6.地図アプリを使ってみましょう
「うおっ、すげえ。見て見て、一緒に動いてる!」
おじさんは電車の中で、チアキにスマホを画面を見せてきた。地図アプリの現在地を示す青い丸を指さして、子どもみたいにはしゃいでいる。
「ピンチアウトすると広範囲を見れるよ」
ため息まじりに彼女が言えば、おじさんは、おっ、とか、うぉっとかいちいちリアクションしながらスマホの小さな画面に見入っている。
今日の二人は小田急線に乗って、丹沢方面に向かっていた。チアキはいつもと少し違って、白Tシャツにオレンジ長袖シャツを羽織り、タイツにハーフパンツ、ちょっとごつめのスニーカー。黒い大きなリュックを抱えている。おじさんは、長袖のTシャツにナイロン素材のパーカー、厚手の黒ジーンズに裸足にスニーカーだった。おじさんが靴下を履いていないことを除けば、“これからハイキングに行くのね”とすぐに分かる恰好だった。
小田急線は通勤通学で非常に込み合う電車だが、朝6時台なら人はまばらであるし、下り方面ならなおさらだった。二人はロングシートに腰掛け、すいた車内でスマホをいじりながら楽しく会話している。
今回のリクエストは、もちろんおじさんからだ。
山に登りたい、大きな炎で焚き火をしたい──。山で焚火することで土と火の精霊が捕まるらしい。
チアキは、あんまりアウトドア得意じゃないんだけどなと思いながらも、おじさんがそう言うので、ひとまず近場で、と丹沢を選んだ。大学のサークルで一度行ったことがある場所だ。
グーゴルマップの使い方を教え、丹沢を指さし、ここで良いかと聞いたところ。方角的に問題ないというので、そこに向かうことにしたのだ。
「わ、田んぼが見えてきた!」
本厚木駅を過ぎればだんだん風景が変わってくる。おじさんは何の変哲もない沿線の田んぼや住宅の写真を撮っている。普通に日本の風景を楽しんで、はしゃいでいる外人さんにしか見えない。
「田んぼはやっぱり珍しいの?」
「うん、人生で二、三回しか見たことないな。おじさんの世界にも無くはないけど、稲より小麦の方が主流なんだよ。厳密に言えばちょっと違う植物なんだけどまあ似たようなもんで……あ、へんなところ押しちゃった」
「戻してあげる。貸して」
説明しながらおじさんがスマホに目を落とすので、チアキは何気なく手を差し出す。
彼からスマホを受け取り、[ビデオ]に切り替わっていたのを[写真]に切り替えていると、ポップアップメッセージが出た。文字化けではないが、日本語でもない。アルファベットだが英語ではない何かの別の言語に見えるが……?
「なんか誰かからメッセージ。なにこれ、精霊?」
と、おじさんにスマホを返すと、彼は画面を覗き込みながら応える。
「ん。ああ、これは違う。これは人間だ」
へっ? とチアキの喉から変な声が出た。
「誰か話す人いるの? ジリオさん友達いるの?」
「まー、失敬な、これは友達じゃなくて、うちの人」
おじさんはそれでも気を悪くしたような様子もなく、そのメッセージに軽く目を通す。再度、チアキは、驚いたように変な声をあげてしまう。
「えっ、えっ、じゃあ、異世界の人ってこと? すごい、スマホでやりとりできるんだ!」
「まあ文字だけな。つい最近になって、ようやく連絡がとれるようになったんだ」
すごい。第三者、登場、である。がぜん興味が沸いてくるチアキ。
「で、誰なの、その人」
「誰って……、おじさんの家に住んでるおじさんだよ」
おじさんの家に住んでるおじさん。意味が分からない。
「?? 家族?」
「ああ、そういうのじゃない。家のことを見ててもらってるんだよ」
不動産屋さんみたいなのかな? なんとなく理解するチアキ。
「あ、そうなんだ。良かったね、じゃあ向こうのことも少しわかるんだ」
「ま、そりゃ気になることあるからな」
「気になること?」
「……ああそうそう、ペトローニのこととかさ」
何か言おうとして、おじさんはサッと話をそらせた。
「ペトローニはうまくやってるみたいだ。おじさんも……ああややこしいな、そいつゼルコっていうんだけど、ゼルコもペトローニのこと褒めてたよ。素晴らしい才能をお持ちの方って、まあどうせ美味いもの食わされて懐柔されたんだろ」
どうやら、おじさんの家に住んでいるおじさんはゼルコさんというらしい。ゼルコさんとおじさんの分身であるペトローニは異世界で仲良く暮らしているそうだ。
「ふーん」
「今日も異常なし、か」
独り言を呟くと、おじさんはスマホ画面の電源を落とした。
チアキはその横顔を盗み見た。おじさんは先ほど何を言おうとしたのだろう? 少し気になった。
彼は自分の生まれ育った世界から、こっちの世界に転移? 転生? してしまっているのだから、気になることなどいくらでもあるだろう。すぐに思いつくことといえば家族のことだ。今まで聞いたことがなかったが、おじさんは年齢なりに結婚していそうだし、もしかしたら子どもだっているかもしれない。
