5.お友達にメールを送ってみましょう
「でさー、チアキちゃん。ヘロシオの鍋、要らない?」
「もう儀式は終わったの?」
「おう。あれから5回ぐらいな。フル回転よ」
二人は東急東横線に乗って渋谷方面に向かっていた。おじさんはロングシートにどっかりと腰かけ、チアキはその隣りにちんまりと座っている。車内は平日の昼間とあって、なんだかすごく空いていた。前のシートにお爺さんが一人座っているぐらいだ。
今日はチアキの大学の授業がなく、バイトのシフトも入っていない日だった。チアキとおじさんは、彼女がほぼ一日自由になるこうした日に、よく会うようになっていた。
だいたいはゴハンを食べたりお茶しながら、スマートフォンの操作方法を教えてあげたり。異世界人であるおじさんにこの世界のルールを話してあげたり。
すっかり友達みたいだった。
「今日、帰りに目黒寄るから、鍋ひとつ持って帰ったら?」
「そーお? じゃあもらおうかな」
チアキは、あのデザイナーズハウスの空間に、円形に鍋が置かれている光景を思い出す。
「でも、あと26個あるよね、あれどうするの?」
「うーん」
おじさんは外国人らしく肩をすぼめてみせた。「どうしたらいいかなあ。ヨッシーとかにも聞いてみてくんない? ほかにもチアキちゃんの友達で誰かもらってくれないかな」
「ああ、そういうことなら」
ピンとくるチアキ。「メリカルで売っちゃえばいいよ。インターネットのフリマでさ」
「メリカル? フリマ?」
「スマホ貸して」
電車の中で、チアキは異世界人に日本最大のインターネットフリーマーケットの存在を教えてやりながら、彼のスマートフォンにアプリをダウンロードしてやった。
「この世界には便利なもんがあるなあ……。まあおじさんの世界にもフリーマーケットみたいなモンはあるけどさ」
おじさんは感心したようにぶつぶつと言う。
「まあメリカルはいいとしてさ、ジリオさん。前、火の精霊の力が強すぎてスマホが燃えちゃったって言ってたじゃん。これにため込んでて大丈夫なの? また燃えたりしない?」
尋ねながら、チアキはおじさんにスマートフォンを返す。それを受け取る彼の右手は、火傷もほぼ治って元通りになっていた。治るのが早いといえばそれまでだし、チアキが連れていった病院の薬が良かったのかもしれなかった。
治療魔法で治った、というのは無いとしても、またスマホが炎上したら危ないったらない。
おじさんは眉をひょいと上げてみせた。
「ああ、術式はメールに添付して送ったから大丈夫」
「はい?」
「おじさんの世界にメールで送り返してやったよ。だから、もうここには精霊は入ってない」
ニカッと笑い、彼はスマートフォンを振ってみせる。
「マジで? あ、だからメール」
チアキは三日ほど前に、おじさんにメールの送り方を教えたことを思い出した。ショートメッセージと、リンゴ系でアドレスを取得して通常の電子メールを送る練習。ひとまずチアキのスマホにメールを送ってみせたところ、おじさんは満足したようだった。その様子もあって、彼女は自分と連絡を取るのにメールを覚えたかったのだろうと思い込んでいた。
まさか異世界にメールを送るためだったとは。
「メールに精霊を添付かよ……」
「余裕だったよ。メールってさ、マジ便利」
おじさんは大きな身体を丸めて、チアキに画面を見せてくれる。ショートメッセージのようだ。
「それに、この世界にいる精霊とも気軽に話せるようになったよ、ほら」
「……」
それは、おじさんが精霊とお喋りしているという画面だった。
相変わらず、文字化けしているとしか思えない文字列が吹き出しで交互に並んでいた。くぁwせdrftgyふじこlp、みたいな感じだ。
「ブフフ、こいつさ、桜木町の駅前で会った土の精霊なんだけどさ。すっげえバカでさあ」
