第44話 ミヅカ・ヒナの夏休み
「おっじゃまっしまーす」
「ええ、どうぞ。今お茶を淹れますわね」
ウンディーノ家の方針が固まった会議から数日後。ウンディーノ家当主であるリギスティアがそれをシルフィオ家に通達するのに付いて、ヒナもシルフィオ家を訪れていた。当主二人が話し合う間、ヒナはセレナの部屋に遊びに来たのである。
「ねーねーセレナ、お兄ぃのことなんだけどさー」
「あら、お兄様がどうかしましたの?」
二人の話題の人物はほとんどの場合、彼女の兄リオとその婚約者イレアであった。主に進展の遅さを愚痴るだけだが、恋バナに飢えるお年頃なので仕方がない。
「――でさ、イレアお姉ちゃんが来てるってのにほったらかしにして修行だよ? そりゃ真面目なのはいいけどさぁ」
「ふふ、でもイレア様はそんなお兄様だから心を許しているのではありませんの?」
「んー、そうとも言う。とはいえだよ? 自分がそれやられたらモヤっとするでしょ」
そう言われてセレナは暫し思案する。仮に自分が想いを寄せる殿方がいたとして、自分を相手にせず仕事などをしていたらと。
「うーん、仕方がないのではありませんの?」
が、よく分からない。生まれてこの方シルフィオ家の巫女として育てられた彼女にとって、婚姻とは政治的なもの。男は外交を担い、ときに前線に立って戦う。妻は家を取り仕切り、巫女として務める。セレナーデ・ラバック・シルフィオの結婚観は、年頃の少女としては極めて特殊なものであった。それ故に自由な恋愛に憧れている節があるのだが、自分には無縁だと割り切る諦観も持ち合わせていた。
「ふーん。まあいいけどさ」
「そう言うヒナはどうなんですの?」
同意を得られず膨れたヒナに思わぬカウンターが飛んだ。
「わたし? どうなのって、別に……」
「ヒナからそういった話を聞いた事はありませんの。いらっしゃらないの? そういう方は」
「えー? 別にわたしはそーゆー人いないし……なんか周りの男の子って話合わなくてね」
「お友達は多いのではないですの?」
「そうそう、友達。でもクラスメイトって程度かな? そもそもさ、昔っから同い年の男子ってあんまり好きじゃないんだよね」
社交的なヒナにしては滅多に口にすることのない、珍しいセリフ。それだけ彼女とは気安い関係なのだ。初対面から馬が合わなそうな二人であったが、お互いの立場も知って今では良い友人である。歳以上に聡明なセレナをヒナが気に入ったというのも大きいが。
「ほら、うちってお父さんいないじゃん? だから男の子の基準ってお兄ぃなんだよね。お兄ぃは昔から大人しかったからさ、クラスの男子とかと比べるとみんな子供っぽいっていうか? まあ今思えばお兄ぃってただの人見知りだったんだけど」
「うふふ、お兄様は昔から変わりませんのね」
「良くも悪くもね」
「うん、ヒナはお兄様のことが大好きですのね」
「…………へ?」
セレナの目には兄の事を語るヒナはとても嬉しそうに映っている。初めて会った頃の自分への態度からして、周囲の人に兄を取られるのが嫌なのだろう。もちろん兄とイレアの婚約は受け入れている。だから、兄が彼女を無碍に扱うのが許せないのは嫉妬の裏返しなのかもしれない。
「違いますの?」
「え、いや、ちがっ……待って、お兄ぃはお兄ぃだよ?」
「ええ。お兄様はヒナの兄ですね」
ニコニコと微笑みながら繰り返す。相手を掌の上で転がすような笑みは、母親のそれにとてもよく似ていた。
「だから、お兄ぃはただのお兄ぃなんだって! その……れ、恋愛対象? とか、じゃないもん……」
勢いよく言うも尻すぼみになる反論に、セレナはおや、と思った。いつになく慌てる友人をからかうつもりだったのだが、予想と異なる反応だ。
「ふうん……なら、そういう事にしておきましょうね」
「むー、なんなのさ」
今度は子を宥める母のような微笑みを浮かべるセレナに、ヒナはまた頬を膨らせた。未だに苦手意識のあるシルフィオ家当主の面影を感じさせる笑みは、あまり面白くない。
「まあまあ。それより今日は面白いものがありますのよ」
話を変えようというより、こちらが本題とばかりにセレナは戸棚から木箱を取り出した。美麗な装丁が施され、表面に格子状の模様の描かれた二つ折りの箱である。
「オクタール兄様がドラヴィドから仕入れて下さいましたの。どうです?」
開いた箱の中には、これまた細かい彫刻のなされた駒が入っていた。白と黒に色分けされたそれらをヒナは目を輝かせて眺める。
「へー、ボードゲーム?」
「ええ。チェスのセットですの。こういうのはヒナも得意でしょう?」
「将棋みたいなものかな? いいよ、やろうよ」
「ふふ。わたくし、かなりやり込んでますのよ」
