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第13話 フィリピンの乱

なぜかフィリピン総督府視点

 スペイン領フィリピンのマニラ港に日々大量に押し寄せる日本人移民にフィリピン総督は頭を悩ませていた。

 最初は商業のためであったり、飢饉により生きる術を失った人々が一攫千金を求めて来訪するだけであった。

 それなのに、いつの間にかフィリピンが極楽浄土であると勘違いしている人間が多数上陸してくる。

 実際、マニラに限ればその通りだった。

 その通りだとフィリピン総督は自負している。

 馬尼剌はフィリピン諸島から得られる利益と対明貿易による莫大な利益の全てを集約させて完成させた都である。

 この一極集中としか言えない金の使い方に加え、フィリピンに金を落とそうとする人は馬尼剌以外に選択肢はないといわんばかりに他の土地には金は集まらなかった。

 フィリピンというという植民地は大雑把に2つに分けられる。

 マニラか、マニラ以外か、である。

 なお、実際にはミンダナオ島を完全に占領していなかったため、それも考慮すると2つに分けられるなんてことはないのだが。

 話は逸れたが、彼ら日本人移民の大多数は豪華絢爛なマニラを素通りし、何もない平野や森林を開拓し、水田を作り始めたのだ。

 マニラに馴染めなかった者たちの付け焼刃かと思われたが、どうやらそうとは思えない。

 彼らの水田を作る技術は途轍(とてつ)もなかった。

 ルソン島中部に存在する万満河(バンバンガ川)と大平野が稲作地帯として適していると目敏(めざと)く見つけるや否やあっという間にルソン島中部を水田地帯に変えてしまった。

 これに感化されたスペイン人は日本人を労働者として大量に雇用し始める。

 日本人労働者は何でも言うことを聞き、スペイン人に重宝されていた。

 なにせ、日本人には何もない土地を水田地帯に変えたという功績があった。

 日本人労働者も水夫としての技能を獲得し、やがて独立するようになる人間も出てきた。

 スペイン人富裕層はこの時初めてマニラ以外に投資先を見つけたようで、他にも多数の都市が発達していく。


 この結果に満足していたスペイン総督だったが、だがしかし、不穏な事態も見逃せなかった。

 マニラ以外にも多数の小都市が醸成されつつあることは非常に嬉しいことこの上ないが、その都市の日本人の比率があまりにも多すぎるのである。

 そこで、日本人の数の統計を取らせることにしたら、その結果を見たほとんどの人間が顎が外れそうになるほど驚愕した。

 なんと、全ての都市において日本人の居留地が存在し、日本語(正確には日本語っぽい全く別の方言)が公用語のように用いられているのだ。

 気づけばスペイン総督が把握するフィリピン原住民の数に迫りつつあり、これほどの日本人移民の人口増加は全く想像できるものでなかった。

 日本人移民2世の影響も大きいだろう。

 彼らはフィリピンの大地に根を下ろし、日本人同士だけではなくフィリピン原住民や、はたまた少数だがスペイン人とも結婚し、混血の子供を設けていた。

 その上、彼らはキリスト教に入信することなく、独自の宗教的価値観を保有しており、教会は難儀していると聞いていた。

 しかし伝染病など、新天地につきものの害悪は無視できるものではなく、多産多死であることには変わりなかったが、ルソン島中部の肥沃な大地のおかげで子供の数は上振れているようだった。