おじさんの反応を見る限り、どうやらこの文字化けで精霊と楽しい会話をしている、らしい。
やべえ、狂ってる。
笑うおじさんを見て、チアキはただただそんな感想を抱くのだった。
「で、どこで降りるんだっけ?」
尋ねると、おじさんは渋谷で乗り換えして数駅目の私鉄の駅の名前を口にした。
「へー、いいとこじゃん。よくそんな物件見つけたね」
「まあな、こっちの世界の精霊からいろいろ話を聞けるようになってきたからな」
ジャケットの胸ポケットをポンと叩き、「鍵も不動産屋からもらってある」
「段取りいいね」
チアキはおじさんの手際を褒める。
「水の精霊も捕まえるんだっけ?」
「ん、まあついでに、な」
この日、彼女はおじさんから「新しく住む家を都内に見つけたから、物件を一緒に見に行って意見を聞かせて欲しい」と説明され、彼に着いてきたのだった。
思えば、やたら手際よくいろいろ準備されていたことを、チアキは疑うべきだったのだ。彼女は勘のいい人間だったが、残念ながらまだ年若く、この時点で老練なおじさんの企みに気づくことが出来なかったのだった。
この後、チアキはおじさんに着いていったことを後悔し、同じようなことやったらもう絶交だから! と火が付いたように激怒することになる。
小さな駅だった。駅前にあったコンビニで酒を少しとポテトチップス、チアキ用のウーロン茶を買う。おじさんはビニール袋を下げ、だらだらと目的地へと歩いていく。
彼は今日も裸足にローファーだ。たぶん靴下が本当に嫌いなのだ。
チアキはおじさんの隣りをゆっくりと歩く。駅前の商店街を抜けていくと、だんだん店舗より住宅や低層ビルが増えていく。8分ほど歩いた頃だろうか。おじさんは角に見えてきた3階建てのビルを見上げるように顔を上げた。
「あれだわ」
足を止めて、チアキにも分かるように顎をしゃくる。彼女もそのビルを見る。角地にあってほぼ正方形に近い形をしていて、一階は店舗になっているようだ。
「? 一階は居酒屋か何か? 閉まってるけど」
「二階と三階がアパートになってるんだよ。……なるほどなあ」
おじさんはそのビルを見たまま、独り言のように呟く。
「何が?」
尋ねると、おじさんは視線を巡らせチアキの顔をじっと見下ろした。何か言いたそうな顔をしたのも束の間、まあいっかと呟く。
「?」
「とりあえず、部屋、入ってみるか」
おじさんは裏側のエントランスへと歩を進めるのだった。ほんの少しの不審感を覚えながらも、ひとまず彼についていくチアキ。
カツ。カツ。カツ。
中に足を踏み入れて、2階へ上がる。妙に薄暗い廊下に二人の足音が響いた。今は真昼間のはずなのに、この暗さはなんだろう。
コンクリートの打ちっぱなしの壁と床。手すりの黒ペンキはまだらになって剥げている。消火器の横にごみ箱のような黒いプラスチックの箱が横倒しになっていた。
チアキはその雰囲気にごくりと唾を飲み込んだ。思わずおじさんのシャツの端を掴む。
「あ、あれ。人、住んでるんだよね」
「んー、まあ住んでる奴はいるみたいだな」
と、答えたおじさんの左手には日本酒のワンカップが握られていた。しっかり蓋も開けられている。
「ブッ、なんですでに呑んでんの!?」
「ああ、これ? 水の精霊がさ」
思わずチアキがツッコむと、おじさんは訳が分からない答えを返し、日本酒に右手の指を付けた。そのままチアキのおでこに、酒をちょんと付ける。
「えっ、何?」
「魔法、魔法」
おじさんは笑って、ちゃんと答えなかった。チアキにシャツを掴まれたまま、のんびりと歩いて一番奥の部屋で足を止める。胸ポケットから鍵を出して、鍵穴に差し込む。扉を押して、さっさと部屋の中に入る。
なんの躊躇もない、一連の行動だった。
部屋は雨戸が閉じられていた。隙間から陽光がほんのわずかに差し込んできている。
「暗いなあ」
