Nuwara Eliya
とある地下鉄の駅の改札口で、由実子は腕時計と改札から出てくる人々の波とを交互に見て、イライラしていた。…約束の時間は十八時。現在、既に十八時十五分。
…せっかく久々のデートだから、時間通り遅れないように来たのに。
改札からの人の波がまた引いていく。この時間の電車にも、彼は乗っていなかったようだ。
もう…映二が十八時って言ったから、無理無理中村さんに残りの仕事お願いして出てきたのに…。こんなんだったら仕事最後までやってこれたし、中村さんにイヤミ言われずに済んだのに…。
ふぅ、と怒り混じりの短いため息をつく。もう、何度目かわからない。
改札は次の電車から降りてくる人でごった返す。由実子は咄嗟に彼の姿を探すが、どうやら反対側のホームから押し寄せる人のようだ。こっち方面から彼が来ることはない。
由実子のイライラはどんどん膨らんでいく。
口を尖らせながら映二の携帯に電話してみる。けど、さっきからずっと留守電サービスセンター。圏外にいるのか、電源を切ってあるのか、どちらにしても連絡が取れない。
遅れるなら遅れるって、連絡くらいしてくれればいいのに…。
携帯をバッグに戻す。その時ふと、足元のストッキングに目がいった。
…そういえば、今日は朝からツイてなかった。寝坊していつのも電車に乗り遅れるし、ギリギリ会社に間に合ったのはいいけど、書類のケアレスミスで上司に怒られるし、訂正しようと慌ててデスクに戻ろうとしたらゴミ箱につまずいてストッキング破れるし、社食のお昼ご飯もいつものお気に入りのメニューが売り切れだったし、中村さんにイヤミ言われるし…。ストッキングだって、ここに来る前に急いでコンビニでテキトーなのを買ったけど…こんなに時間があるってわかってたら、デパートに寄ってちょっとオシャレなストッキングを買いたかった…。
どんどんどんどん、嫌なことばかり思い出してくる。それもこれも、映二のせいだ。映二が遅れてくるから…。
と思っていたらバッグの中で携帯が振動した。
映二だ!
急いで携帯をバッグから取り出して、電話に出る。
「映二?! 今どこ? 約束十八時だったよねぇ?!」
やっぱりとげとげしい言い方になってしまった。久しぶりのデートなのに。
『ごめん由実子。仕事長引いちゃって…もうちょっとかかるんだ。』
「えぇ〜…もう既に二十分遅刻なのに…まだ遅れるの?!」
『だからごめんって。そこでずっと待ってもらうのも悪いからさ、移動してもらってもいいかな?』
「…どこに?!」
『もう一回地下鉄乗って、K駅で降りて。2番出口から出てもらって、大通り…下りの坂道を真っ直ぐ行くと、音楽教室と写真屋がある、その隣に Tea Room * LUPINUS っていう喫茶店があるから、そこでお茶飲んで待っててよ。ここからだとそっち行くほうが早いから。』
また地下鉄乗るのぉ? だったら最初からそこで待ち合わせしておけばよかったじゃない…。そう思ったけど、その言葉を飲み込む。
「…わかった。メールで今の、そのお店の場所、もう一回送っといて。とりあえずK駅に向かう。」
『悪い。なるべく最速で行くから。』
通話を終える。むー…と由実子は不機嫌顔。
…仕事とわたし、どっちが大事なの?! …なんて、馬鹿馬鹿しいセリフは吐きたくないけど。思っちゃうよね、一瞬。
…でもそこでふてくされてても仕方がないので、しぶしぶ由実子は改札へ向かう。
K駅に着いた時、映二からメールが入った。さっき言っていたお店の場所を事細かに書いてある。由実子はその通りにその道程を辿っていく。K駅で降りるのは、初めてだ。
地下鉄の中でもずっと、朝からの一連の嫌なことばかり浮かんできて、由実子はぐったりしていた。初めての目新しい町並みには目もくれず、由実子は重い足どりで不機嫌なまま歩き続ける。
しばらく歩くと、映二が指定したお店らしき店舗が見えてくる。音楽教室、写真屋さん…の隣、ログハウスっぽい木の外装の、オシャレなカフェ。入り口のドアには流木を使ったドアノブと、さりげないプレートが掛かっており、そこに Tea Room * LUPINUS と書いてある。
ここだ。
確認してから、ふと思う。
…映二はどうしてこんなオシャレなお店を知ってるんだろう。K駅なんて、映二もあまり来ないはず…。ひょっとしたら、元カノとかと来ていたんだろうか?
