第14話 日西戦争
日本幕府が1596年にスペイン帝国に宣戦を布告した。
実は前々からフィリピンの征服は幕府内部で計画されており、フィリピン総督府がマニラ覚書の要求を意図的に吊り上げ、飲まなければすぐに侵攻する準備ができていた。
しかし、マニラ総督府幕府のたくらみに目敏く察知し、フィリピン総督府はマニラ覚書を苦渋ながらも宣誓したためにこの計画は頓挫したが、フィリピン出兵のために兵糧を集めようとした幕府は九州諸国に重税を敷いたせいで島原にて大規模な切支丹による天草・島原の乱(1584年)と呼ばれる一揆が発生した。
身から出た錆なのは言い逃れの無いことであるが、この逆境を政治的に利用して伴天連及び切支丹の脅威論を声高々に叫び、呂宋侵攻慎重論者の風向きは向かい風になった。
出征できるかどうかの危機であったにも拘らず、かえって日本人の結束力を高める結果となった。
プロパガンダの影響もあり、民草にはスペイン人が日本の切支丹を利用して兵糧を集積するのを妨害しているようにしか見えなかった。
民意は開戦に傾きつつあった。
そしてこの戦争の直接の引き金となった事件が『サン=フェリペ号事件』である。
この事件は船長マティアス=デ=ランデーチョが操縦するサン=フェリペ号が東シナ海で複数の台風に襲われて甚大な被害を受け、満身創痍の中、四国の土佐沖に漂着し、浦戸湾に曳航されて船は座礁したことから始まる。
そして本事件で最も問題となったのが積み荷の所有権の問題である。
日本では座礁、難破した船は積み荷とともにその土地へ所有権が移るのが海事法で定められており、それが通常の手続きであると主張したが、それが海外に通じるかと言われればノーである。
スペイン人の乗組員がわざわざ京にまで行き抗議すると、憤ったあまりにスペインは広大な領土をもつ国であり、日本がどれだけ小さい国であるかを語った。
幕府はそのようなことは理解していたのだが、さらには分かりやすく「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている。それはまず、その土地の民を教化し、而して後その信徒を内応せしめ、兵力をもってこれを併呑するにあり」との発言を行ったことで将軍足利義種の怒りを買った。
将軍足利義種は今まで表面上だけの制度であった伴天連追放令を本格的に取り締まるように命じ、さらには日本人の切支丹を迫害、処刑するようになった。
このことはフィリピンとの関係を急速に冷え込むのには充分の出来事であり、「元凶を絶たなければならない」という危機感を幕府に与えていた。
すでに幕府はフィリピンの宗主国であるスペインがイングランドと戦争状態に入っていることを耳朶に触れており、この状態なら欧州各国や本国の無敵艦隊は干渉はしてこないはずと踏んだ幕府は攻撃を行った。
情報の筋は東南アジアに進出していた行商人からのルートであった。
スペインは帝国にとって不都合な事実はひた隠しにしていたが、既にポルトガル、スペインだけでなくイングランドやオランダとも国交を樹立していた日本にとって、スペインが苦しい状況にあることは承知していた。
実際この情報は正しく、スペインではフィリピン諸島を救援するべきという意見より、イングランドへの対策の方が重要視されており、フィリピン防衛は二の次三の次であった。
フィリピン、特にマニラの守備隊はたったの数千人しか駐在しておらず、その数少ない守備隊の中にも日本人傭兵が混じっている有様であった。
日本人傭兵は幕府が主導する朱印船貿易とともに各地に広がっていった武士であり、彼らはスペインやオランダ、ポルトガルの植民地政府によって各地で起こった現地人の反乱の際、鎮圧のために駆り出されており、その強さは良くも悪くも暴れたら手を付けられないほどにめっぽう強く欧州諸国の植民地維持にかなりの貢献を見せていた。
幕府は当時構築されていた日本人コミュニティとコンタクトを取り、フィリピン植民地の各地暴動を扇動し、さらにサンチャゴ要塞などといったマニラに鎮座した防衛要塞も日本人傭兵の手引きによってあっさりと無力化された。
スペインのガレオン船に対して、日本には朱印船貿易でこよなく愛された安宅船が海上の主戦力だったが安宅船では戦闘力はガレオン船には遠く及ばない。
しかしすでに日本においてもガレオン船の導入は始まっており、 また、同時期に伊東にて潤沢な金銀を渡し、当時ポルトガル人の居住地だった大陸の澳門で雇用されたポルトガル人造船技士によって軽巡洋船(欧州で言うところの『カラベル船』とも呼ばれる)が竣工して、日本の海軍史が大きな転換点を迎えていた。
