第1話 伊勢貞親
だいたい10万字ほどの書き貯めがありまして、目安として20世紀の終わりまでを執筆しようかなと考えています(現在は第一次世界大戦すら書き終わっていない)。
期待していただけるのであれば、是非ともブックマークの程よろしくお願いします。
幕府とは、何なのか?
誰のものなのか?
誰によって運用されるのか?
それは、力によって決まる。
室町時代とは、大名たちの権力闘争によって誰が幕府の実権を牛耳れるのかが決まった時代である。
事態を把握するためには室町幕府の6代将軍足利義教が赤松満裕に暗殺された話から述べなければならないだろう。
嘉吉の乱と呼ばれたこの事変の後、7代将軍として抜擢されたのはまだ齢9歳の足利義勝であった。
当然この年では政治なんてできるはずもなく、管領として畠山持国や細川持之などが執権政治を行っていた。
当然ながらこの二人も一枚岩というわけではなく、やはり権力闘争を繰り広げた。
しかもその間に足利義勝はまさかの享年10歳で死没。
時期を同じくして細川持之も没した。
棚から牡丹餅で独り勝ちした畠山持国だったが、油断することなく7代目と同様に幼い8代将軍をすぐさま擁立。
それが、まだ齢8歳であった足利義政(当時の名前は義成)である。
当然、足利義政は畠山持国の事実上の傀儡であった。
少なくとも、持国はそう思っていた。
だが、ここから畠山持国の順風満帆といえた権力闘争に陰りが見え始める。
まず、畠山持国は前述のとおり、勢力拡大を画策する。
そのために、6代将軍足利義教に失脚させられた大名を復帰させて恩を押し売りするという形で、持国に与する勢力を拡大させようとした。
しかし、それを妨害したのは伊勢貞親である。
彼は室町幕府政所の政所執事である。
足利義政の教育係だったという関係から互いに信頼関係を構築し、晩年には足利義政への忠誠によって室町幕府の要職を親族だけで寡占し室町幕府を牛耳った男だ。
伊勢貞親は畠山持国の息のかかった大名に対向する勢力を援助し、全国各地で伊勢貞親と畠山持国の代理戦争となるお家騒動に発展することになる。
さらに伊勢貞親は細川勝元を仲間につけてお家騒動はヒートアップすることになる。
細川勝元は管領を細川持之から継いだ細川家の当主である。
その勢力はさすが三管領(細川氏、畠山氏、斯波氏)ということだけあって細川一族だけで9ヵ国の守護国を持つ大大名である。
1445年、細川勝元は畠山持国に代わって管領に就任すると、畠山氏と対立するようになった。
更に、細川勝元は同じ三管領の斯波氏や四職の山名宗全を味方につけ、そのパワーバランスは圧倒的に細川陣営が有利になる。
そしてダメ押しとばかりに、現将軍の足利義政も細川陣営についた。
傀儡だったはずの足利義政には完全に裏切られた形となったが、さらに畠山氏に厄災が降りかかる。
畠山氏でお家騒動が勃発したのだ。
畠山持国は当初、弥三郎(政長)を次期当主として考えていたが、突如義就を当主にすると宣言する。
これが戦争の火種となった。
持国に推挙された彼は側室の子供であり、当主の子供か疑問視されていたため、神保氏や遊佐氏などの家臣たちは弥三郎を推薦したことでお家騒動は激化していく。
厄災というよりは完全なる自業自得である。
弥三郎本人はこの持国の采配に納得していたが、家臣団は納得できなかった。
そしてこのまたとないチャンスで指を銜えてみているわけにはいかない狡猾な細川勝元は積極的に介入し、いたるところで権力闘争を勃発させた。
一触即発の機会となったこのお家騒動では遂に弥三郎派が持国・義就の屋敷を襲撃し、なんと持国と義就は死亡してしまう。
これによって弥三郎が畠山氏の次期当主となったのである。
しかし今度は細川勝元と山名宗全の権力闘争が起こると確信していた伊勢貞親は山名宗全を追討することを決定する。
もともと山名宗全は政治家というより生粋の武士であり、いつか幕府に反旗を翻す人物とされ、恐れられていた。
