3.バックアップはクラウドに保存しておきましょう
大量の調理家電を使って行った例の“儀式”のあとは、大変だった。
おじさんは軽くパニックになっていた。燃えたスマートフォンを手で掴んで火傷をしながら、中身、中身! と叫んだ。チアキも慌てていたが、今度は彼女がおじさんを落ち着かせる番だった。
データは何? 画像なの、テキストなの? なんのアプリに保存した?
チアキがひとつずつ尋ねると、おじさんは断片的な情報を口走った。曰く、どうやら大事なものはテキストデータで、メモ帳に保存していたらしい。
リンゴマークならクラウド保存できているはず……! チアキの推測が正しかったことが分かったのは、翌日の10時を回ったころだった。
幸い、おじさんはしっかりスマートフォン保険にも入っていたので、すぐに新しい機器を手に入れることができた。クラウドに保存されていたバックアップから大事なメモも復旧することができた。
大事なメモというのが、それ即ち、おじさんが編み上げた術式なのだった。誘い込んだ精霊をからめとり術式により確保、拘束したのだそうだ。術式といってもよく分からない文字と記号が並んだデジタルなテキストデータである。チラッと見たが、Shift_JISのテキストをUTF-8で開いた時の状態に少しだけ似ていた。いわゆる文字化けデータにしか見えない。チアキはにわかに信じがたかったが、おじさんはそれが術式なのだと主張した。
つまり儀式は成功したのだ。
スマートフォンが炎上したのは、おじさんの見立てが少し甘かったからだ。ヘロシオの鍋を通じて引き寄せたのは、炎の精霊だった。それを一度にあのスマートフォンに呼び込んでしまったがために、機器が過熱して炎上してしまったのだという。
ということで、大事な術式はクラウドへのバックアップのおかげで、なんとかなったわけなのだが、話はそれだけで終わらなかった。
時計の針は11時半ごろを指していた。チアキとおじさんは、ドラッグストアの調剤コーナーのソファに二人腰かけていた。
おじさんの右手には包帯がぐるぐるとしっかり巻かれている。嫌がる彼をチアキが無理やり病院に連れていったのだ。それぐらい、おじさんの右手の火傷はけっこうひどかった。
おじさんはものすごく不本意そうに、こぼすのだった。
「治療魔法ぐらい使えるっつったのにさあ……」
「嘘つけ」
二人の間には、何か険悪なムードが流れている。
「お金あるんだから、素直に薬もらって塗っとけばいいんだよ」
「こんな手じゃ、スマホ打てないよ」
ぶつぶつとおじさんは不平をもらす。
「タッチペンでもあとで買えばいいんだよ。どっちにしろ、スマホ使えなきゃ魔法使えないんでしょ」
「信じてくれてるじゃん、結局さ」
不満そうな顔のまま、おじさんは言う。
「なんでこれぐらい平気だって、分かってくんねーのかな」
「放っておけるわけないじゃん、何言ってんの!」
思わず声が大きくなって、チアキは我に返り、周りを見回した。調剤コーナーの中から薬剤師のおばさんが、ちらりとこちらを見ただけだった。
おじさんもこちらを見ていた。そのエメラルド色の瞳でじっと。
チアキは、彼からパッと視線をそらせた。
「午前中、授業あったのにさ。行けなかったよ。まあいいんだけどさ」
これみよがしにそんなことを言う。
「薬、一人でもらえるよね。わたしもう行くから。今から行けば午後の授業間に合うし」
彼女が立ち上がれば、おじさんもその動きを視線で追ってきた。
「チアキちゃん」
静かな声で言う。おじさんの顔からは表情が消えていて感情がよく分からなかった。というより、そもそもチアキは彼の様子をじっくり伺うことができなかった。
「今日はありがとう」
「うん」
生返事をする。
じゃあ、と軽く手を挙げて別れ、チアキはその場を後にしようと腰を浮かせた。
おじさんは大人なのだ。彼女は思う。だから、チアキが何をしてあげなくても、大丈夫なのだ。大人だから、30才も年下の女子に生意気なことを言われても、ちゃんとお礼も言える。おじさんと自分は違うのだ。
ドラッグストアの出口を見つめ、後ろは振り返らなかった。
その彼女の耳に、おじさんが名前を呼ばれているのが聞こえた。
──ペトローニさん、ジャン・ペトローニさん、いらっしゃいますか?