伊東に乾ドックが建造された理由は近辺の木材資源が豊富で造船所に適した土地であったからだ。
軽巡洋船の特徴は3本のマストと三角帆だ。
マストが多い分、風から受ける力が大きくなる上に三角帆はたとえ逆風であってもジグザグ航法であれば前進することが出来た。
船体の大きさの比率は「3.5:1」であり、水の抵抗を受けにくい力学的に優れた船であった。
欠点として積載量に難があり、食糧や水をあまり搭載できなかったため『巡洋船』という割にはそれほど航続距離が長くなかった。
武装も軽装であったため、図体は立派だが戦闘力は見掛け倒しだったという水兵の証言がある。
これを解決したのは『重巡洋船』である。
ポルトガル人は『ナウ』、イングランド人は『キャラック』と呼んだそれは全長30メートルから60メートルで比率が3:1とずんぐりむっくりとしているため、積載量に余裕がある。
そのため、遠洋航海に向いていた。
重さは大きいもので1000トンにもなったと言われている。
マストは3本で据え置きだがバウスプリット(バウマスト)と呼ばれる船首の帆と船尾のミズンマストの二つの補助的な帆備え付けられた。
バウマストと前方2本のマストには四角帆が、後方のマストとミズンマストには三角帆が艤装された。
四角帆は三角帆以前の帆で、追い風時に最も風力を推進力に変換できる帆である。
つまり、両方を装備しているこの重巡洋船は追い風の時でも逆風の時でも航海できるハイブリッド機関だったのだ。
その代償として船員の仕事は複雑化したため、教育に力を注ぐ必要があった。
また、積載量の増加は船の重武装化を推し進めた。
大砲を多数積載することが出来るようになり、海賊からの防御や逆に棍棒外交にも一役買っている。
その他、甲板上の建物が発達した。
この建物は『楼』と呼ばれ、上級船員や客人の部屋となった(船首楼と船尾楼の二部屋があった)。
弱点としては底が深いため、浅瀬などで活躍できなかった点であるが、そこは軽巡洋船が補佐をした。
この重巡洋船の登場によって長期航海をものともしない船が完成し、探検や交易のために太平洋、時にはインド洋まで駆け回った。
何はともあれ、初めてヨーロッパ式の大型船が完成したときは伊東の造船関係者の間で何も考えず両手を上げて歓喜の声を上がった。その最初の軽巡用船の名前はポルトガル人には『ジパング』、幕府の手に渡ってからは『日本丸』と名付けられた。
当時としては画期的だった同型艦の建造、武器装備の規格化など、全国的な単位の規格統一が行われた。
さらに高度な知識を必要とする水兵士官の養成などをウィリアム=アダムズ(日本名:三浦按針)率いるお雇い外国人が行っており、この時代をもって「近代海軍」が花開いたといえる。
船の上での食事も進化した。
海上ではたとえ新鮮な水であっても時間がたてば腐ってしまう。
そこで誕生したのが蒸留酒である。
これは琉球の泡盛から着想を得たと言われており、腐らない蒸留酒のお陰で海上でも安定した水分を得ることが可能になった。
味に関しては当時こそ不評であったが、南国でサトウキビの栽培が始まるとその不評も下火になる。
ただし、現代の医学的な観点から言えば、そのような水分の補給方法は適切ではない。
飲酒はアルコール代謝のために返って水を必要としてしまう。
結局のところ、水は各地の港で補給する他なく、日本各地に泊地を整備することで解決を試みたが、遠洋航海ばかりはこの問題を解決できず、結局日本の主権が及ばない他国の港から水分を譲受する形で問題の解決を達成した。
太平洋の諸島に対してハブとしての機能を見出し、興味を示し始めたのもこの頃からである。
伊豆諸島の南にある小笠原諸島や大宮島などに進出し、港湾基地としての価値が認められると開拓された。
話を食糧事情に戻して、固形物でも、塩漬け肉や塩漬けの魚、乾燥野菜や瓶詰めや缶詰も開発され、これらを湯に戻して吸い物にして食べた。
特に科学技術が急速に発展し、どんな環境にあっても正確に時を刻む経線儀の発明、安定した規格によって大砲と砲弾の製造法を確立した規格統一、壊血病の予防法と治療法の発見、ライン生産方式による大規模大量生産を考案など、この時代を後の世の人々は『室町の技術革命』と呼んだ。
特に大規模大量生産方式の考案は重要だった。
何せ今までネジ、特に雌ネジを量産する方法が確立されていなかったからだ。
鉄砲が伝来して以来、ずっとネジの作成方法に困っていたのだ。
これはハンドタップの登場によって、これまでボトルネックだったネジの安定した量産が可能になり、日本の軍事力を底上げする要因になった。
