7.どれだけ歩いたか歩数計で確認してみましょう
(山で焚火をするためにやってきた丹沢編、前中後のうちの中編です)
──それは「試験」だったんだよな。チアキちゃんに、一番分かりやすい言葉で言うと、さ。
山頂でランチを済ませ、チアキのおじさんの二人はゆっくりとしたペースで下山中だ。おじさんは、眩しそうに木々の間から覗く日の光を、時折仰ぎ見ながら、チアキにゆっくりと語ってくれた。
今いるこのシダンゴ山に似ているという場所、おじさんの思い出の森、仙人が住むという深い森の中での出来事を。
この山も昔はそういう感じだったみたいだ。人を拒絶することもなく、しかし快く受け入れてくれるわけでもないそういう森さ。おじさんが過ごした森もそうだった。
町から遠く離れた広大な森。どこまで行っても途切れない、樹海とも呼ばれていた場所だよ。木々が思うままに背を伸ばし、場所によっては昼でも光が差し込まないほど生い茂る。多くの精霊が住む原始の森だ。
その樹海に、おじさんは2週間分の食料だけ持って、独りで入っていったのさ。確か、20の時だったな。
どうして?
それが試験だったからだよ。1か月生き残ったら合格。役人になるためには、試験をパスしなきゃならなかった。
ああ、もちろん死ぬ奴もいる。樹海の中には危険な動物や、チアキちゃんたちが言うところのモンスターもいるからな。命がけだよ。足りない食料を自分で調達して、森のルールを守って、魔法と知恵を使って一か月を生き残る。期間を終えたら森の外に生還する。そういう試験だったんだ。
森に住んでる奴、仙人ってよりは魔人だわな。ノールールな連中に見つかって逃げ回ったりさ。普通に晩御飯にされそうな時もあったさ。食料が切れたあとは動物を捕まえたり食材を調達しなきゃならなかったしな。それも大変だったよ。捕まえた兎が食えるのかどうか、本当にこれ兎なのか、とかな。わっかんねえんだ。リスみたいな生き物を捕まえてシチューにして食ってみたら腹壊して寝込んだこともあった。
けどさ、一番しんどかったのは独りの時間だよ。
結局、辛いのは静まり返った森の中で一人で過ごすことなんだよ。チアキちゃんは経験したことないかもしれないけど、深い森の中ってのは本当に音がしない。無音の世界さ。自分が動けば、足音や枯れ葉を踏みつける音がするけど、立ち止まれば耳が痛くなるぐらいの沈黙が襲ってくる。あの静寂の中にいると、自分が生きてるんだか死んでるんだか、分からなくなる。
境界線が分からなくなるっていうか──。
それで、おじさんはさ。いつの間にか自分が生きてるんだか死んでるんだか、分からなくなっちゃったんだよ。水も飲まず、食い物も食わないでいても平気になっちゃった。森の奥に入り過ぎたんだな。
ある一線を超えたら、それが普通になっちゃってさ。森の中にいるのが普通で、それがすごく快適になった。
意識がはっきりしてる時は、森の外に戻るために磁石で場所を確かめながら、魔術の紐をあちこちに結びつけて行動してたんだけど。そういうのもやめた。
居心地のいい場所を見つけて、ただそこに居続けてるうちに時間が経つのをすっかり忘れちまった。もちろん1か月なんかとうに過ぎたよ。でもおじさんは、動かなかった。
おじさんは、ほとんど精霊になりかけてた。
人間であることを忘れて、違う存在になるところだったんだ。
うん。そうだろ? 気になるよな。
そこまで成っちゃったのに、なんで戻ってこれたのかってな。
それはなあ、助けに来られちゃったからなんだよね。2か月ぐらい経ったころに、知り合いが、おじさんのこと助けに来ちゃったんだよ。魔術の紐や痕跡をたどってさ、居場所をつきとめてくれたんだ。
でも、おじさんはほぼ精霊になってたから。変な人間が来たなあぐらいの感覚だし、もう誰が来たんだか分かんないよ。人間の識別ができないレベルに成り果ててたから。
けど、そいつがあんまり一生懸命、俺のところで粘ったんで。足元でギャーギャーわめくもんで。人間の時間で7日ぐらい経ったころかな。ある瞬間、いきなりそいつのことを思い出したんだよね。
突然、相手が誰で、自分が何なのか思い出した。
そいつが泣いてたからなのかな。
やっべぇと思ったんだよ。帰らなきゃって。
で、おじさんは人間の意識をなんとか取り戻してさ。町に戻ったわけなんだが、試験は失格。狙ってた役人にはなれなかった。でも、人間として生き残ったし。それはそれで良かったなと。
探しにきてくれた奴には、感謝してる。
今でもな。
「うっわ、それって……」
長い独白を聞いて、チアキは思ったことを口にしそうになったが、良識を使ってそれを抑え込む。
異世界での過酷な試験の話。森に飲み込まれそうになったおじさんを、助けに来てくれた人の話。