と、靴を脱ぎながらおじさんが言うのと同時に、チアキが慌てて電源スイッチを押していた。
がらんとした部屋は埃っぽく、微かにカビのような何か変な匂いがした。入ってすぐの部屋の隣にキッチンがあるようだ。あと奥にも部屋がもう一つ。1DKか。
とはいえ、雰囲気が尋常ではなかった。雨戸が閉まっているからとはいえ、この暗さは何だ。昼間とは全く思えない。
おじさんに続いてうっかり部屋に上がってしまったチアキも、異変に気が付いていた。得体の知れない恐怖を感じ、自分を抱きしめるように両腕を引き寄せる。おじさんの向こう側の壁に、なぜか1枚だけポスターが貼ってあった。昭和の雰囲気のする、水着のグラビアアイドルがビールジョッキを手にした大きなポスターだ。四隅の角がちろりとめくれている。
内見? 内見しにきたのに何故こんなポスターが残っている? しかも不自然に曲がって貼られているではないか。まるで何かを隠すかのように。
「このビルおかしい、この部屋おかしい、人が住む感じじゃないよ!」
「そおーかなあ?」
部屋の中央に立ったおじさんは、寒々しい白い蛍光灯に照らされながらチアキの方を振り返った。床にビニール袋とワンカップを置き、のんきな声を上げる。
「ジリオさ……」
「あ、ちょっと待って。電話」
声をかけようとしたら、おじさんはスマホを耳に当てた。誰かから着信? こんな時に誰だよ、と思いながら、チアキは恐々と床を見、天井を見る。
「うん、そう。来ちゃった」
おじさんは機嫌良さそうに電話の相手に話しかけている。不動産屋か?
「バスルームに? あっそう。ちょっと待って今、見に行く」
え? チアキは、行くなとおじさんのシャツを掴もうとしたが、間に合わなかった。おじさんは裸足で、キッチンの方へと歩いていく。やめなよ、と止めようとして彼女はビクッと肩を震わせた。
キッチンの戸棚に何かが立てかけてあることに気づいたのだ。外された床板のようだった。その違和感バリバリの板の前を、おじさんは何も気にせず通過してバスルームの方に歩いていく。思わずチアキは目を凝らした。床板に何か大きな染みのようなものがあって──。
「ひっ」
彼女の喉から変な声が出た。バスルームに消えたおじさんの姿を探す。
「ジリオさん、ジリオさんんンンン……これ、あの事故ぶ──」
これは明らかに事故物件だよ、と。
言おうとしてチアキは気づいた。もしや、おじさんは異世界人だし、ただの外国人に見えるから、不動産屋に騙されて事故物件を掴まされたのかもしれない。殺人事件や何かで、前の住人が非業の死を遂げた部屋。事故物件。本来であれば不動産屋には説明をする義務があるはずだが、もしかしたら異世界人のおじさんはそれが理解できなかったのかもしれない。ただ家賃の安さにつられて、うっかりとこんなヤバそうな物件に? そうだとしたら彼に罪はないが、しかし。
「あっ、そういうこと言っちゃう? 無理だと思うよ、俺ぜんぜん平気だもん」
電話で誰かと話しながら、おじさんが戻ってきた。近寄ってシャツを掴もうとした時、チアキは気づいた。彼は自分を見ていない。誰かと話しながら、その視線を窓際の方に向けていた。そう、例の昭和のポスターの方に。
「いいよ。かかってきな」
まさか。ピンときた。おじさんが話している相手は不動産屋ではない。おじさんが話しているのは、今ここにいる……。
チアキはパッと彼から離れた。キーンという耳鳴りのような音がして、彼女の喉が恐怖できゅっと縮む。その時。
唐突に電気が消え、室内が暗闇に包まれた。
「──ひぃぇえエエェェェ……!」
思わず悲鳴を上げてしまうチアキ。それはおおよそ女らしさとはかけ離れた、彼女らしいといえば彼女らしい盛大な悲鳴だった。
目をつぶり、次に開いた時には元のように電気が点いていた。目の前におじさんがいて、大きな身体で彼女の視界を塞ぐようにして立っている。
