ旋回砲は精度が低く、かなりの命中難であったとされる)で武装した海賊もいたほどである。
目的は奴隷貿易である。
スールー海賊にはスペイン帝国も手を焼いていたが、これといった対策は講じられなかったため、被害は拡大してしまった。
むしろ前述の最新鋭の武器はスペイン帝国からもたらされた賜物であるため、逆に武器を与えてしまい強化してしまっていたといっても過言ではない。
はじめのうちは無関心だった幕府だったが、被害が嵩むにつれて無視できない存在であると気づいたため、海賊征伐を掲げてスールー海やセルベス海に海軍を派遣した。
しかし、当たり前の話だが水夫は技術職であり、人を船に乗せて船乗りというわけではなかった。
その上船の上で生活する者の中には漁撈民や貿易商など、操舵できても戦いは知らない人間も多いため、海賊征討のための人材不足に陥った。
これを何とか解決しようとして、減刑を提案、褒賞を与えるなどして倭寇にスールー海賊を襲わせるように使嗾した。
特にすでに捕縛されてあとは刑を執行されるだけだった倭寇に対しての減刑は有効だったようである。
海賊行為はいかなる理由があろうとも死刑であり、「命あっての物種」と考える海賊船員にとってはこれでもない願いだった。
ただし海賊征討を行っている期間も刑期に含まれたため彼らは海の上であるにもかかわらず不自由のみであった。
足には錘をつけて、天井をつけた船をオールを漕がせていた。
いざというときに敵に協力させないための措置であり、また、反乱の可能性を潰すためでもあった。
この海賊狩りの過程で同士討ちを防ぐための旗が考えられた。
最初は大漁旗だったが、種類も多彩なうえに海賊はそれを奪って日本商船であると欺瞞したり、凝らずとも簡単に偽造できたり、見間違えたりしたため正式な国籍旗が定められた。
それが現代にも続く『旭日旗』の歴史のスタート地点となった。
幕府は如何なる努力を払ってでも海賊討伐を続けたが芳しい成果は挙がらず、捕縛したスールー海賊の即決処刑などで人員の数を直接減らそうとしてもスールー海賊の首領は日本人奴隷を活用してその規模を維持し続けた。
激昂した幕府は海軍を派遣しスールー王国を征伐することを決定した。
スールー海賊の征伐ではない、スールー王国の征伐である。
これにはスールー王国民の並々ならぬ怒りが根底にあったのだが、それを誘ったのは日本の漁業関係者だった。
スールー王国は日本と朝貢関係にあった。
スールー海賊は日本の商船を襲わないことを条件に、日本人傭兵を廉価で売り渡し、スールー王国を保護するように条約を調印した。
だが、実際この条約の前後には「この条約に調印しなければ侵攻も辞さない」という強い脅迫があった。
飴か、さもなくば鞭か。
スールー王国は苦渋の決断ともいえる行動で、この条約に調印したのだ。
だが、安く、大量に売り込まれるようになった魚介類によってスールー王国の漁師は仕事を失ってしまった。
しかもその魚介類は日本商船が武力をチラつかせて追い出した海域から獲れたものだった。
スールー王国民の殆どが漁師であったため、ほぼ全員が職を失ったといってよい。
そんな彼らを拾ったのは何を隠そう日本人。
どのようにして生き残そうとしたのかと言うと、彼らを奴隷として購入することだった。
彼らを奴隷として漁撈に動員して日本漁業は更に生産力を上げるばかりでなく、日本人から奴隷に変わったことによって低コスト化、つまり人件費も安くなり、いいことずくめだった。
スールーの民の日常はいとも簡単に崩れ去った。
その恨み、そして生きていくためにはなりふり構っていられないという状況が海賊行為を誘発させた。
それを日本商船が許すかと言えば、そんなはずはない。
幕府にこの事実を申告すると、将軍の言質を仰ぐまでもなくGOサインが出たのだ。
侵攻の主力は砲列艦6隻の艦隊だ。
俗にいうスールー遠征の始まりである。
スールー遠征は第一次から第三次まであった。
第一次遠征ではタウイタウイ島を攻撃した。
ここはブルネイ王国との中継地点に位置し、彼らの援軍の有無を監視する目的があった。
そのため、ここら一帯に蔓延る海賊を制圧した後、いくつかの監視塔を建設した。
また、500人ほどの捕虜を解放した。
日本人捕虜に関しては本国に送還することができたが、中国人やスペイン人、オランダ人などのヨーロッパ人に関しては送還できなかった。
