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第12話 明清交替

 1611年にサルフの戦いが勃発し、一夜にして明軍45000人が死亡したとされ、明は後金に大敗北を喫した。

 長崎奉行からのこの報告を受けた第16代将軍足利|義種(よしかず)は、「確かに敗北であるが、明ならばきっと立て直すだろう」という言葉を日記に残しており、かなり楽観視していたことが窺い知れる。

 この考えは何も将軍だけに拘わらず、幕府内でも多数派であった。

 日本人にとって漢人とは儒教の父ということもあり、日本国内は最初から明を応援していたし、最終的な勝者は明王朝になるだろうと大勢が考えていた。

 しかし将軍や百姓の考えとは裏腹に、中華大陸の動静を掴んでいた長崎奉行では心臓の薄皮を一枚一枚剝がされるような面持ちだった。

 彼らは明の不利を悟っていたのだ。

 その予感は実際正しく、鉄嶺、瀋陽・遼陽、広寧など数々の戦いで敗北を繰り返し趨勢は徐々に明にとって不利となる。


 この時の明は経済的に逼迫状態になりつつあった。

 もともと銀の輸入が減っており、財政はかなり危険領域に差し迫っていた。

 その上、農民は銀で税を納める必要があるわけだが、農民が持ち得るのは銅銭ばかりで、銀は持っていない。

 そのため、銀の価格が高騰、デフレ状態になり、農民が税金を払えなくなっただけでなく、多くの人々は納税の義務から逃げ出し、手工芸品や商業都市の開発に深刻な影響を及ぼし、市民の反乱を引き起こした。


 ついに1629年に後金は漢民族の精神的な鉄壁である万里の長城を突破し、明本土に到達した(己巳(じし)の変)。

 最後の防壁が突破されてしまったとあっては、彼ら女真族の中華侵攻を止める術は何もなく、1644年には反乱を起こしていた李自成が北京を攻略した。

 同年に発生した一片石の戦い(山海関の戦い)が明朝の明暗を決定的なものにした。

 晩年の明は財政政策に失敗し、各地は反乱だらけとなり手詰まりとなっていた。

 皇帝崇禎帝(すうていてい)が首を括り、もはや明の命運は風前の灯火であったが、皇族は各地で亡命政権を樹立し、徹底抗戦の構えを見せた。


 その中でも鄭芝龍(ていしりゅう)朱聿鍵(しゅいっけん)(隆武帝(りゅうぶてい))を擁立し、南明を建国した。

 その隆武帝も2年後には捕らえられ政権は崩壊するまどパニック状態がしばらく続いた。

 しかし、急速に南下してくる女真族に抵抗は無意味と考えた鄭芝龍は息子を残してついに降伏を決意した。

 その息子の名前を鄭成功という。

 鄭成功は父親の降伏にもめげずに全国に徹底抗戦を唱えた。

 その過程で彼は日本にも救援を求めた。

 幕府は救援に乗り気であり、その主力は外様大名だったが譜代、親藩も幾何(いくばく)か含まれていた。

 乗り気だったのには国民感情として、異民族に中華大陸が支配されてほしくないということもあったが、実利的なところは、やはり八州がまたもや人口飽和状態になりつつあったことが挙げられる。

 

 日本から中国大陸の寧波(ニンポー)などに上陸した日本人は総計10万人に上るといわれており、また、巡洋船の間接援護なども含めるとかなりの日本人が南明に与したと考えられる。

 日本人は大陸沿岸地域や長江流域にて喫水の浅い軽巡洋船などの援護の元大暴れした記録が残っている。

 また、大陸沿岸部に於ても砲撃を打ち込み、輸送路を攻撃するなどしている。

 戦役の中では日本人による乱取りが横行した。

 明は財政危機のためにまともな報酬を払えないと知ると、大名は他の何らかの対価を求めた結果、その対価を漢人の婦女や奴隷、そして技師と定めた。

 こうして大陸の陶磁器や生糸などの手工芸技師、婦女などが日本に連れ去られた。

 幕府も幕府で、どさくさに紛れて澎湖諸島を占領し、海軍基地を建設した。

 この地の占領は来るべきポルトガルやスペイン、オランダなどの欧州列強との戦争に先んじて確保しておくべき重要な拠点となり得ると幕府中枢が結論を出したからだ。

 とは言え、侵略と言えば侵略に違いないため、南明臣下は「これでは清と同じ侵略ではないか」と憤慨したが、長江以南、特に南京を防衛する主力部隊が日本軍ということもあり、声を大にして批判できなかった。

 特に鄭成功が日本人の横柄を黙認していることが現地日本人を増長させた。

 だが、1646年の南京陥落によって日本人に対する風当たりは一気に強くなった。

 仕返しとばかりに日本人が虐殺される事件が何度か起こった。

 この頃から漢人に冷たい視線を送られ、居場所をなくした日本人が徐々に本土に撤収してくるようになった。

 南明も戦局が劣勢になるにつれて内ゲバが発生し統一された意思が砕け散ったことで、もはや抵抗する力は残されておらず、皇帝の血筋も完全に断たれ1657年に清朝に降伏した。

 鄭成功などの明の高官が日本の統治下にある高砂国に亡命したが、幕府にとって見ればなんの得にもならない存在であり、彼らは小さな領地が与えられたものの、居住民にさえ冷遇された。