なんてくだらない嫉妬をしつつ、由実子は流木のドアノブを押して、店内に入る。
「いらっしゃいませー。」
シャラシャラシャラン…と耳に心地のよいウィンドベルの音と同時に、男女一人ずつの店員さんの声。カウンターにいた女性の店員さんが、由実子を見つけて微笑みかける。
「いらっしゃいませ。…お一人様?」
「あ、いえ…後からもうひとり来ます。」
カウンターの女性店員…由実子より五・六歳年上だろうか、落ち着いた物腰の飾らない美人という感じだ。彼女の笑顔で、由実子のモヤモヤした嫌な気分が少しだけ消えていく。
「あぁ、待ち合わせね。…ごめんなさい、今、テーブル席いっぱいで…。カウンターでもいいかしら? 席が空いたら移動していただく、って形で。」
にこにこ、彼女の笑顔にノーとは言えず、由実子はカウンター席に座る。
座りながら、店内を見回してみる。店内も外装と同様、木のぬくもりがある。由実子が座っているカウンター席が五席と、その右奥に二人掛けの席が三組。なるほどテーブル席は満席で、由実子と同年代の女性二人連れが二組、そして大学生風のカップルが一組。カップルの客に、もう一人の男性の店員がオーダーをとっている。
インテリアもかなりオシャレだ。明るいナチュラルウッドの椅子とテーブルも手作り感のある温かみがあり、椅子にはグリーン地にイエローの細かいストライプのクッションが敷いてある。木の枠がオシャレな窓辺と各テーブルには、清楚な白いミニバラが小さなガラスの一輪挿しにちょこんと納まっている。…女の子が喜びそうな、可愛らしいお店。実際女性客が大半を占めているのにも頷ける。
映二はほんとになんでこのお店知ってるんだろう。また、さっきと同じことを考えてしまう。…きっと、元カノと来ていたに違いない。くだらないとはわかっていながら、嫉妬が確信に変わってしまっている。
「お連れの方が来るまで、何か飲んでる?」
カウンターからさっきの女性店員が由実子に声を掛ける。おかげで嫌な思いの堂々巡りから意識がそれた。
「あ、はい。そうします。」
そういって由実子が立てかけてあるメニューを手にしようとすると、カウンターの彼女は由実子より先にメニューを取り上げて、いたずらっぽく笑う。
「オススメの紅茶があるんだけど、それにしてみない?」
「オススメ?」
きょとん、と由実子が聞き返すと、彼女は笑ったまま、頷く。
「今のあなたにピッタリな紅茶があるんだけど…どう?」
初対面の客にこんなフランクに話しかけるなんて。しかもメニューを見せずに紅茶を勧めるなんて。思わず面食らってしまって、どうしていいかわからない。
するとオーダーをとってきた男性店員がカウンターに戻ってきて、彼女にオーダーを伝えながら苦笑する。
「…多嘉子さんまた人のメニュー勝手に決めて…。困っちゃいますよねぇ?」
男性店員は由実子に笑いかける。
「はぁ…。」
「でも多嘉子さんの“オススメ”、ハズレなしですよ? 多嘉子さん、オススメってなんですか?」
男性店員が尋ねると、“多嘉子さん”と呼ばれた彼女は嬉しそうに、そして楽しそうに答える。
「ヌワラエリア。マハガストッテ。」
…紅茶のことをよく知らない由実子には、なんだか呪文のような名前。由実子が男性店員の顔を見上げると、彼は納得したような笑みを浮かべている。
「なるほど。さすがですね。」
そして彼は由実子の目を覗き込むようにして言う。
「…オススメです。」
「…じゃ、じゃあそれで…。」
二人がかりでそこまで勧められると、注文せざるを得ない。まぁいいか、オススメなんだし、と由実子は苦笑。
するとカウンターの中でティーポットに茶葉を入れはじめた“多嘉子さん”がにっこり笑う。
「やっと笑顔になった。」
「え?」
由実子はそう言われて自分の顔を両手で包む。
「お店に入ってきた時から、ずっとコワイ顔してたから。」
「そ…そう、ですか?」
急に顔面が熱くなる。図星だ。そんな由実子を見て、多嘉子はふふ、と大人っぽい笑みを口元に浮かべる。ケトルでお湯を沸かしながら、慣れた手つきで他のオーダーの茶葉を缶から出して、ティーポットに入れる。
「嫌なことがあった時って、他の嫌なことも思い出しちゃったりして、イモヅル式に嫌な気分になっちゃうのよね。」
多嘉子が言った、まさにその状態に自分が陥っていることに、改めて気づく由実子。朝から一連の嫌なことを通り過ぎて、過去の嫌なこと…映二が前も遅刻してきたこととか、些細なことで口論になったこと…今関係ないことまで、由実子を嫌な気分にさせていた。
「…そうなんですよね…。」
つぶやくと、多嘉子がまたにっこり笑って、沸騰したてのお湯をティーポットに注ぎ始める。もうひとりの店員さんも、洗い物をしはじめているし、多嘉子も無言で砂時計の砂が落ちるのを眺めている。多嘉子につられて由実子も砂時計を見つめる。
静かに、さらさらと、砂が落ちていく。
