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1.電卓の使い方をマスターしましょう

「あのさ。“イセカイ”って知ってる?」

 おじさんはアイスティーをストローで音を立ててすすってから、おもむろにそんなことを言うのであった。

 夕暮れ時の、とある喫茶店の中である。チアキは言葉の意味をはかりかねて、おじさんの目を正面から見返した。

 それは西洋人特有の透き通るようなエメラルド色だった。思わず、気恥ずかしくなって彼女はおじさんの手に視線を移した。アイスティーのグラスをがっちりと握っているその手は大きく、指の付け根にはムダ毛が生えていた。ああこの人、きっと胸毛もこうなんだな。チアキはそんなことをぼんやり思った。

「おじさんの勘が告げてるんだよね、チアキちゃんは、たぶんそういうこと分かる子だって」

 おじさんは西洋人そのものにしか見えないのに、日本語はペラペラだ。“おじさん”という一人称すら使いこなしている。

「あの、ジリオさん、でしたよね」

「うん。ジル、でいいよ」

「ジリオさん」

 チアキはおじさんのフレンドリーな台詞をスルーして続ける。

「わたしが聞いたのは、ご出身の国です。さっきの自己紹介で、ジリオさんが40代後半で日本の食べ物ではおにぎりが好きということは分かりました。でもわたしが聞いたのはジリオさんが、どちらの国籍をお持ちなんですかっていうことなんです。わたしだったら、ですよ。わたしは日本人なんで日本国籍持ってるっていいます。そういうやつです。分かります? あなたは何人ですか、って聞いたの」

 おじさんは小首をかしげ、人差し指を舐めるように下唇につけた。そうした仕草をすると、チャーミングに見えなくもなかった。癖毛のある短い栗色の髪に、地中海系の掘りの深い顔。少しだけ生やしたアゴヒゲも似合っている。見た目は悪くはないのだ。

「うーん。だからイセカイの話を……、ってゆうか、チアキちゃん怒ってない?」

「怒ってないと言えばウソになりますね」

「なんで? なんで怒ってるの?」

 おじさんの言葉に、チアキは大げさに息をふーっと吐いてみせた。ショートボブにした髪を耳にひっかけ、身体をそらせて姿勢を変えれば、おじさんの背後のガラス窓に映る自分と目が合った。この喫茶店に入った時にはまだ空は明るかったのに。すっかり日が暮れている。

 二人はTシャツにジーパンというカジュアルな恰好だけは似通っていたが、人種は違うし年齢もかなり離れている。傍から見たら、どういう組み合わせなのか意味不明だろう。もういちど嘆息するチアキ。

「あのですね、わたしはご存じの通りバイトを終えたばかりで、本当だったら今ごろ自宅に戻って、ゴハン食べてる時間なんですよ。動画見ながらアハハとか笑ってね。それが、どういうわけかここで無理やり、あなたに付き合わされてるわけです」

「あっ、ゴメッ。そうか、あれかお腹すいてたの?」

「──そういうことじゃなく!」

チアキは強い言葉で相手を制して続ける。「もうスマホの使い方分かりましたよね、電卓もすぐ出せるようになったし、ブラウザの開き方分かりましたよね? 調べものできますよね? わたしもう帰ってもいいですか?」

「えー」

 おじさんは口を尖らせてみせた。外国人らしいオーバーアクションで、まるで少年のように。

「やだ。まだ俺がどこから来たかって、ちゃんと話してないし」

「イタリアかスペインあたりでしょ、どーせ」

 不機嫌極まり、だんだん態度が悪くなるチアキ。

「だからイセカイだって言ったじゃん、さっき」

「イセカイ?」

 チアキはその言葉を聞き返した。

「イセカイ」

「異世界?」

「そう、異世界。君らの言葉でそういう表現するんだろ?」

「何それ」

 チアキは、ガッと自分の隣りにある鞄の持ち手をつかんだ。

「じゃ、わたしはこれで」

「待った!」

 おじさんは、声のトーンを一段上げる。

「まだ話があるんだよー。あれだよ、今ここで帰ったら、おじさんまた明日もお店行っちゃうからね。チアキちゃんが働いてる、スマホ売り場にまた行くから。まだ使い方分かんないところもあるもん。例えば地図の使い方とかさ……」

