わざと
男ーー馬場の後を急いで追った紾は、壁に隠れていた男に気づかず、腹に重い一撃を食らってしまう
蔡茌 紾
「ぐはっ、」
まともに受けはしたもののすぐさま身を引き距離をとって、相手の顔を確認する
馬場
「はぁ、はぁ」
暗闇の中でも分かる程に、馬場の動向は開ききり汗がかなり出ていた
馬場
「かお、顔を見るな」
目が合った瞬間に馬場は、自分の両腕で顔を覆った。馬場が慌てたのも無理はない。彼の顔…顎から首あたりに切り傷があった。自分の特徴的な傷跡に身元がわかる事を恐れたのだ
暗がりで距離もある事から、紾が傷跡を確認する事はなかったが、『顔を見るな』と言われてしまえば誰でも注目してしまう
蔡茌 紾
「顔…何かあるのか?」
馬場
「ぅ、うぅ、あああああああ!!」
今の馬場は精神的に追い込まれていた。彼自身気づいている、アリババという男は失敗した自分を生かすような奴ではないと…目の前に見える死の恐怖が馬場を支配していた
馬場
「おれは、おれは、死なない!死にたくない!!」
叫び声をあげた馬場は、紾から逃げるように中へと再び走り出した
蔡茌 紾
「は?え?」
襲われたかと思えば、次は逃げ出す馬場に一瞬固まってしまう。正しくは馬場の持つ気迫に気圧された
蔡茌 紾
「反撃もしてないのに…どういう意味だ」
馬場の声音や行動は恐怖に駆られていた。でもその対象は自分ではない…と紾は思った
蔡茌 紾
「黎ヰの言う通りなのかもしれない。あの男はもう一人の共犯者に怯えている」
黎ヰはそこを唯一付け入る隙だと見抜いていた
蔡茌 紾
「どうしろって言うんだ」
が、とてもじゃないが話の通じそうにない相手を、言葉巧みにどうこう出来るビジョンが全く見えない
となると紾は結局、今の自分に出来る事をするしかなかった
蔡茌 紾
「この先は確か…床が腐ってる場所、危ないが気をつけて追うしかないな」
数時間前に自分がハマってしまった床を思い出しながら、今度は慎重に進もうと紾は馬場を追った
ーーー ーーー ーーー ーーー
その頃、中庭へと回り込んだ黎ヰは何となく背後に人の視線を感じていた
黎ヰ
(やっぱし、そうくるよな…俺でもそうするしな)
姿を犯人に見せた時点で状況的にはかなり危ういな、と思う黎ヰは、どこか他人事のようだった
元々、犯人思考を持つ黎ヰからすればいま付けられている事自体当たり前で、簡単に予想できてしまう
特に、まだ名を知らないが尾行しているアリババと黎ヰの思考は多少似通った部分があった
それは、一般人…紾のような人間にはないもの…犯罪的思考だ
黎ヰ
(とりあえず様子見程度だろうなぁ。劇薬を持っているとすれば下僕の方じゃない、尾行してる…サイコパスキラー)
勝手に尾行相手のあだ名を付けながらも、黎ヰは落ち着いて行動していた
黎ヰ
(紾ちゃんの様子も気になるが、何もしないままじゃ俺が動いた意味がない)
サイコパスキラーは状況によって白にも黒にも変わる。接触せず尾行しているのがいい例だ
因みに、この場合の白黒は劇薬を使う相手になる訳で黎ヰからすれば、馬場にも紾にも使わせたくないというのが本心だった
黎ヰ
(なら、やる事は一つか…)
何かを決心した黎ヰは、中庭へ到着すると無造作に育ってしまった大木の前で立ち止まった
黎ヰ
「事件が起こる前から、この廃校には幽霊の噂がたってた。」
何の前触れもなく、黎ヰは用務員室で待機していた時に調べ得た情報を、尾行されているアリババに聞こえるように喋り出した
黎ヰ
「ある情報屋から仕入れた話じゃ、ここが廃校になったのは五年前。理事長の息子が金を持ち逃げたせいで経営困難になり、学校は直ぐに潰れた。因みにこの土地を中心に何十年前まで遡ってみたが、処刑場や戦場、疫病やら良くある理不尽な死人の記録なんてものはなかったなぁ」
紾は知らなかったが、黎ヰは本当に幽霊の仕業かどうかも最初から調査の対象にしていた
廃校舎内を散策して、第一被害者の遺体場所を確認してからはその線も薄くはなったが、念のために知り合いの情報屋に調べて貰っていたのだ
黎ヰ
「まぁ、田舎っちゃ田舎だし元々は唯の野原…あーもっと前は川だったけな?とりあえず、そんな場所に幽霊どうこうの話は不自然過ぎる。オカルトに関しちゃ、昔片っ端から興味を持ったからなぁ…何もない場所に幽霊が沸くわけはない」
突拍子もない黎ヰの話に、壁に隠れて聞いていたアリババの表情はだんだんと崩れていく
アリババ
(こいつ、なんなんだ)
黎ヰ
「なのに、一年前…丁度この廃校舎の権利書を持っていた人間が殺人容疑で捕まり精神錯乱の末、今も警察病院にて収容中。なんて面白い事が分かってなぁ」
ガサッ
アリババ
(っち)
静かな空間に動揺したアリババの足が地面の砂を擦る音が聞こえた。黎ヰは更にこっちのペースに引きずり込もうとたくらむ
黎ヰ
「この情報は流石に把握してなかったのか、まっ安心しな。精神状態はかなり悪く認知の症状も出てるからなぁ、何があったのかを聞く気はない」