…ぼーっと無心で砂が落ちていくのを見つめていると、さっきまでのイライラした自分がすぅっと消えていくのがわかった。怒りとか、イライラとか、嫌な感情が、時間の経過と共にどこかへ行ってしまう。
砂が落ちきって、多嘉子は素早くティーポットから紅茶をカップに注ぐ。白地に青の上品な花柄…由実子の好きな、ロイヤルコペンハーゲンのカップだ。由実子は少し嬉しくなる。そして多嘉子はにっこり微笑んで、由実子の目の前にそのカップを差し出した。
「お待たせしました。ヌワラエリア、マハガストッテです。」
ほんわりと湯気をあげながら、白いカップの中で金色に輝く紅茶…どことなく、緑っぽいような気もする。湯気と共に由実子の嗅覚をくすぐる、上品で繊細な香り…すーっと、ハーブのような爽やかな香り。
カップを持ち上げて、飲んでみる。ふわぁっと口に広がる、心地よい渋み。見た目の繊細さからは想像できない、力強いイメージだ。…目が覚める。というか、目が醒める、といったほうがいいのだろうか。すっと、体の中を爽やかな風が吹き込むような感覚。
「…美味しいでしょ?」
多嘉子がいたずらっぽく、チャーミングに笑いかける。由実子はうんうん、と無条件に頷く。
「なんか…気分がスッとする…目が醒める、っていうか。」
そう言うと、多嘉子は満足げに頷く。
「うん、目が醒める…視点を変える、紅茶。気分転換、って言うのかな?」
気分、転換…。
「嫌なことにハマっている時って、さっきも言ったけど、嫌なことばっかり思い出すじゃない? そういう時は、気分転換。視点を変えるの。“嫌なこと”から目を醒まして、気持ちいい場所に、戻ってくる。マイナスのあるところには、必ずプラスだってあるから…そっちの方に視点を合わせれば、いい気分になれる。」
マイナスのあるところには、必ずプラスがある…?
由実子は考えてみる。ヌワラエリアを飲みながら。…不思議と、一口、また一口飲むたびに、頭がスッキリしてくる。
…映二が十八時に待ち合わせだって言ったから、中村さんに無理言って仕事お願いして出てきた…。中村さん、イヤミは言ったけど、ちゃんと仕事、引き受けてくれた。だから十八時に間に合うように駅に着けた。
朝だって、寝坊して電車に乗り遅れたけど、ギリギリ会社には間に合った。
それから映二。…四月に異動があって、なれない部署での仕事、忙しいっていうのはよく知ってる。忙しいのに、ちゃんと今日は会ってくれる。仕事が長引いてるならキャンセルだってアリなのに…待ってろって、言ってくれている。
そしておかげで初めてK駅で降りて、こんなお店があるのを知って、こんな美味しい紅茶を飲んでいる…。
「だんだんいい気分になってきた?」
由実子の表情を見て、多嘉子が笑う。由実子は頷いて、微笑み返す。
「彼氏に…待ち合わせ、遅刻されて…ここで待ってろって言われて…イライラしてたんです。でも、彼に遅刻されなかったら、わたしはこのお店に来なかった。このお店には出会えなかった。この紅茶にも…。ありがとうございます。」
「お礼ならその彼に言うのね。素敵な彼じゃない。このお店を選んでくれるなんて。…あら?」
多嘉子がそう言いながら入り口のドアに目をやった。つられて由実子も振り返る。と、シャランシャラン…とウィンドベルの音を立てながら、映二が入ってくるところだった。
「映二。」
自然と由実子は嬉しそうな表情になっていた。さっきまで映二との嫌なことなんか思い出したりしていたのに。
由実子が映二の名を呼ぶのと、二人の店員が顔を見合わせて笑うのと、ほぼ同時だった。由実子はびっくりして、映二とお店の二人の顔をかわるがわる見る。…え? 知り合い…なの?
「なぁんだ、“彼”って、映二くんのことだったんだぁ。“素敵な彼”とか言って損した〜。」
「お久しぶりです多嘉子さん。…と、木下。まだここでバイトしてんの?」
親しげに話をしながら、由実子の隣に座る映二。由実子がきょとんとして映二を見ていると、映二が笑う。
「…あぁ、学生の時、ここでバイトしてたんだ。木下は大学の同級生。」
言われて由実子は思わず大笑い。元カノと来てたに違いない、だなんて。自分のマイナス妄想にあきれてしまう。もう、ここは笑うしかない。…ほんとに…嫌な気分の時って、馬鹿なことばっかり勝手に考えて、自分で自分をさらに嫌な気分にしてるんだ…。
「? 何が可笑しいの?」
不思議そうに尋ねる映二に、由実子は優しい笑顔で言った。
「なんでもないよ。お仕事、お疲れ様。」
嫌な気分の自分は、もう、どこにもいなかった。かわりに、そこには暖かい雰囲気のお店と、笑顔あふれる店員さんたち、お気に入りのカップに美味しい紅茶と、大好きな彼。そして、笑顔で晴れやかな気分の自分…幸せな空間が、由実子の前に広がっていた。
由実子はまたヌワラエリアを一口飲んで、心の中で、思う。
目を醒ましてくれて、ありがとう。