「悪かった、悪かったよ、おじさんが悪かった。もう大丈夫だよ」
大きな手で、チアキの両手を包み込むように持ち、大丈夫だよと繰り返す。「女の子だもんな、そうだよな。やっぱりこういうの苦手だよな」
チアキは答えることができず、へなへなとその場に座り込む。ハッとおじさんは彼女の腕を引くが、足がもつれたように彼女は立ち続けることができない。
「どうした?」
「腰、抜けた……」
おじさんはチアキの両手を離し、そっと座らせてやった。
「ごめん、本当にごめん」
チアキは完全に意気をそがれ、呆然としたような顔で座っている。恐怖で口端がふるふると震えている。チカッと電気がまた点滅した。
「は、はや、はや、でよう……」
壊れたラジオのように言葉を発するチアキ。おじさんは、彼女の肩にポンポンと手を置き、うんうんと彼女を安心させるように大げさにうなづいてみせる。
ついと顔を上げ部屋を見回すと、床に落としていた自分のスマートフォンをゆっくりと拾った。
うーん、と唸り、もう一度チアキに視線を戻して、おじさんは両手を合わせチョイチョイと変なおじぎをしてみせるのだった。
「チアキちゃん。んー、お願い!」
出会った時にやっていた変な仕草だ。チアキはそうじゃないと思ったがツッコむ元気がなかった。
「あと、2分だけ。2分だけ時間が欲しいんだわ、頼む」
こんなところで何をしようというのだ。でもチアキはガクガクとうなづいた。
「2分だけだぞ……」
「ありがとう、チアキちゃん。ところで」
おじさんは、サッとスマートフォンを出してカメラアプリを立ち上げ、チアキの前に突き出した。
「自撮りってどうやるの?」
おじさんはいつも狂っていて、ブッ飛んでいるが、今回もなかなかイッていた。
何しろ、彼は持ち時間2分間で、このヤバい事故物件のあちこちに足を踏み入れ、自撮りしまくったのだった。よりによって、自分の写真を! 事故物件で! 撮りまくったのだ。
「やべーわ、絶対呪われる……」
「いやー、今回はけっこういっぱい回収できたな。大漁、大漁」
チアキはおじさんにおんぶしてもらっていた。東京の街中で超恥ずかしかったが、仕方がない。一刻も早く、あの事故物件から離れたかったのだ。
とはいえ、背中から見るおじさんの横顔は普段と全く変わらなかった。
「水の精霊、この中にいっぱい入れたよ。喧嘩売ってきた威勢のいい奴もいたけど、大丈夫。チアキちゃんには一体も付いてないから安心しな」
いい笑顔で自分のスマートフォンを振ってみせる。死ね! とチアキが背中で毒づくと、おじさんはケラケラと笑った。
「さっき“やっぱり苦手だったか”みたいなこと言っただろ?」
もうチアキの口調はひどすぎだ。
「最初からああいうところだって、知っててわたしを誘ったろ、もーぜってえ許さない」
「ごめんごめん、おじさんの写真を撮ってもらおうと思ったんだ。自分だけだと、ちょっと難しいところもあって……」
チアキを宥めるように言うおじさん。「と、思ったけど、まあ自撮りでもイケるって今回分かったし。あと数回行こうと思ってんだけど、一人で行くわ。ごめんな」
「もう、死ね! 死んでしまえ」
「アハハハ、はいはい」
後日、チアキはインターネットの有名事故物件サイトで、自分が足を踏み入れた物件のことを知ることになる。
あの物件は、サイト運営者であり、サイトと同じ名前を持つ、大増てる氏をして「最強の事故物件」と言わしめた場所だった。炎は三つも四つもついていた。一階の店のオーナーは謎の事故死、二階で殺人事件、三階で自殺があったそうだ。
彼女はそれを知り、スマートフォンを床に叩きつけたくなった。
大の大人が、うら若い女子を連れていく場所かよ──! と。
(6話「地図アプリを使ってみましょう」は、6/18に更新予定です)