「……」

 ぐぐぐぐ。チアキは浮かせた腰を落とし、鞄の持ち手に食い込んでいた手をほどいた。

 

 なぜ、こんなことになってしまったのか。

 ことの発端はこうだった。

 

 チアキはただの女子大生だ。横浜の大学に通い、横浜駅に隣接する家電量販店でアルバイトをしていた。担当している売り場はスマートフォンコーナーで、契約などは社員が行うので、彼女が行うことはもっぱらお客様対応だった。それもスマートフォンの使い方などを親切丁寧に教える役回りである。

 そこに今日、このジリオと名乗るおじさんがやってきたのだ。この店で買ったスマホの使い方が分からないというので、いろいろ教えてあげた。それが長引き、閉店時間になってしまったので、お帰りいただいたのだが。従業員通用口から出たところ、再度捕まってしまったのだ。どうしても教えて欲しいことがあるので、そこの喫茶店で……と、入店し、今に至る、というわけだ。


「異世界っていうのは、あれですよ」

 チアキは挑戦的な目つきになり、おじさんに言い放つ。

「エルフとか勇者がいて、ドラゴンがいて魔王みたいなのがいてっていう、ファンタジー世界のことなんだけど、それのこと?」

「そうそう、だいたい合ってる」

 機嫌良さそうな笑顔を浮かべ、うんうんとうなづくおじさん。

「君なら分かるでしょ、おじさんこっちの世界のことぜんぜん分からないんだよ。だから助けて欲しいの。チアキちゃんに。頼む、お願い」

 そんなことを言いながら、チョイチョイと変なしぐさで両手を合わせておじぎをしてみせる。人にものを頼む時はそうじゃない、と、チアキは冷たい視線を崩さない。

「ジョブは?」

「? 何?」

「ジョブは? って聞いたの。あなたの職業のこと、魔法使いとか戦士とかあるでしょ。それは何なの」

 こうなったら徹底的に聞いてやる。おじさんがボロを出すまで、だ。

「職業か……んー、役人って言えばいいのかな、君らの言葉だと、公務員?」

「何それ、そんなジョブ聞いたことないわ」

「え、この国にだって公務員はいるでしょ。それだよ、それ」

「なんか地味だな……」

 チアキは失礼なことをぼそりと言う。

「なんかこう、モンスターとかと戦えるスキルはもってないの?」

「戦えるスキルねえ」

おじさんはまた首をかしげてみせた。「まあ魔法は得意だよ、一応それ専門」

「魔法のジャンルは何? 精霊魔法、暗黒魔法? 何レベルよ?」

 彼女は自分の持っている知識から、矢継ぎ早にジャブを放った。確かにおじさんの見立てはあながち間違っていない。チアキは、異世界をテーマにしたライトノベルをそこそこ読み、アニメやコミックなどでも楽しんでいる方だ。そこそこ詳しい、と言っても過言ではないだろう。