女だ、これはどう考えても女の話だ。チアキは確信した。
そう考えると、あまりに美しいエピソード過ぎて、ツッコむことができない。おじさんのくせに、なんてロマンチックな愛の話を語るのか。これって、どう考えてもその後、結婚してる。で、きっとその人は美人だ。死にかけた彼氏を命がけで助けにくる女性だ。期待もこめて、美人なのだその人は。
つまり、おじさんは素敵な奥さんの話をしてくれたわけだ。
「クソッ、ノロケかよ!」
我慢したのだが、思わず口に出てしまう。
「あっ、えっ?」
おじさんはチアキの言葉に混乱している。仕方ない、言ってしまえ。チアキは睨むようにおじさんを見返す。
「だって、その助けにきたって人、女の人でしょ。だよね、そうだよね? で、そこまでされたらフツー結婚するよね。つまり、それ奥さんの話でしょ」
「えーッ!! なんで分かるの!?」
びっくりしたおじさんは立ち止まり、のけぞった。「結婚したことまで、なんでなんで!? なんで分かるの!? すごくない? チアキちゃん」
結局、図星で当たっていたようだ。チアキは嬉しいような残念なような気持ちでうんうんとうなづく。
「女の勘かな」
「怖ぇえ、女の勘、怖え」
適当に言ったチアキに、おじさんは心底驚いた様子を隠さず、身震いする。
「その話はしないようにしようと思ったのに、バレちゃったな……」
頭をぽりぽりとかきながら、またゆっくりと歩き出す。やれやれと口にしながら、前を行くおじさんの表情はチアキからは見えなかった。彼女も後ろをついて歩きながら、何気なく聞いてみる。
「ノロケ話だけどさ、いい話じゃん、それ」
「まあなあ……」
「それで、元気にしてるの? 奥さん」
「あ、あー、それは、いや、その」
尋ねると、おじさんはいきなり言葉に詰まった。本当に困ったように視線を躍らせ、どう言ったものかと下唇を噛んでいる。
うっかり聞いてはいけないことを聞いてしまったようだった。しまった。チアキは助け舟を出すつもりで、慌てて付け足す。
「ごめん、あーっと……もしかして、別れちゃったとか?」
「ああ、そう! そうなの! そうなんだよ」
おじさんはパッと顔を上げて、うなづく。──ああこれは嘘だな、とは思ったが、チアキはそれはそれで突っ込まなかった。
「些細なことで言い争いになっちゃってさ。出てっちゃったの。あはは、おじさんが甲斐性なしだからさ」
「ふうん、そっか。……戻ってくるといいね」
おじさんは無言でうなづいた。その口元にものすごく寂しそうな微笑みが宿るのを見て、あちゃーとチアキは額に手をやった。
聞くんじゃなかった。こりゃ下手すると、奥さんすでに故人かもしれないわ。事情は分からないが、とにかく彼は自分の世界にいても奥さんに会えない状態なのだ、おそらくは。そこは突っ込んで聞き出す話ではない。
今後、奥さんの話は禁句だなと、彼女は心にかたく誓った。
無言になる二人。最初に大コーフンしていた茶畑のところまで戻ってきたが、おじさんはまだ無言だ。何か話題を振らねば、と、チアキは少し考えてから明るく声をかけた。
「そういえば山頂で焚き火できなくて残念だったねー」
すると、おじさんはようやく彼女を振り向いて、ケロッと言う。
「別にいいんじゃね? 川のほとりで焚火した方が安全だろうし」
「? 別にいいって、精霊を誘き出すのに困るんじゃないの? 山で焚火したい、ってそういう話じゃなかったっけ?」
おじさんが予想外のことを言うので、思わず食いつくチアキ。
「別に。山に近けりゃどこでも」
「えー? じゃあなんで山登ったの、わざわざ」
どういうことだと、チアキが抗議がてら声をあげると、おじさんは親指を立ててチョイチョイと彼女の顔を指差すのだった。
「チアキちゃんのためだよ、運動してなさそうだから」
「マジかよ」
おじさんは涼しい顔で、手にしたスマホを振ってみせた。
「前にスマホの歩数計のこと、教えてくれたじゃん? それで、チラッと見せてもらったチアキちゃんのデータ、毎日5,000歩ぐらいしか歩いてないみたいだったから。若者がそれじゃまずいだろと思ってさ」
「なにそれ、そういう配慮いらないし」
少しだけムッとしたような顔でチアキ。「まあ、たまにはこういうのもいいかなって思ったし、それなりに楽しかったからいいけどさ」
「ちょっと待って」
唐突におじさんは立ち止まった。チアキは、その背中に顔をぶつけそうになる。もうすぐ、民家が見え、河川敷が見えてくる場所だ。
「どうした?」
「何か焦げ臭くない?」
「え?」
「──あそこ、燃えてる!」
咄嗟に走り出す、おじさん。緩やかな下り坂を、ダッシュで駆け下りていく。
わわわ、ちょっと待ってよ! と、チアキも慌てて彼の後を追った。
(8話「ロック画面を解除してみましょう」は7/2に更新します)