日本海軍は馬尼剌港を多数の和製ガレオン船(日本では『砲列艦』と呼ばれた)で封鎖すると、揚張港から上陸した部隊が中部ルソン地域でスペイン軍と激突した。
結果は言わずもがな日本軍の勝利であった。
スペイン軍は前述の本国の状況もあり、あまりフィリピン植民地に人員を派遣することは出来なかった。
そのことを幕府は見抜いていたために、強気の攻勢を行ったのだ。
また、澳門に集結していた無敵艦隊が日本本土(高砂島)に攻撃を仕掛けたが、守備隊によって返り討ちに遭い、全滅した(澎湖諸島沖海戦)ことで一縷の望みは立ち消えた。
破竹の勢いで進撃を続ける日本軍に遂に馬尼剌は陸からも包囲され、フィリピン総督府は降伏する。
日本は日西戦争に圧勝し、ルソン島とビサヤ諸島を獲得(フィリピン諸島は西班牙諸島に改名される)し、スペインはフィリピン諸島から完全に撤退した。
一部のスペイン人はセブ島に逃げ込んだが、大した脅威とはならなかった。
独立派の原住民によるゲリラと同等と幕府は評価している。
更にブルネイ王国からパラワン島を割譲する。
ただし、ミンダナオ島西部にはイスラム教国家のマキンダナオ王国やスールー王国、ボルネオ島にもブルネイ王国が存在したため、ミンダナオ島の完全支配とはならなかった。
マキンダナオ王国は日本と同様にスペイン帝国を敵視していたため、共通の敵を持つという事で、しばらくの間は蜜月の関係にあった。
日本は西班牙諸島の安寧を手に入れたと言えるだろう。
対してスペインは今後、日本によって新大陸以外の海外植民地を殆ど喪失するばかりか、対中貿易による利益を手放すことになった。
追い打ち敦ばかりに欧州においても戦争によって財政を圧迫。
スペイン帝国はかつての『太陽の沈まぬ帝国』と呼ばれたほどの繁栄を取り戻すことが出来ず、衰退への道をひた走ることになる。
日西戦争の結果、欧州における日本の評価が、遠方とは言え無視できぬ帝国と位置付けられたと言われている。
日本の評価は、衰弱していたとはいえあの無敵艦隊を擁するスペインに勝利したことから、明らかに向上していた。
実際はその戦力を欧州に集中させていたわけだから本当に過剰評価に過ぎないし、負けたスペイン帝国に対する評価は過小評価されている感は否めなかった。
だがそうは言っても勝利には違いなく、日本に対する認識は「極東の未知の国」などというミステリーに満ちたものではなく、もっと詳細に分析されるようになった。
日本の国力はヨーロッパに匹敵すると見做されるようになった。
そしてその名を「極東のヨーロッパ」と呼ばれるまでに国際的地位を向上させたのだ。
幕府による『馬尼剌総督府』が誕生し、首都は当然馬尼剌とされ、その行政権はスペイン帝国と同様に名目上ミンダナオ島、パラワン島、スールー諸島などを含め、フィリピン諸島全域に及ぶとされた。
スペイン帝国による統治との最たる違いは、経済がある程度自立していた点だろう。
スペイン帝国は馬尼剌を対中華貿易の中継地点としか考えていなかった。
実際明に新大陸産の銀や東南アジアの香辛料が交易されていたわけだが、その中にフィリピン原産の品はこれと言って特に何もなかったらしい。
しかし、日本統治下になるとルソン島中部は穀倉地帯に様変わりする。
これによって幕府は新たな税収を獲得することが可能になったわけだが、相変わらず輸送中の事故は増加する交易に比例して増える一方だ。
これではせっかく税収が増えても結局意味がない。
そこで幕府はまだ届けていない年貢を書類上貰ったことにして、それを再度西班牙諸島に分配したということにした。
これによって西班牙諸島は一方的に搾取されるような関係にならず、かといって西班牙諸島は独立した国家ではないという体裁を欧州に示していた。
この年貢は耕作地帯の水路工事や道路の工事などインフラ整備に利用された。
また、鉱脈の探索など、新しい産業にも目を付けていた。
だが、西班牙諸島の価値は何と言っても日本にとって東南アジアの玄関口となったことだった。
馬尼剌は遠方だった日本と東南アジアの中継地点となり、さらなる富を生んでいく。
ミンダナオ島に於ても太黒港が開港しセルベス海の入り口となった。
これによってティドレ王国などとの交流の始点となって、香辛料貿易が活発化することになった。
また、太黒港を起点として東南アジア中に日本人商人が展開し、スラウェシ島やニューギニア島の鶏頭半島に上陸することになる。
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