立ち入ったことは聞くべきではない、とチアキはそう思ったものの、なぜ今までおじさんに家族のことを聞かなかったのか、理由に思い至り、思わずクスッと笑ってしまった。
「何? どした?」
「なんでもない」
なぜかと言えば、おじさんには、そこはかとなくバツイチの雰囲気が漂っているのだ。
それは本当にただのチアキの勘でしかないのだが、離婚したと言われればすごく納得のいく立ち振る舞いなのである。当たっているのかどうかは、まあ別にいい、本人が話してくれたらその時に聞けばいい。チアキはそう思いながら、車窓に視線を移す。
電車が新松田駅に着いた。
着いたよ、とチアキは気持ちも切り替え、おじさんを促した。
神奈川県松田町は、人口一万人強の小さな町だ。丹沢山地へのアクセスがよく、チアキたちの他にもアウトドアファッションのグループがちらほらと見える。二人は、駅前にあった地元の人が使いそうな小さなスーパーマーケットでランチ用の食材を買い込み、路線バスに乗って、中津川の上流方面へと向かう。
バスの目的地は「寄」。一文字で、やどりぎと読む。
丹沢湖に向かう山道なのだが、それほど奥まで行かず、30分ほど乗ったら終点だ。住宅地を抜けたあたりで、二人はバスを降りる。川のほとりの小さな集落である。広い河川敷のある中津川の両岸に、ぽつりぽつりと民宿のようなものがある。沢遊びなどを楽しめるような、日帰り観光スポットのようなところだ。
「こっちだよ」
一度来たことがあるチアキはおじさんを先導して、川を渡る橋へと足を進める。橋の上から見ると河川敷の様子がよく分かる。見晴らしはよく、風に吹かれた木々がざわざわと騒いでいる。
「へーけっこう広くていいじゃん」
「ここでも焚火ができるね」
中津川のほとり、河川敷はバーベキュースポットだ。
「なんだっけ、登る山。ダンゴ山だっけ?」
「シダンゴ山ね」
おじさんの質問に答えるチアキ。
「シダンゴ? どういう意味?」
「ごめん、知らないんだわ。なんだろうね、シダンゴって」
田舎であるため道が少なく、迷うことはなかった。二人はすぐに畑の脇の道から目的の山──シダンゴ山へと登っていく。
それほど険しくもなく、2時間もすれば頂上につく低山なのだが、なかなか先に進まない。というのも、おじさんが道の脇にいちいち気を取られるからだ。
鈴蘭の花に驚き、写真をとり、ぶつぶつ言い、スマホのメモに何かを書き留める。
オレンジ色の木瓜の花が綺麗だ綺麗だと言って、写真を撮る。
小さな茶畑の脇を通った時が一番、盛り上がっていた。これ、お茶の葉だよね、紅茶とか緑茶になるやつ! すげー初めて見た! おじさんは大コーフンして写真を撮りまくり、ぶつぶつ呟き、誰かにメールを送る。チラッと手元を覗き込めば、例の文字化けテキストをせっせとメモ帳に打ち込んでいる。
「いい精霊いたの? うまく捕まえたの?」
「ああ、そうじゃない。そんなことしないよ、ここにいる精霊とお喋りしただけ」
おじさんはとても楽しそうだった。
「おじさんが探してる、うちの世界の精霊はこういうところには居ないんだよ。だいたいは都会にいるんだ。人がいっぱい居るところ。奴らは異世界人に自分の影響を及ぼしたくてこっちに来てるわけだからな」
「え、じゃあ、なんで」
「なんでここ来たのかって、そう聞きたいんだろ?」
チアキが周りを見回し疑問を口にすると、おじさんは得意そうになって言う。「大物の精霊がいるんだよ。大物は力を蓄えてるから、周りに人がいなくても平気。むしろ自由に行動できる山間部みたいなところに潜むんだ」
「大物って、なんか強いやつってこと?」
「そうだな。この丹沢地域は都会に近いし、立地的に何か潜んでる可能性がかなり高いんだよな」
「マジで? そういうこと?」
チアキは思わずニヤニヤしてしまっていた。頭の中には異世界ラノベのバトルシーンが、ブワワワッと展開されている。──森林から立ち上る何者かの気配! おじさんの手から放たれるエネルギー弾! 攻撃が効かない! どうすればいい!? 時間稼ぎだ! エトセトラ、エトセトラ。
「もしかして今日、バトったりする? 魔法とかで戦っちゃう?」
「あー、うーん」
彼女からめちゃくちゃ期待のこもった目つきを向けられると、おじさんは困ったように頭を掻いてみせた。
「戦わないかな……。おびき出してスマホに封印、いつもの感じだよ。おじさんこっちじゃ魔法あんまり使えないって言ったじゃん」
おじさんが、申し訳なさそうにそう言うと、チアキの瞳からみるみるうちに光が消え、彼女は残念そうに口を尖らすのだった。目をそらし、地面を憎々しげに睨みつける。
「なんだ、つまんないの」
「そういうこと言わない!」