挑戦的なセレナに対し、不敵な笑みで応えるヒナ。慣れている相手に分がある。だが、極東にいた頃から自分は将棋や囲碁のようなゲームではほとんど負けた事が無いのだ。大人や老人に交じって堂々と指す彼女は、地元ではちょっとした有名人だった。
「へえ? ただ勝負するんじゃつまらないよね。何か賭ける?」
「あらあら、良いんですの? では……お兄様と一日デートする権利、はどうです?」
俄然やる気が出てくる。勝てるだろうという戦いが、負ける訳にはいかない戦いにシフトした。なお、勝手にベットされたリオ当人は知る由もなく。
「じゃあ、いくよ!」
「受けて立ちます!」
■□■□
「くっ……次の手が……」
「ふっふ~ん、降参する?」
少女達の仁義なき戦いが始まって、既に四時間が経過していた。最初はセレナが優勢だったものの、慣れてきたヒナの怒濤の追い上げによって現在の戦績は共に四勝四敗。
そして九戦目の終盤、戦局はヒナの大きなリードのままセレナが後手に回っていた。
「むむむ……あと少しですの!」
「あー、バレちゃったか。でもまだわたしの攻めターンだよ!」
「あっ、駄目ですの! そこに置かれたらっ……!」
「お嬢様、頑張ってくださいませ!」
「凄いですヒナ様~!」
なお、この戦いの観客はシルフィオ家に仕える数人のメイドである。二人を昼食に呼ぶ度に待ったをかけられ、ついには部屋に留まって応援をしていた。帰って来ないメイドをまた別のメイドが呼びに来ては留まってしまい、次々に増える観客。ミイラ取りがミイラになるとは正にこの事である。
「よし、ここで逃げれば――」
「ハイっ、わたしの勝ちー!」
そしてセレナが迷った末に駒を置いた瞬間、ヒナが自軍の女王を盤の隅から持ち上げて王を囲んだ。
「チェックメイト!」
「ああっ!」
見落とした負け筋に崩れ落ちるセレナの表情は、敵軍に囲まれた王そのものだった。
「も、もう一回ですの! 次こそは!」
「えー、しょうがないなあ? じゃあ今度は――」
「しょうがなくありませんよ。セレナ、いい加減食事になさい。ヒナさんもですよ」
鼻息荒く駒を並べ直そうとした二人を止めたのは、いつの間にか部屋に入って来たこの屋敷の主、ティターニア・シルフィオだった。
「お、お母様」
「貴方達も、まだ仕事が終わっていないでしょう。行きなさい」
「「「か、かしこまりました!!」」」
鶴の一声で散り散りに業務に戻るメイド達。静まり返った部屋で、セレナは怒られるかと身を縮こまらせていると、
「……ヒナさん」
「は、はい!」
盤上の形勢をじっと見つめたティターニアは、普段の彼女の雰囲気に全く似つかわしくない獰猛な笑みを浮かべた。
「後で、私ともお手合わせして下さる?」
「えっ、あっ、はい」
猛禽に睨まれた小動物のように怯むヒナは、突如この場が屋敷の一室から戦場へと変わったように錯覚する。彼女と初めて会った日――兄を打ちのめした時と同じ空気だ。
「では、食事に致しましょう。私達もちょうど話が終わりましたから」
捕食者の気配を抑え、いつものおっとりとした表情に戻ったティターニアはそう言って部屋を出た。二人も彼女を追って食堂へ向かうのだった。
その日ヒナは、痺れを切らしたリギスティアが彼女を連れて帰るまでチェスに付き合わされたという。その戦績は彼女の名誉のために伏せておこう。
一つ言える事と言えば、ヒナはシルフィオ家の序列というものを鮮烈に思い知ったのだった。
■□■□
「だからあの日、機嫌悪かったのか」
「悪くないもん」
俺がその話を聞いたのは、勝手に賭けられたその「一日デート」の最中だった。そんな事しなくても二人で出かけるくらいしてやるのにな。いや、セレナと二人きりというのはちょっと困るが。
「そっかー、ヒナより強いのかあの人。戦闘狂は伊達じゃないな」
「……次は絶対勝つ」
静かに闘志を燃やすヒナ。その時は俺も観客として呼んでもらおう。
「そう言えばこの前読んだ本がさ……ヒナ?」
歩きながら話しかけようとしたがヒナは隣にいない。振り返ると、何やら雑貨店のショーケースを見入っている。しゃがみ込むヒナの視線は商品に釘付けだ。
「……帰ったら、付き合うよ」
「うん」
ヒナの見つめる先には、話に聞いたものほど豪華な装飾ではないが、重厚な造りのチェス盤が並べられていた。まずはルールを覚えるところからだな、と気付かれないように小さく溜息を吐いた。
■□■□
その後しばらく、ウンディーノ家の中でチェスがちょっとしたブームになったのだった。ついには大会まで主催したヒナと、決勝まで上り詰めた宰司の熱戦は夏のウンディーノ家の語り草である。
俺? 一回戦で自分より年下の使用人に負けたよ……