「レベル? 魔法の能力がどれぐらいかってこと? あー、ちょっと待って」

 問われ、おじさんはスマホを取り出した。青色の機体にぴかぴかのリンゴマークが光っている。

「計算するときは、ええと……電卓、だよね。さっき教えてもらったアプリを立ち上げてっと」

独り言を言いながら、おじさんは何かの数字をスマホに打ち込んだ。「精霊魔法がレベル9? らしいよ」

 レベル9。一桁か。聞いては見たものの、それがすごいのかすごくないのか、チアキには全く分からなかった。

 だから、さらに突っ込むことにした。

「わかった。じゃあ、今ここで見せて」

「は?」

「精霊魔法使えるんでしょ」

 目を見開いたおじさんの反応を見て、チアキは心の中で勝った! と呟いた。

「魔法使ってみせてよ。そうしたら、ジリオさんの言ってること信じてもいいよ。異世界から来たって信じてあげる」

「ここで? ここでか……。この世界だと魔力が少ないし、ルールが違うからうまくいかないんだよね」

 困ったようにおじさんは俯く。その答えもだいたい予想通りだった。

 チアキは勝ち誇ったような笑みを浮かべる。

「やっぱりね。異世界にはトラック走ってないし、そもそもどうやってこっちに来たのかと思ったんだよね。異世界の勉強不足なんじゃないの? わたしを騙すんなら、もっとさ──」


「──今の見た?」


 パッと顔をあげて言うおじさん。

「へっ? なんですか?」

 おじさんは両手を広げアイスティーの入っていたグラスを指し示した。ジャーンと口で言いながら。

「見てなかったの? もう一度やるよ」

 その開いた手のまま、おじさんはグラスを凝視した。チアキもつられてグラスを見た。すると、ふるっとグラスが震え、スーッと動いた。10センチほど。

「マジで?」

 チアキは驚いて、身を乗り出す。本当に動いた、グラスが。たったの10センチぐらいだが。

 ふふん、と得意げな顔になって、おじさんは左手の指を鳴らした。パチン。グラスがまた動いた。反対側に10センチぐらい。

「すごい」

 もう一回、おじさんは指を鳴らした。グラスが動いた。10センチほど、チアキ側に寄った。それだけだった。

「……」

 チアキは相手の顔を見る。おじさんはさらに指を鳴らそうとするので、彼女は、もういいと手を挙げた。

「すごいけど、これだけ? これだけなの?」

「うん。でも魔法だよ」

おじさんは、少しだけ意地の悪そうな表情を浮かべる。「信じてくれるって言ったよね」

「言ったけど……さぁ」

 困ったように、グラスを見下ろすチアキ。

 これをどう判断しろと言うのだろう。空を飛ぶとかエネルギー弾とかではない、これだけの魔法が、一体何の役に立つというのか。正直に言えば、しょぼい。異世界感で言ったら、レベル1ぐらいじゃないだろうか。異世界っぽさレベル1。なんと返したらよいか言葉が出ず、彼女はただただ動いたグラスを見つめた。


「頼みがあるんだ、チアキちゃん」


 そこで有無を言わせぬ口調で、おじさんが言った。

 声のトーンがすっかり変わっていた。


 テーブルの上に置かれていたチアキの右手に、さりげなく両手を重ね、まっすぐにエメラルド色の瞳を向けてくる。その真摯な視線に、チアキは一瞬言葉を失った。手を握らないでくださいセクハラですよ、という抗議の言葉を飲みこんでしまうほどに。

「実は、逃げ出した精霊を探してるんだ」

 ゆっくりと低い声で、おじさんは続ける。

「それが俺の使命なんだ。こっちの世界のあちこちに散らばってしまった精霊たちを、俺の世界に連れ戻さなきゃならない。それを君に手伝って欲しいんだ」

「……そ、そんなこと急に言われたって」

「こっちの世界のためでもあるんだよ。逃げ出した精霊たちが、あちこちで悪さをする可能性だってあるんだ。だから──」

 あんまり真面目な口調で言われ、チアキはもごもごと口ごもる。

 逃げ出した精霊、使命、自分の世界に連れ戻す。何をおかしなことを言っているのだろう、異世界なんて簡単に言うが、そんなものがあるはずがない。

 チアキがそう返事をしようとした時、ぱつん、と小さな音がした。

 二人は音のした方向を見る。窓際の誰もいない席の卓上ランプが点滅し、二人が見るのを待っていたかのように、光を失った。

(2話に続く)

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