とりあえずマニラに護送し、自力で帰ることができる者は帰っていったが、大抵の人は死ぬまでマニラで生活することになった。
第二次遠征ではバシラン島に上陸した。
これは第一次遠征においてマキンダナオ王国からの援軍が確認されたからだった。
また、監視塔の存在も、海軍の作戦行動を大きく阻害していたため、それを潰す意図もあった。
ここでも捕虜は大勢おり、またしてもマニラに送られた。
最後の遠征となる第三次遠征では遂にスールー海賊の根拠地ともいえるホロ島への上陸だった。
この遠征では病死を含まずに300人以上が戦死する事態となったが、無事にホロ島を制圧し、スールー王国は事実上滅亡した(国王はブルネイ王国へ逃亡)。
直接滅ぼさなかった理由として、イスラム商人とのコネクションを絶ちたくなかったというのが挙げられる。
朱印船貿易商人とイスラム商人はその勢力圏を巡ってしばしば競合したのは確かだが、イスラム商人を通して世界中の国々と交易が出来ているのもまたひとつの事実だった。
イスラム国家の滅亡はイスラム商人と完全に袂を分かつことになり、そうなれば交易路が閉ざされるという危惧があった。
ただし、イスラム教はキリスト教徒同様に宗教の自由は認めつつも布教は原則禁止とされ、熱心なイスラム教徒はジャワ島バンテン王国やスマトラ島アチェ王国などに逃亡した。
この遠征によって、海賊行為が激減しただけでなく、幕府がスールー諸島にて監視を続けたためマキンダナオ王国とブルネイ王国の間の連絡が困難になった。
また、この戦いは海軍初の攻勢的な渡洋作戦であり、その軍事演習でもあった。
真の強敵であるオランダ東インド会社に対抗するノウハウを蓄積した。
そして満を持してマキンダナオ王国を武力をもって制圧した。
マギンダナオ王国のモロ人はスペインによる支配にも激烈に抵抗し、結局ミンダナオ島を実効支配出来なかったほど屈強な民族である。
まずは海岸部を砲撃し一掃。
次いで上陸しモロ人の掃討にかかった。
この戦いは敵の地の利を生かした戦いに苦戦を強いられるも、スペイン帝国が日本に対して警戒心を寄せる前に度重なる攻撃を行っていたため、マキンダナオ王国は弱体化しており、日本軍の勝利に終わった。
ミンダナオ島は日本の統治下に入ったが、戦いはここからが本番であった。
モロ人はゲリラ戦で徹底抗戦を行い、幕府軍の手を煩わせた。
統治を任された大名が立て続けに暗殺されたことで領主を辞退する大名も現れ始める。
特例として外様大名が領主に選ばれる事態となった。
その戦闘はさながら東夷を相手しているような感覚だったようだ。
結果として幕府はミンダナオ島を統治する上である程度の妥協を表明する。
幕府はマキンダナオ王国は王族の存続と、大幅な自治を保障する形で終戦した。
マキンダナオ王国はサンボアンガ半島を与えられて日本に冊封され、付庸国になるとされた。
自治圏内においてイスラム教の布教と信仰が許可されたため、マキンダナオ王国にはムスリムが集結し、人口過密状態になったと言われている。
完全とは言い難いが、フィリピン諸島は完全に日本の統治下となった。
このように、以降東南アジアに存在するイスラム国家を付庸国とする統治方法が主流となっていく。
それと同時にボルネオ島の移民とブルネイ王国との対立が浮き彫りとなり、各地で諍いを引き起こしていた。
もともと、日本人が分寧島に上陸したのは良質な木材の調達のためだった。
ウィリアムが伊東に乾ドッグを建設したのは、近くに森林があったからである。
近くに木材の山があれば、輸送コストが嵩かさまない。
そして、大量の軍艦に建造するためには、無尽蔵の木材を必要とする。
日本列島は海軍力の増強と引き換えに産業革命前に森林地帯をほとんど失ったと言われている。
当時の絵画は緑色の山が存在しなかった。
行き過ぎた開墾は、益獣害獣関係なくその地から駆逐し、禿げた山々は土砂崩れを誘発し、川の水を抑えられず洪水も頻発するようになる。
人々は環境破壊がまさか自分に襲い掛かってくるとは夢にも思ってもいなかっただろう。
民草は資源やエネルギーの面、というか実質全面的に森林に依存し切っていた。
そこに襲い掛かる、度重なる開墾による森林資源の枯渇。
特に、室町時代は幕府の意向により開墾が加速したことにより、人々はより文化的で豊かな生活を送れるようになる。