それより、と話を続ける
黎ヰ
「興味が唆られるのはその後、直ぐに廃校舎にて幽霊の噂がたった。頭部が浮遊してるだの、赤い服の少女が血だらけで泣いていたとか、誰もいないのにバイクの音がしたとかな…ククククッ、雑すぎだねぇ。知識もないのにソレっぽく見せようとするから綻びが出る。まっ、実際に信じた人間が居たから今日まで順調だったんだろうが、相手が悪かったなぁ」
後ろへ振り向くと、そこには今まで姿を見せないようにしていたアリババが立っていた
フードを深く被り顔は確認できないが、彼が姿を見せただけでも黎ヰの中じゃ上出来の結果で、実際に姿を現したという事は、今の話に心当たりがある。と言っているも同然だった
黎ヰ
「クッククク、一年前から小細工をして何をしたかったんだろうねぇ?気になるねぇ〜」
挑発的に笑う黎ヰに、アリババは必死に自分を抑えていた
アリババ
(あぁヤバイ…こいつめっちゃ面白いじゃん。死ぬ時の顔が見たい。でも駄目駄目、抑えなきゃ)
今直ぐにでも劇薬を使いたい衝動を抑えながら、アリババは黎ヰから目を離さず数歩、後ずさっていく
今ここで劇薬を使ってしまっては、中に居る二人の後始末が面倒になってしまう。
アリババ
(俺、戦闘要員じゃないんだよね。だから馬場を囮にして様子を見たかったのにさー、どうしよっかな)
黎ヰ
「無言っつーよりは、考えてるなぁ。お陰でそれが答えになった」
アリババ
「は?」
よく分からない事を言われたアリババが思わず声を洩らす。
黎ヰ
「お前も含めて、何人かの組織的犯罪集団って認知で合ってるよなぁ」
瞬間
アリババは地面を勢いよく蹴ると、隠し持っていたナイフを握り黎ヰの心臓目掛けて振るった
黎ヰ
「…っつ、」
切っ先が心臓に刺さる前に腕を前に出して庇う
ズサッ
お互いに腕に刺さったのを確認すると、黎ヰはナイフが刺さっていない方の腕で相手の首元に手を伸ばし、思いっきり締め付けた
アリババ
「はっ、ぐっ」
抵抗したアリババは黎ヰから距離を取り、呼吸を整える
アリババ
「はぁ、はぁ…」
ビリッと何かの音が聞こえ、すぐさま視線を黎ヰへと戻したが……どこにも居なかった
アリババ
「…うわっ、まじで」
血の跡を探してみても、探した場所にしか血溜まりはない
この一瞬で逃げるとは考えにくい、アリババは慎重に辺りを見回した
アリババ
(この木、邪魔だな)
伸びきった大木のせいで奥まで進めない。が、鋭い枝に覆われたこの先に黎ヰが飛び込んだとも考えられない
アリババ
「だとすれば、うまく回り込んだって訳か」
物音を立てて視線を誘導し、視覚に潜り込んで廃校舎内に逃げた。そう判断したアリババは忌々しく舌打ちをする
組織の存在がバレるのはまずいと判断し、襲い掛かったものの仕留め損ねてしまった
アリババ
「こうなったら、仕方ない。さっきの奴を上手く使うしかないよね」
負傷してる人間を追い込むのは簡単だ。捕まえて劇薬を打ち、馬場にもう一人の警官を連れてきて貰って…
アリババ
「あとは、解毒剤をチラつかせて全員殺せばいいか」
アリババは懐から、水と劇薬である粉薬の袋、注射器二本を取り出した。空の注射器の中に劇薬と水をそれぞれ半分ずつ入れ、それをまた懐へ戻した
アリババ
「どうせなら三本あれば、三人殺れたけど…まっいっか」
不審な言葉を残してアリババは、黎ヰを追って廃校舎内へと入って行った
黎ヰ
「まだまだ若いねぇ。思慮が浅いって言うよりかは頭が固いなぁ〜左右+上下も確認するのが常識」
完全にアリババが居なくなったことを確認した黎ヰは木の上で軽口を叩きながら、破った袖を雑に巻いた腕を見下ろした
ナイフの出血を抑える為に布を被せる必要があったとはいえ、もし刺し傷がもっと深ければ、血痕を完全に消す事は出来なかっただろう
黎ヰ
「にしても、痛い」
まだ刺さったままのナイフを、自分の指紋が付かないようハンカチで手を覆い、思いっきり引き抜いた
黎ヰ
「でもまぁ…わざとにしちゃ上出来だよなぁ」
相手がナイフを振りかざした時、避ける事よりも最小限の被害で受けた方が良いと判断し、何の躊躇いもなく腕を犠牲にしたのだ
あそこで反撃するよりも、負傷した事で相手より有利だと思わせた方が行動を把握しやすい
人を簡単に利用する奴は隙さえ見せれば、必ずそこに付け入ろうとする
黎ヰ
「ついでに指紋もゲット出来たし、追いかけるか」
相手の人物特定になり得るナイフをハンカチで包みズボンのポケットへ入れる
黎ヰ
(ここで劇薬の準備をしていたのなら、確実に口封じをする。ターゲットの俺が見つからないとなれば、紾ちゃんに変更するだろうしなぁ)
二対一の構図が簡単にチラつき、黎ヰは結果的に紾を追い込んでいると気づく
黎ヰ
「あー、多少は持ち堪えてくれるって都合よく信じたいけどなぁ」
すでに先制攻撃を受けているとも知らない黎ヰは、木から飛び降りるとまだ痛む傷に構わず、ハサミを両手で握った