4.お料理や友達の写真を撮ってみましょう
おじさんが選んだ店は、とんでもなくお洒落な店だった。横浜みなとみらい地区のオフィス街の中にあって、ショッピングセンターの一番奥にあった。
「この店のメシ、面白れーんだよ」
そう言いながら、やたら大きな両開きの扉を開けると、白いシャツに黒いスラックスの、ラフだが洒落たウェイターがにこやかに迎えてくれた。すでに何度も利用しているのか、おじさんは彼に手を挙げると、自分の家のように中に入っていく。
目の前には、テーブルとそれぞれに薔薇やマーガレットが活けてあり、白を基調とした華やかな結婚式場みたいな空間が広がっている。
「ドドド」
動揺したチアキは意味不明の言葉を発した。
「ドレ、ドレスコード、やばい」
ウェイターの背中を見て歩きながら、ようやく意味のあることを言う。チアキは大学に行ったそのままの格好だった。フリルのついたカジュアルな紺色の綿シャツにベージュのチノパン、足元はスニーカーだ。
「ああ? 服装?」
おじさんはおじさんで、オーバーサイズの白いシャツにミントグリーンのパンツ、裸足にローファーだ。
「気にしなくていいんじゃねーかな、個室にしてもらったし」
チアキはホッとした。心の底から安堵した。こんな、大人の男女がデートに使うようなレストランは生まれて初めてだった。どう振舞えばいいのか全く分からない。
「なんか、メシのジャンル聞いたら、無いんだってさ。イノベーティブ・フュージョンって言うらしい。何言ってんのか分かんなくて面白いよなー」
ウェイターがいるのに、そんなことを大きな声で言うおじさん。慌てるチアキに、ウェイターは振り返り上品な微笑みを浮かべてみせた。すみません、すみませんと謝るのは何故かチアキだ。
個室に通され、丸テーブルに差し向かいに座る。ウェイターに椅子を引いてもらうのも初めてで、チアキは恐縮しながら席についた。ほどなくして未成年のチアキにはオレンジ色のノンアルコールカクテル、おじさんには白ワインが出された。
「今日は、ありがとう。チアキちゃん」
おじさんはワインのグラスを持ち上げながら言う。「ちっと堅苦しい店だけど、メシは美味いんだ。若いんだからいっぱい食べてけよ」
言いながら、さっさとグラスに口をつける。あ、乾杯とかしないんだ。チアキも慌ててグラスを持つ。
異世界には乾杯の習慣ないのかな。そんなことを思い、チアキは気が付いた。おじさんが左手で、火傷をしていない左手でグラスを持っていることに。
「やっぱり、右手治ってないじゃん。何が治療魔法だか。包帯取っちゃだめでしょ」
チアキはウェイターが前菜の皿を置き、去るのを見計らってから言う。
「だってよ、包帯なんて大げさだしさ、カッコ悪りぃよ」
手をひらひらさせながら言うおじさん。まるで中学生男子のような言い草だ。右手はテーブルの上で、左手でフォークを操っている。
前菜の皿は白くて大きかった。でも料理が盛り付けてあるのは真ん中のところだけだ。ちんまりと、かわいいハートマークを描くように、ミニトマトとモッツァレラチーズが盛り付けてあった。チアキはいそいそと自分のスマートフォンを出し、パチリと料理の写真を撮る。
顔を上げると、おじさんが彼女と手元のスマートフォンを見つめていた。
「何してるの?」
「写真撮ってるんだよ」
「写真……?」
ああ、と遅れておじさんはチアキが何を言っているか分かったらしい。
「なんで、メシの写真撮るんだ?」
「いや、なんとなく……なんだよね。いつ何食べたとか、あとで分かるし」
「そんなのより、自分撮ればいいのに。ほら貸して」
おじさんは半ば強引にチアキのスマートフォンを手にとる。ボタンどこ? と、相変わらず操作を良く知らないおじさんに、画面下の丸いのだよと、ぶっきらぼうに教えるチアキ。
パチリ。おじさんは意味もなく、フォークを持ったチアキの写真を撮ってくれた。