元々の森林地帯は農地に転用され、それは著しい人口爆発を招き、2500万人と500万頭近くの家畜を育む大地となったのは前述したわけだが、この時代を以て人と森林と水田の循環系は崩壊していた。
1506年には『諸国山川掟』が発布されたことからもその危機感は相当のものだったと推察できる。
諸国山川掟の内容は、草木の根っこの採取を禁止し、刈り取られてしまった場所には苗木の植栽を奨励し土砂流出を防ぎ、土砂災害に遭いやすい場所の新田、および既存の田畑の耕作を禁じたものである。
早くも人口増加は頭打ちとなり、治山治水が各地で叫ばれたが、その声が山神様に届くのは戦後を待たなければならない。
そして、全国各地で行われる造船事業は森林問題を更に深化させてしまう。
森林破壊を少しでも和らげようと木炭が石炭に代替されたが、焼け石に水であった。
これは性急すぎる膨張が起こした悲劇であり、植民地を獲得し、安定した木材が供給されるまで幕府自体は軍縮方針であったのだ。
しかし、分寧島にはそれらは原生しておらず、また、一面緑という見た目に反して土地は常に痩せており、あらゆる土地を開墾してきた日本人の手にかかってもボルネオ島の開拓は難しいものがあった。
どう頑張っても精々焼畑農業が限界で、それも1~2年のサイクルで土地を転々と移動させなければ土地が完全に干上がってしまう。
この農法は日本人とは肌に合わなかった。
手詰まりとなったちょうどそのとき、運のいいことに山師がボルネオ島に鉱山が多数あることを発見した。
場所はボルネオ島奥地であったが、幸いにも河川の近くにあるため、船で運搬すれば距離の問題は想定以上に小さいものになった。
また、河川沿岸では水力を利用した高炉が実用化された。
これは、水車と鞴を利用して水力を風力に変換し、そして大量の酸素が熱した鉄に当てられるといった仕組みのものだった。
当時としては燃焼材として、既に石炭、特にコークスを用いた製鉄が蝦夷地などでは実用化されていたが、ボルネオ島では炭鉱が発見されなかった(後年には大量に見つかっている)ため、また、木材は辺りには文字通り腐るほどあるため専ら木炭が利用された。
鉄の採掘、製鉄、更には運搬まで、ボルネオ島の鉄鋼事業は全てが自給されていた。
本土の人々は分寧島をその昔流刑地『更迭島』となっていたことにかけて『鋼鉄島』と呼んだ。
さて、当初日本人とボルネオ原住民との間ではそれほど諍いが発生していたわけではない。
ボルネオ原住民は漁撈民であるため、その生活のほとんどを王族などを除けば海の上で過ごしていた。
一方移民として分寧島に移り住んだ日本人は陸上を生活圏としたため、棲み分けができていたのだ。
しかし、日本の遠洋航海技術が発達すると、分寧島近海にも日本の重巡洋船が来航し、そこで漁業をするようになる。
彼らとして見れば明日の生活の糧が奪われる一大事であり、日本人とボルネオ原住民との関係は急速に冷え込んだ。
そんなとき、日本はスールー諸島に対して攻撃を仕掛けたわけである。
ブルネイ王国とスールー王国は同じムスリム国家であり、スルタンが統治する王国である。
同じ思想を持つ隣人というわけで、仲も良好だった。
ブルネイ王国はスールー諸島の支援を行い、ボルネオ王国領内にいる日本人をスパイ容疑で取り押さえた。
だがそれは悪手であったと言わざるを得ない。
これを機に幕府は武力介入を決行し、最新鋭の砲列艦とマスケット銃によってボルネオ王国を血祭りに上げた。
堪らずブルネイ国王と、ブルネイ領内に逃げ込んでいたスールー国王は降伏の姿勢を示し、ボルネオ王国はボルネオ島北部、スールー王国はボルネオ島北東部に改易され、スールー諸島は幕領であることをスールー国王に承認させた。
幕府はボルネオ島全土の領有をポルトガルやオランダに宣言させ、これを認めさせた。
『分寧総督府』を設立し、ブルネイ王国とスールー王国は総督府が出した法令に従うこととされた。
これによってブルネイ王国とスールー王国の両スルタン国は完全に日本の管理下に置かれた。
分寧島の司法が日本人に渡ったことで、日本の法律が彼らにも課されることになる。
武装は当然禁止され、漁撈以外での船の建造も禁止、その漁撈のための船を建造する際もいちいち役人の許可と監督が義務付けられた。
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