第11話 南西諸島 ★
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その他、ポルトガル・スペインの侵攻に先んじて琉球王国、高砂国の平定も急務であるとの結論が老中たちの間で交わされた。
1587年、琉球に対して突如、以下の最後通牒を突きつけた。
「日本の保護国とならなければ南蛮人による大いなる破壊が待っている。しかし、これを受け入れれば王朝の保護は確約する(意訳)」というポルトガルスペインをスケープゴートとする彼らにとってみれば言われのない脅迫を行い、琉球王国に開港及び保護国化を迫った。
琉球は東南アジアへの玄関口であり、琉球商人は中国からフィリピン、マラッカに至るまで広いネットワークを持っていた。
つまり、琉球を支配下におけば商人の情報ネットワークを通じて澳門のポルトガル人やマニラのスペイン人の動きを把握することが出来るし、琉球諸島自体が地理的に東シナ海における前哨基地の役割を果たす。
例えば、琉球王国はポルトガル船がマラッカを襲撃して占領していたことを把握していた
琉球王国を保護国化しようとした理由として、以上のような理由があったと思われる。
琉球王朝は日本による保護国化を受け入れた。
首里条約の結果、琉球王国としての自治は認められ、王族の存続も約束され、その結果に琉球王族は満足し、保護国としての地位を甘んじて受け入れた。
王朝として最も問題視していたのは琉球王国は明と日本の二重朝貢を行ってしまうことになったわけだが、特段問題になることはなかった。
また、時間を遡ること少し前、幕府は高砂国に使節を派遣していた。
しかし返事が得られなかったため、手ぶらで帰るのも惜しいと考えた幕府は他国の勢力圏下にあるかどうか確認をとることなく取り敢えず外様大名を安堵し、その大名は入植を開始する。
幕府は高砂国が存在すると信じられていたが、実際にはそんな国はなく、高砂国(そもそも国という概念もない)の住民は旧石器時代的な生活が営んでいた。
スペイン・ポルトガルへの警戒から高砂国南部に最初の城『高砂城』を築城し、付近の海域の監視と高砂国の防衛を担った。
入植、警戒の主戦力は言わずもがな九州諸大名であり、その出費も負担した。
高砂国に在住していた原住民は鹿の狩猟で生計を立てている民族であり、主に鹿製品の貿易が盛んにおこなわれていた。
1622年、オランダが高砂国に入植を開始しようとする。
オランダとしてはこの地を基地としてスペインとの海上戦争に有利に立とうとしていた。
地図を見れば一目瞭然だが、当時オランダが有していたバタビアの港と合わせれば、澳門~マニラ間の航路を阻害できる。
マニラ港はアジア地域の交易のハブとして機能していたが、その大部分は中国大陸からの交易によって財を成していた。
当時オランダ東インド会社はマレー諸島の各島に港を領有していた。
一方スペイン帝国はその勢力圏はフィリピンのみに限られ、その中でも良港はマニラだけだった。
スペイン帝国はマニラから中国大陸に向かい、貿易を行っていたのだ。
つまるところ、マニラ港の働きとはアメリカ大陸との中継地点ということだ。
マニラはこの中継貿易で莫大な富を手に入れた。
しかし、フィリピンそのもののインフラ整備などは行われなかったと言われている。
大した資源を手に入れることが出来なかったからだ。
元々香辛料を求めて領有を宣言したわけだが、フィリピン諸島ではこれと言った香辛料は手に入らなかった。
オマケにフィリピン諸島全域を占領することが出来ず、フィリピン諸島南部のミンダナオ島やスールー諸島においては民族原理主義者がレジスタンスとなってスペイン帝国による統治に対して抵抗しているという悲惨な負債を背負ってしまった。
そんな負債を背負ってでも、中国大陸との中継貿易は止められなかった。
それほど、対明貿易は莫大な利益をスペイン本国に流していた証左だ。
さて、その肝心の対明貿易が出来なくなればどうなるか。
フィリピン諸島統治には抵抗運動という名の負債しか残らない。
結果、スペイン帝国は東南アジアにおける覇権を完全に喪失することになる。