 彼らの領地は精々1000石にも満たなかったと言われており、その小さな領地も鄭成功の死亡と共に取り上げられた。

 晩年には自身も鍬を持って働いていたという。


 次の標的になったのは朝鮮半島であった。

 朝鮮半島が陥落すれば対馬、九州が狙われるのは必至であり、早急な対応が求められた。

 だがもし朝鮮に出兵する場合これまで共に戦った明軍等の友軍はおらず、朝鮮王宮でも清へ服従するか抵抗するか議論が分かれていた。


 幕府中枢の緊密な議論の結果、日本は対馬海峡以北までの清の進出を許容した。

 博多は鎌倉幕府滅亡以来貿易都市として繁栄を極めていたが、軍事都市の顔も持ち合わせるようになり、更に佐世保や長崎にも海軍が駐屯できるよう整備が進められた。

 九州北部はもちろんのこと、山陰地方にも兵力がかき集められ、番付として清の上陸を警戒する。

 極めつけは清の第二次朝鮮侵攻に対応して幕府は済州島に侵攻し、海軍根拠地を整備する。

 海軍拠点として整備する一方、元来馬の一大生産拠点としての側面も維持した。

 当時朝鮮公馬の6割が済州島で進上されていたため、この済州島の獲得は結果的に事前に敵戦力を削減することに成功している。

 朝鮮王朝は済州島侵攻に対して文句を言う間もなく清に下った。

 済州島の占領によって対馬海峡、琉球諸島、澎湖諸島の全てが日本の統治下に入り、東シナ海を包囲する陣容となる。

 済州島占領後、李氏朝鮮は奪還に向けて清の皇帝に対して接待を行った。

 しかし暫くは対馬海峡は驚くほど静かだった。

 一先ずは戦線を対馬海峡で停止することに清は暗に了承したのである。

 日本と清の決戦は乾隆帝の治世を待たなければならない。


 また全面的に対立した清朝とは距離の空いた微妙な関係が続く。

 幕府は清帝国が元が行ったように、対馬や福岡に上陸することを極度に恐れていた。

 その証拠に対馬海峡には常に重巡洋船が徘徊することになり、大宰府城代が置かれている。

 九州の武士に対して異国警固番役を課し、その他対馬海峡の島々に遠見番役を配置した。

 砲列艦が登場してからはこれらも投入されており、常に細心の警戒をされていたことがわかる。

 腕木信号施設が九州から京まで建設され、九州からの情報が1時間で京まで到達するようになった。

 琉球王国は日本の影響で明清交替を期に朝貢関係を断つことになり、日本一国相手の封冊関係を持つことになる。

 これに対して高砂国の明亡命政府が難癖をつけたが彼らの意見を真面目に聞く者はいなかった。


 影響は経済にも及び、清との貿易が不可能になったことから東南アジアを介しての密輸が横行した。

 密輸というよりは中継貿易に近いのだが、特にその舞台となったのはインドシナ半島である。

 当時の日本人商人は膨大に所有する金銀にものを言わせて大量に商品を買い漁った。

 それに触発されて日本人商人が東南アジアへ進出する足掛かりとなったのである。

 各地に日本人のための日本人町が形成され、更に商業は活発化した。

 明が滅亡しなければ今の日本は存在しなかった。


 外交的に危険を冒したが、それなりの報酬はあった。

 人、そして技術を手に入れたのである。

 大名が連れ去った人数は技士、奴隷合わせて50000人は下らないとされる。

 更には自主的に日本に渡った漢人もいたため、その数は諸説あるものの、合わせて70000人から100000人に上ったようである。

 特に九州、琉球、高砂国に流れ着いた者が多い。

 しかし、幕府はこれに顔を(しか)めた。

 前述のように日本本土の人口は飽和状態であり、口減らしを兼ねた遠征だったはずがむしろその数を増やして帰ってきたのだ。

 これには幕府は困り果て、打ち出した事業が日本人移民事業である。

 一方漢人は炭鉱労働者として消耗品同然に酷使された。

 海外、専ら西班牙諸島に送られて原住民共々働かせたこともあった。

 日本人が積極的に外国人奴隷を利用した初めての事例だといわれている。

 彼らが己の名誉を守れたのは絹職人や陶磁器技士など特別な技術を持つのみに限られ、大名らによって保護された人々のみであった。

 絹の国産化の成功は日本にて衣類の革命を呼び起こし、絹の登場以前と以後で日本人の服装は激変した。

 特に漢人から盗んだ陶磁器の生産方法は『白い黄金』と呼ばれてオランダやスペイン、ポルトガルに飛ぶように売れ、日本各国の財政を大いに潤していた。

 1637年に著されたとされる『天工開物(てんこうかいぶつ)』を入手したことも日本に多大な影響を及ぼす。

 この書籍は宋応星によって書かれた産業技術書であるのだが、その内容は大変素晴らしく、現在、明末期の産業技術史を展望するためのバイブルとなっている。

 竹紙の作り方など、その内容は多岐に渡ったが、中でも攪拌精錬(パドル)法によって錬鉄を製造する方法は日本工業を一歩飛躍させた。

 後に反射炉にて応用され、日本の産業革命を担う技術の一つとなった。

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