「写真ってこうやって撮るのか、これもなかなかすごい魔法だよな。今は使わねえけど、難しい時に役立ちそうだな」
変なことをつぶやきながら、おじさんは手元の自分の料理に意識を戻していった。
「だけどほんとにお洒落なお店だね。この前菜のこれ、ウェイターさん、なんて料理だって言ってたっけ」
「カプレーゼ、だな」
ああそれだ、それ。チアキはフォークでチーズをブスリと突き刺しながら思った。
この店はイノベーティブ・フュージョン、つまり創作料理ということなのだが、イタリアンがベースのようだ。
「やっぱり、イタリアンが好きなんだね。ジリオさん」
突き刺したチーズを口に運びながらチアキはさりげなく言った。敢えておじさんの方は見ない。
「自分だってこういう料理つくるの得意なんでしょ」
返事はなかった。見ればおじさんはワインを飲み干したところだった。顔色は全く変わっていない。
「あー、チアキちゃんは、まずそこから話振ってくるわけだ」
おじさんは代わりのワインをもらうために、ガラス窓のところから見えるようにウェイターに手を挙げてみせた。やたらサマになるポーズで。
「ジャン・ペトローニについて調べたんだろー? 奴が料理人だから、おじさんも料理人だろうって疑ってるわけだ」
奴。まるで他人のことのように言う。
「違うの?」
「違うねえ」
おじさんは首をひねってみせる。「おじさんは役人で魔法使い。言ったろ? 料理はぜんぜん出来ねえな」
「じゃあ」
「じゃあ、ペトローニはどこに行ったのかって? 答えは勘のいいチアキちゃんなら分かるはずだ」
ウェイターがワインのボトルをもって現れる。チアキはおじさんのグラスにワインが補填される間に考えたが、頭の中には?マークが乱舞するだけだ。
「しょうがないな、答えは異世界だよ」
片目をつむってみせ、おじさんはワイングラスを傾けながら言う。
「おじさんがこっち来てるんだから当然だろ。ペトローニは今、俺の世界で美味いイタリア料理でも作ってるよ、きっと」
「えっ、えっ? どういうこと?」
おじさんは仕方ないと、三杯目のワインに口をつけながら教えてくれた。
この世界と、おじさんのいた異世界は、鏡のように表裏一体になっているのだという。すべての事象が何らかの関係性を持ち合い、二つの世界の間で同じような人物や生命体が一対となって存在しているのだとおじさんは言う。
「つまりそれって、寒鳥チアキみたいな人物が、ジリオさんの世界にもいるってこと?」
「そういうことだよ。俺は会ったことないけどな」
おじさんことジリオと、ジャン・ペトローニはそうした一対の存在で、おじさんがこっちの世界にやってきた代わりに、ペトローニの方が異世界に行っているのだという。
「二人で同じ魂を持ち合ってる、みたいな感じなんだよ。だから、同じ場所に同時に存在できないわけ」
リンゴマークのスマートフォンを持ち上げてみせるおじさん。
「これ買ったのも、ペトローニの金で、ということなるわけだけど。あいつも俺の世界で、俺の金使ってメシ作ってるだろうから別にいいんだよ。おあいこだ」
「はあー、なるほど」
チアキは感心してため息をついた。そういう設定はなかなか珍しい。
「ということは、今、ジリオさんの世界で、異世界イタリア食堂……ってか、異世界リストランテが展開されてるわけか。うわ、いいなそれ」
と、言いながら彼女がフォークでつついているのは、“アサリとイカのラグーにチーズを添えたリッシェマファルディーネ”と説明された代物だ。料理名なのか素材の名前なのかまったく分からないパスタ料理的なものが、星空を模した群青色の皿に絵画のようにレイアウトされている。食べるのが勿体ないぐらいだったが、食べないわけにいかない。まったりとした魚介のソースが太いフリルのついた平打ちパスタにからんでいて、実に美味だ。
「わたしそっちの方に関わりたかったな」
「なんだよそれ、今、美味いもん食ってるじゃん」
ちょっとムッとしたように言うおじさん。