午後の授業が終わり、チアキは大学の中庭のベンチに腰かけ、せっせとスマートフォンに文字を打ち込んでいた。彼女はもちろん機器を使いこなしているし、素早いフリック入力もマスターしている。
検索していたのは、ジャン・ペトローニという人物についてだった。
スマートフォンの契約情報を確認したり、病院に無理やり連れていったことで、おじさんの本当の名前を知ってしまったのだ。思えば当然、この世界に実在する人物でなければ、クレジットカードを持てるはずがない。スマートフォンを契約できるはずがない。Namazonの時は入力するところを教えただけで自分は肝心なところを聞いていなかった。
ジャン・ペトローニ。
それがおじさんの本当の名前なのだ。
「──あった!」
平凡な名前だと思ったが、まさかのカタカナ入力ですぐにヒットした。
チアキでも名前を聞いたことがある、「イル・マイアリーノ」というレストランチェーンの会社情報ページだった。役員紹介の過去ページに名前があった。取締役の一人だったらしい。試しに、レストラン名と名前で画像検索したらさらにヒットした。おじさんとそっくりな男性が、大きな身体を白いコック服に包み、いい笑顔で写っている写真がいくつか出てきた。
まず間違いない。あのジリオと名乗るおじさんだった。髪型など少し雰囲気が違うような気もするが、他人というには似過ぎている。
受けた衝撃をそのままに、チアキはさらに検索を進める。このジャン・ペトローニ氏がどういう人物か知るのだ。
その「イル・マイアリーノ」のWebサイトのプロフィールで、イタリアの著名なシェフであることが分かった。ペトローニ氏は請われて来日し、アドバイザー的な立ち位置で経営に参画していたそうだ。しかし取締役はすでに降りているようだ。今年の5月のことらしい。
「今年の5月……」
つい1ヶ月前のことだ。それまで、おじさんはイタリアンレストラン経営会社の偉い人をやっていたのか。
なぜ降りたのか理由は書いていない。
こういうときはSNSがいい。名前で検索すれば何か出てくるかもしれない。チアキは青い鳥のアイコンを押した。
「──さん、寒鳥さん」
「わっ!」
そこで声を掛けられたことに気付き、チアキはなぜか必要以上に驚き、ビクッと肩を震わせてしまった。
顔を上げてみれば、トートバッグを肩から下げた眼鏡の男子学生がいる。
「あ、田中くんかあ、なに……うェア!?」
たまに授業で一緒になる友人だと思って安心したのも束の間、隣にいる人物を見て、チアキは変な声を上げてしまった。
そこにあのおじさんが居たからであった。
ニヤニヤ笑い、パッと軽く手を挙げて挨拶してくる。
「なんで、ここにいんの──!?」
「案内してもらったんだよ。この田中くんに」
おじさんには、数時間前に別れたときの様子は微塵もない。ただヘラヘラと笑ってチアキと、田中を交互に見る。
「チアキちゃんのこと聞いたら、彼が知ってるって言うからさあ、もしかして彼氏?」
「ちげーわ」
バッサリと否定するチアキ「デリカシーの無さは、見た目まんまだな」
「ヒデー言い方!」
おじさんはゲラゲラ笑う。田中はドン引きしていた。無理もない、チアキがこんな口調で話してるのを見たのが初めてなのだろう。
「あっ、違うの。田中くん、あのさ、この人はなんか職場の知り合いっていうか、うん、なんでもないんだ」
「寒鳥さんって、すごいね」
草食系男子は完全に引いた様子でコクコクとうなづいた。「いろんな知り合いの人がいるんだね」
「いや、すごくない」
「田中くんさ、名前なんてーの?」
慌てるチアキを尻目におじさんが会話に割り込んでくる。なんか若者に囲まれて喜んじゃってるヤバいおじさんそのものだった。
「自由、です。自由と書いてよりよし……と読むんすけど」
「なんだそりゃ、カッコいいな! んーでも、呼びにくいからヨッシーでいい?」
「は? いやあの」
「ジリオさん、やめなよ。田中くん引いてるよ」
「そんなことねーよなあ、な、男同士だもんなあ」
大きな腕を彼の肩に回し、ポンポンとやるおじさん。田中こと自由がうなづくと、ほら、と言いながら彼を解放する。
「いやさ、今日チアキちゃんに悪りぃことしちゃったからさ。お詫びしようと思ったわけよ、おじさんは」
と、自分のペースでどんどん話を進めるおじさん。
「メシでも食いに行かない? 今日はバイトないだろ、チアキちゃん。奢ってあげるからさ、ヨッシーも来いよ」
「来いよって、ヤンキーみたいに言わないの」
さすがに自由も一緒というのはあり得ない。
「分かった。わたしは付き合うよ。聞きたいこともあるし。田中くんごめんね、変な人案内させちゃって」
「いや、うん」
彼の返事を聞くまでもなく、ごめんごめんとチアキは彼の背中を押し、帰らせた。
彼は遠くから手を振り、おじさんには律儀におじきをして去っていった。
「いい奴っぽいじゃん、ヨッシー」
「これから彼が講義ノート見せてくれなくなったらどうすんの、ジリオさんのせいだよ!」
無邪気に言うおじさんに、チアキは鋭く抗議するのであった。
(4話に続く)