二人はやがて森の中へと足を踏み入れていく。あまり身体を動かすことがないチアキと、それなりの年齢であるおじさんのコンビは、辛くなる頃合いもだいたい同じだった。おじさんはマッチョではないが身体も大きく、運動もそれなりにしているようだったが、何しろ40代後半だ。
楽しく会話しながら、しばらく歩いているとだんだんと二人とも無言になっていく。
「あそこの岩まで行ったらちょっと休もうか」
「賛成~」
岩に座って水筒の冷たいお茶を飲む。
木漏れ日が降り注ぐ、絶好のハイキング日和だった。
たまに休憩をとりながら、一時間半ぐらいだろうか。二人はようやく山頂に到着した。それほど人気のある場所でもないのか、同じようなハイキング客には2、3人ほどしかすれ違わなかった。
「ようやく、着いた……」
汗をぬぐい、感動したように言うチアキ。おじさんは、これといった表情を浮かべずに空を見上げている。
低山ではあるのだが、頂上は芝生と低い木しかなく開けていて、周囲の丹沢の山々が見渡せる眺望があった。そこそこ整備もされていて、座れるベンチが少々、何かこの山の謂れのようなものが書かれた碑もある。
近くで鳥のさえずりが聞こえる。ピチピチと明るいその歌に、おじさんは目を細めているようだった。
「何の鳥かな?」
「んー、雲雀かな?」
「……に似てるなあ」
異世界の鳥の名前かな? よく聞き取れなかったが、チアキは聞き返すことはしなかった。おじさんの世界では自然と近しい暮らしが残っているのだろうか、それともその逆か。おじさんは山頂に来てから、空を見上げたりボーッと遠くを見つめたり、心ここにあらずといった感じだ。
それより、確か、焚火がしたいんじゃなかったっけ?
「ちょっと待ってて、いい場所探してくる」
チアキはおじさんをその場に残して、よい場所を探そうと山頂を見回し、歩いてみた。他のハイキング客の老夫妻が休憩をとっていたり、小学生ぐらいの子どもをつれた家族連れがレジャーシートを広げて早めのランチをとっているのが見えた。
ここで焚火をしたら、目立ちそうだ。それに土や岩がむき出しの地面が少なく、草がよく燃えそうでちょっと心もとない。
「うーん」
悩んだチアキは、おじさんと相談しようとして振り返り、彼の姿が見えないことに気づいた。あれっ、と思えば、石の碑の前に移動しているのに気づく。何か興味深いことでも書いてあるのだろうか。
チアキは彼の近くまでいって、碑の文字が見える隣りに立った。
そこにはシダンゴ山の名前の由縁が彫ってあった。
曰く、シダンゴとは“震旦郷”と書き、それは中国のこと。それというのも、この山には欽明天皇の時代に仏教を伝えるために中国から渡ってきた僧が住みついてここを拠点としていたから。またシダンゴという名称は、その僧が仙人のような立ち振る舞いだったため、梵語で言うところの羅漢──すなわちシダゴンと呼ばれていたことにちなんだものという説もあるそうだ。
「へー、そうなんだ」
山の名前の由来を知り、感心するチアキ。するとおじさんが驚いたように彼女を振り向く。
「よ、読めるのか、チアキちゃん」
「当たり前でしょ、──てか、読めてなかったの!?」
チアキは脱力しそうになりながらも、おじさんに意味を教えてやった。おじさんはどうもこういうアナログの長文は苦手らしい。普段は日本語で会話し、デジタルであればすらすら読んでしまう彼であるが、こうした石碑的などになると本当に読めないようなのだ。その様子を見ていると、彼が主張している「精霊が言葉を日本語に翻訳してくれている」という説は本当なのかと思ってしまうチアキである。
おじさんは話を聞きながら、何度もうなづいていた。
「やっぱり。なるほどな」
「やっぱり?」
うん、とおじさん。
「昔ここはもっと密林みたいな場所で、魔法使いみたいな奴が住んでたって」
「?」
「ここにいた精霊が教えてくれた」
と、空を見上げるように言う。つられてチアキも空をきょろきょろと見上げてみるが何も見えない。ただ青い空と雲が広がっているだけだ。
「スマホなくても話せるの?」
「おう、相手がデカいからな」
何かがその辺にいるらしい。
「……チアキちゃんは、この場所を適当に選んだんだと思うんだけど」
おじさんは何か前置いて続ける。「おじさんにとって、ここはすごくグッとくる場所なんだよ。何しろ、空気が似てる。いい場所だし、魔力も生命力もちょうどいい。いろんな因果律による結果ではあるんだけど、チアキちゃんが他でもない、この場所を選んでくれたおかげで、おじさんはここに来ることが出来た。本当にありがとな」
「ああ……うん」
なんかよく分からないが、おじさんがとても喜んでいることは分かる。
「気に入ってくれて良かったよ。ジリオさんの故郷か何かに似てるの?」
「うん、思い出の場所に似てる」
そうして、おじさんは話してくれたのだった。
ちょっと不思議な、異世界での公務員試験の話を。
(7話「どれだけ歩いたか歩数計で確認してみましょう」に続く)