山名宗全追討を細川勝元は政略結婚の仲であったにも拘わらず黙認したため、山名宗全は捕縛され、斬首されることになった。
理由はほぼ言いがかりであることは分かっているが、管領の細川勝元としても将軍のこの動きは渡りに船であり、本来許されざるこの蛮行を意外にも否定する者はいなかったため、ことは山名宗全斬首という伊勢貞親や細川勝元にとって都合の良い形で幕を閉じたのだと思われる。
これにて管領はほぼ細川陣営に占拠される結果となった。
一応斯波氏も三管領として存在はしていたものの、影は薄く、あまり将軍から信用されていなかったようである(明らかに敵対視されていた畠山氏よりは幾分かマシといえるかもしれない)。
その理由として、斯波氏の財政逼迫にあった。
斯波氏の財政状況はとても危うく、管領を辞退することも何度かあった。
この頃、将軍足利義政は後継者問題に直面することになった。
義政には長年正室である日野富子との間に男子が生まれなかったのだ。
後継者が生まれなければ確実に幕政は混乱に陥り、戦乱に発展する恐れすらあった。
これを危惧した足利義政は実の弟である足利義視を将軍にしようとしていた。
当時彼は仏門に入っており、この提案を義視は拒否したが義政は今後、「子供を産まない。仮に産まれたとしても家督は継がせず、9代将軍に義視を指名する」ことを宣誓した誓約書すら準備するほど義政は事を急いていた。
しかし、この事態にまたしても伊勢貞親は待ったをかけた。
彼は原因は不明ながらもこの将軍継承に反対し、もう少し時期を待つように説得していたという。
一説によれば、伊勢貞親は足利義政と日野富子との間の子供の教育係を勤めることで、義政の時代と同様に将軍を傀儡化することを画策したのではないかと言われている。
仮に足利義政の子供が生まれたとしても、足利義視に将軍職を譲るところまでは問題ない。
子供が元服したところで足利義視の次の将軍として彼を擁立することでリカバリーは可能だったからだ。
だが、彼が仏門から復帰してくると言えば問題の深刻さが分かるだろうか。
婚姻からの出産、そうなると必然的に足利義政と足利義視の子供同士による家督争いが勃発してしまう可能性が濃厚であった。
このような事態を避けたいがために必死に説得したという仮説がある。
真実は今では知りようがないが、もしこれが本当なら彼は紛れもなくエスパーである。
そうこうしている間に富子の腹が膨らんできた。
義政はやっと男子が生まれる可能性を考慮し、誓約書を義視に渡すことを取りやめた。
産まれたのは男の子であった。
これには伊勢貞親も足利義政も安堵の息を漏らしたという。
これを機に伊勢貞親は家督相続の抜本的問題解決に乗り出す。
当時の家督相続の決まったプロトコルが存在していなかった。
なかったわけではないのだが、肝心の内容が、『嫡子・庶子の中で最も才能ある者、優れた者一人が選ばれ、単独相続』であれば、それは無いも同然だ。
そもそも今回の畿内動乱もこの家督の相続問題が発端であり、それに加えて他のお家騒動が発生することで事態が複雑化している。
また、この『才能ある者による単独相続』は幕府側から見れば制御しづらいという側面がある。
ただでさえ求心力が低下している幕府であるが、これ以上下剋上の気風を天下に流しては全国規模の動乱に発展してしまうのではないかと伊勢貞親は危惧した。
そこで彼は全国にお触れを出した。
家督相続は『嫡子だけによる単独相続』としたのである。
これを正当化するために儒学者を全国に派遣して儒教を布教した。
これによって全国の大名を御しやすくなり、このお触れが直接の原因となって各地で起こった反乱も幕府の法令に裏打ちされた嫡子の陣営が正義とされ、当然幕府(というか伊勢貞親)も政策に矛盾しないためにそちらを支援した。
この政策を打ち出すことで全国に流れていた下剋上の機運を徐々に削いでいくことになる。
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