とは言え、スペイン帝国は南北アメリカ大陸にも莫大な領土を抱えており、そちらは金銀などの鉱物資源が山ほど採れるので、フィリピンの喪失が即刻スペイン帝国の衰退の原因となるということは断じてあり得ない話だが、東南アジアの覇権からは完全に駆逐されることは間違いないだろう。
話を戻して、入植を始めようとしたオランダ人はもれなく追放した。
高砂城代はオランダのこの動きに危機感を覚え、本国に対して巡洋船を含む援軍を要請した。
今や高砂国は欧州諸国との最前線であった。
だがオランダ(オランダ東インド会社)の方が行動は一歩先んじていた。
VOCは幕府から援軍が到着する前にガレオン船4隻によって港湾を封鎖してしまったのだ。
こちらの戦力はたまたま寄港していた巡洋船『近江丸』1隻しかない。
思い出されるのは九州平定における薩摩国である。
海上から一方的に打撃されたあの恐怖を今度はこちらが受けることになってしまうとは、彼らとしても夢想だにしていなかっただろう。
しかし事態はまだ静寂が支配していた。
オランダ東インド会社は再三降伏勧告を出したものの、高砂城代はこれに無視を決め込んでいた。
少しでも延命するための苦し紛れの所作だった。
南蛮人というのはその名の通り野蛮で、聖戦によって獲得した人間は奴隷として売り飛ばすものだと噂されていた。
だが運のいいことに、高砂国が呼んでいた救援となる巡洋船4隻が来航し、当の闖入者4隻の方がこの状況に当惑するばかりだったと言われる。
形勢が不利であると悟ったオランダ東インド会社が撤収したことで、すんでのところで戦争は回避された。
幕府中枢はきっと胸を撫で下ろしたことだろう。
これを機に幕府は巡洋船4隻は高砂国に常駐させるものとし、ここに高砂鎮守府を創設した。
日本で初めての大規模な海軍基地だった。
その役割は多岐にわたり、当初は精々艦隊の補給や訓練程度だったが、徐々に所属艦艇の統率、出動準備、兵員の徴募、施政の運営、監督といった大風呂敷であった。
そのため莫大な経費が掛かったわけだが、想像通り九州諸大名が分割してこれの殆どを負担したため、九州諸国の財政状況を悪化させる主要因となっている。
また、すぐに救援に迎えるように琉球王国の港湾を整備し、巡洋船2隻を常駐させる那覇条約を取り付けた。
これには琉球王国が明に攻め入られても抵抗するための牽制という意味合いが含まれている。
続いてスペインが高砂国北部に入植を開始しようとしていたものの、オランダ東インド会社の意趣返しをやって見せる。
スペイン入植者たちは陸と海からの降伏勧告に呼応し、撤収した。
これにて高砂国は外敵からの脅威に怯えることはなくなる……と思われたが、今度は現地人たちの反乱が高砂国を襲った。
高砂現地人たちは文明を持った者なら実感するであろう個人主義的な考えに至らず、土地は全員で共有されるものと考えてられていた。
しかし、日本人たちが入植を始めると、勝手に土地を分割し合い、気が付けば鹿の狩猟を行うことも難しくなっていたのだ。
これに抗議をしていた高砂原住民たちであったが、そのような批判はどこ吹く風か、全く相手にされなかった。
そうした不満が爆発したのが今回の反乱であった。
皆が思い思いの武器を背負い高砂城を1500人以上で包囲したが、大砲によって蜘蛛の子を散らすようにして逃亡、結果としてあっさりと高砂国原住民は敗北する。
この反乱の結果、高砂城で条約が調印され高砂原住民の日本人への服従が要求された。
たとえ非文明人であったとしても幕府が定めた法律を遵守するように要求し、これを受諾することになった。
これをもって、正式に高砂国は日本に編入されることとなる。
これにて、日本の領土は樺太から千島列島、多里也半島、亜龍山列島、そして本州・四国・九州、琉球王国、高砂国を支配下に置き、対ポルトガル・スペインへの備えが整ったと思われたその時である。
明が後金を名乗る勢力に攻撃され、北京が陥落した。
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