 また、日本人は己の水田で作った米を本国に輸送しているようだった。

 商人が言うには、「呂宋(ルソン)島でできたコメは日本人に大変人気だ」とのことだ。

 だが実態は違った。

 九州や四国の諸国がルソン島にて米を作らせていたのだ。

 なぜかというと、それは自国の年貢を肩代わりさせるためだった。


 フィリピン諸島の主権はスペイン帝国の下にある。

 そのため、税を徴収するのはスペイン人である。

 だがこの行為は実質的に日本人がフィリピン諸島から税を徴収するに等しい行為だった。

 実際にこれらの水田の領主は当然スペインに対して税を納めており、二重の課税を受けていた。

 スペインへの比較的軽い税はどうやら九州四国の諸国が負担していたようだ。

 この事実は幕府も知悉していなかった。

 小賢しいことに、呂宋米を日本米と混ぜ合わせることで幕府の役人を欺いていたのだ。


 総督は日本との完全な決裂を決意した。

 まず、外国人に対する税率の大幅な向上を布告した。

 そして、日本行きの船に対しても税を吊り上げ、そしてダメ押しに日本の徴税システムと同様に米の徴収を行うと宣言した。

 これにはさすがの日本人も面食らったようで、1000を超える抗議文がマニラ総督府に届いた。

 だが、これに対してマニラ総督府は黙殺した。

 日本人移民たちは2つの方針について検討しなければならなくなった。

 1つ目は総督府の意向に従い、莫大な税金を払い続けること。

 これは当然、思惑通りの結果であり、彼らに対して重税を課していけば、自然とこのような脱法行為は霧散していくものと思われる。

 そうでなくとも他にも様々な理由をでっちあげて無条件に税率を上げればいいだけの簡単なことであった。

 2つ目は日系人らが総督府の意向に逆らい、反乱をおこすことである。

 こちらこそ真の目的である。

 反乱を起こしてもらえば、こちら側が討伐を行う正当な理由が出来上がり、日本人移民を一網打尽にできる。

 また、これを機に外国人の権利を制限し、土地の所有を禁じたりなど、やれることはたくさんあった。

 どちらを選ぶにしても総督府の利益につながる彼らの常套手段だった。


 彼らが選んだのは徹底抗戦であった。

 総督が日本人居留地で反乱が発生したことを部下から報告を受けたとき、思わず口角が上がったという。

 だがそれも束の間、つけあがった口角はきゅっと閉じる事態になった。

 日本人は小癪(こしゃく)にも征伐軍を撃退して見せたのだ。

 どういうことかと問い詰めると、奴らはわれらと同等の燧発(フリントロック)式マスケット銃で武装しており、また短期間で野戦築城を許すのみならず、本格的な城塞の築城まで許してしまったがために、日本人居留地における掃討は難航しているとのことだった。

 総督は怒りのあまりその男を馘首(かくしゅ)し、新たな司令官と挿げ替えた。

 そして長崎の日本領事館からの情報によると、どうやら奴らは住民に対して稲作をさせる代わりに水田の守護や船団の護衛等の支援を行っていたようだった。

 彼らは後世『西班牙大名』と呼ばれた。

 つまり、ほぼ正規軍と戦闘状態に入っていたのだ。

 マニラ港は原則日本船の立ち入りを禁止した。

 しかし、ルソン島北部のアバリ(日本名:揚張)から傭兵が次々に上陸しているとの情報もあり、日本との戦争も間近というところまで来ていた。

 そもそも揚張(アバリ)に港があることすら総督は知悉(ちしつ)しえなかった。

 恐らく、この事態を見越して投資を行っていたのだろう。

 件の調査を見返してみると、その地方の日本人の比率は特に高いことが分かった。

 当初こそ日本に一番近い港だからであると解釈していたが、それは浅慮であったことが今更になって分かる。

 近くに港を作る理由は、日本の航海技術が劣っているからではなく、スペイン人が強力な権力を有する馬尼剌を経由しなくても戦争を継続するためだったのだ。


 現状、日本が占領している地域はルソン島北東部とルソン島中部。

 対してスペイン軍が掌握する地域はマニラとその周辺地域だけである。

 まだ日本人は防衛に徹していることもあって、最初の威力偵察以外は本格的な戦闘は始まっていなかったが、勝負は火を見るより明らかであった。

 総督は苦渋の決断を下した。

 前述の日本に対する不平等な税収は取りやめると宣言した。

 このことは『マニラ覚書』として明文化され、あらゆる面で日本人移民の権利が保護され、二度とこのようなことを行ないことを宣誓させられた。



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