「うん、すごく美味しい。けどさ、ジリオさんよりペトローニさんの方が性格良さそうだなと思って」
「まーほんとに口が悪い子なんだから」
おじさんは笑って、またワインを飲み干した。
「おじさんもペトローニも変わんないと思うよ。会ったことねえけど、だいたい分かる。──ああ、そうだ」
フォークをちょいちょいと行儀悪く動かして、彼は続ける。「ついでだから言っとくな。俺は3か月前にこの世界に来たって言ったろ? それはペトローニがこの世界で交通事故に遭って、昏睡状態に陥ったタイミングなわけだよ」
「あ、やっぱりトラックに轢かれて?」
「まあそういうことだ」
したり顔でおじさん。
「彼は奇跡的に怪我は軽傷で済んだものの、頭をひどく打ち付けた。そのまま2か月も経てば、もう目覚めることもないと医者も匙を投げるし、会社の役職も解任されるわな。再起不能の病人だからな。そんな男が、いつの間にかベッドから消えていた。そういうわけだよ」
「つまり……?」
「その男は別人格を得て、今ここで、チアキちゃんと一緒にメシ食ってるってわけさ。まあ、おじさんもうまいことやって隠れちゃいるんだが、勿論ペトローニを探している奴もいる。例えば、この国の警察とかな。だからチアキちゃんもあんまり軽くペトローニの話をしないでほしいんだ。これはお願いだ」
「なるほどねー。分かった」
素直にうなづき、ノンアルコールカクテルを呑むチアキ。
「わたしが何かできるってこともないだろうけど、とにかく警察の人に聞かれたら、そんな人知りません、だね」
「頼むよー?」
「オッケー」
ウェイターが頃合いを見払ったようにメインの肉料理の皿を運んできた。にこやかに皿をテーブルに置きながら、二人の間の会話が途切れていたからだろう、そっとおじさんに話しかけてきた。
「今日は、素敵なお嬢さんとご一緒ですね」
「うん、大学生のチアキちゃん。俺の友達。彼女じゃないよ」
ブッ、と吹き出しそうになるのをこらえるチアキ。
「それは分かりますよ、さすがのグランディアルベリ様でも、このお嬢さんにお手を出されたら犯罪ですよ。年齢が違い過ぎますからね。ダメですよ、絶対」
「犯罪ってなんだよ、俺がなんかヤバい奴みたいに聞こえるじゃん」
言いながら二人は笑っている。冗談の類なのだろう。
ん、あれ? チアキは何かウェイターがおじさんを違う名前で呼んでいたことに気づいた。今、なんつった?
聞き返す前に、ウェイターは食べ終えた皿を下げつつ去っていった。
「ジリオさん、今、あの人なんつってた?」
「犯罪だって」
「そこじゃなくて、ジリオさんのことなんて呼んでた?」
「グランディアルベリ、のこと?」
「そうそれ!」
おじさんは、うーんと唸り、“トマトソースのランプレドットとサルシッチャのオルトラーナソース掛け、季節のフルーツを添えて”と格闘していたナイフとフォークを置いた。
「あいつもさ、いろいろ助けてもらってる奴なんだけどさ。俺のことファーストネームで呼ぶのは無理だっていうからさ。まあ、あれだ、苗字みたいなもんだ。そっちで呼んでもらってる」
「じゃあつまり、ジリオさんは、ジリオ・グランディアルベリっていうの?」
「そうだよ。頭にイルを付けたりすることもあるけどな」
なんだか嫌なことを話すように言う。
「へえー、そうなんだ」
今日だけでいろいろなことが分かった。チアキはランプレドット──これは口に入れたら正体が分かった。モツ煮だ──を咀嚼しながら、おじさんの顔を見つめる。
おじさんが、無事に火の精霊を捕まえたこと。でも、治療魔法はやっぱり使えてないこと。イタリアンの著名なシェフ、ジャン・ペトローニと彼の顛末。そして、グランディアルベリという名前のこと。
おじさんとペトローニ。二人は一対の存在で、片方だけがこの世界に存在している。
辻褄は合っているじゃないか。チアキはモツ煮を飲み込みながら、そう思った。
(5話に続く)