距離
ようやく報告書の作業がひと段落つき、この一週間事務作業ばかりで凝りに凝った肩を鳴らす
コキッ コキッ
どちらかというと体育会系の紾は、自分が事務作業には全く向いていない事を知った。それもその筈でパソコンの知識も警察学校で習ったきりだし、プライベートでも使う機会があまりない…
蔡茌 紾
(これから毎日この作業が続くと思うと、憂鬱だな)
しかもどれも雑な予算問題に関して、だ。気分的にも億劫になっていくのは仕方ない
隣の席で昼食をとっていた黎ヰは、口元をあげ紾に投げかけた
黎ヰ
「で?どうだった」
蔡茌 紾
「過去の雑な予算も細かくまとめてみたが……けっこう崖っぷちじゃないか」
むしろ今までよく引っかからなかったな、と思う
蔡茌 紾
「備品の損害もそうだが、それ以上に毎月の万単位2桁の研究費をなんとかしたいな…」
黎ヰ
「それは無理な相談だ。異常調査部には解剖のプロがいるからなぁ〜そいつの飢えを凌ぐ予算費ってのは、どうやっても削れねぇよ」
解剖のプロとは、奥の専用の解剖部屋に引きこもっている人物の事だ。名前は、芥 昱津
"死体を見ると高笑いをして喜ぶ"で有名な彼は、ほぼ司法解剖部を出て行く形で異常調査部に来たと噂されている。自他共に認める死体好きで、付けられたあだ名は"死体マニア"
あまりに不謹慎極まりない彼の態度は、署内でもかなり問題視されている。未だに解剖シーンは見た事はないが、奥の解剖部屋で不吉な金属音と薄ら笑いが聞こえてくるのは、気のせいではない
蔡茌 紾
「…まぁ、解剖研究で留まるのなら…安い物なのか?」
飢えが続くと、所構わず死体の解剖をやり出しそうな気がして紾は背筋が凍った
蔡茌 紾
(かと言ってこのままにしとけば上からお小言を喰らう羽目になりそうだな)
黎ヰ
「クックック、経費どうこうは置いといて紾ちゃんもお昼にしな」
曳汐 煇羽
「まさに腹をこしらえる。ですね」
黎ヰ
「または、腹が減っては戦はできぬ」
なんて、呑気な話をしている二人に色々考えるのが馬鹿らしくなり紾は朝用意してきたお弁当箱を出した
曳汐 煇羽
「そういえば毎日お弁当ですね。」
そう言って興味深そうにお弁当箱を見る彼女の昼食は、栄養ゼリーだけだった
それを見た紾は、一瞬突っ込もうと思ったが過去それで無神経に触れ女子を怒らせた事を思い出し留める
チラリと黎ヰの方も見たが小さなまな板の上に、こんがり焼け美味しそうなタレがかかったイカを、愛用のハサミで食べている姿が映った
因みに彼の食事に関しては一週間まったく同じ。突っ込むタイミングを失っている気がした紾は、なにも言わない事にした
蔡茌 紾
「早起きは得意だからな。訓練士の時よりも出勤時間が遅い分暇で…時間つぶしみたいなもんだよ」
六年間、明け方起きを続けていた体は早々に改善されるものではなく、そうなれば自然と出勤時間のタイムラグは発生してしまう
曳汐 煇羽
「なるほど、確かにここって基本自由出勤ですもんね」
蔡茌 紾
「黎ヰ、教育方針に問題があるんじゃないか」
事件などでやむ終えない場合以外は、自由出勤である筈がないし、あって良い訳がない。基本の出勤時間は8時30分だ
黎ヰ
「認識の相違ってやつだ…あぁ言ってる曳汐も非常時以外はキッチリ出勤してくるからなぁ」
イカをハサミで串刺しにし頬張りながら言う黎ヰ
黎ヰ
「紾ちゃんも今はまだ実感ないだろうけど、一応ここは刑事課だぜ?自由出勤ぐらいの身構えでいいんだよ」
もう一つ持っていたハサミでイカを切ると、また別のハサミで串刺しに口へと運ぶ。食べながらそんな事を言われても正直ピンとくる訳もなく、紾は自分の頭の中で黎ヰという人物像を膨らませる
一見彼の発言だけ取れば、いい加減で適当な奴だと思ってしまうが…それだけではない気もした
事件に関しての報告書に手抜きが無かったように、何か彼の中で"ぞんざいに扱うもの"と"ぞんざいに扱わないもの"とで線引きがされているのだろう
自己中心的ルールかもしれないが、異常性を含める彼の攻略法に繋がるかもしれない
『この部署で監視係としてやっていくには、彼奴らを上手く扱え』友人が移動前にくれたアドバイスを思い出す
蔡茌 紾
(対象を見て観察するって事に関しては、犬も人間も変わらないか)
黎ヰ
「異常なのは認めるが、訓練士としての経験で俺たちを上手く扱うってのは難しいと思うけどなぁ〜、な?紾ちゃん」
紾の心を見透かした黎ヰは、低い声音で言うといつの間に拭いたのか綺麗に磨かれたハサミを向けた
蔡茌 紾
「冗談でも人にハサミを向けるな。一応凶器になるんだぞ」
一瞬驚くも、直ぐに黎ヰの危ない行動を諫める
だが、反省するどころか挑発的に笑った黎ヰは、ハサミを必要以上に回し、机の上に残っていたイカを突き刺した
ドン
蔡茌 紾
「おい!黎ヰ」
どういうつもりなのかと、問い正そうとした時…曳汐の淡々とした声が横槍を入れた
曳汐 煇羽
「黎ヰさん。怒っても体内エネルギー消費の無駄遣いだと思いますよ。」
黎ヰ
「クッ、アハハハハハハハ!!ククククク!怒ってるって?まさか!アハハハハハハハ!!」
今度は何が面白いのか、いきなり高笑いをしだした
紾は、なんだか2人に馬鹿にされているような気もしたが、自分の態度がこの場の空気を悪くさせたのかもしれないと思い、とりあえず誤解を解く事にした
蔡茌 紾
「勘違いしてるようだが、俺は唯お前達の事を知りたいだけだ」
素直な気持ちを口にする
曳汐 煇羽
「すみませんが私は遠慮しときます。副長さんがどうこうじゃなくて、詮索されるの嫌いなので」
相変わらず、喜怒哀楽が読めないまま丁寧に断られてしまう。ハッキリと言われてしまうと少し悲しい気持ちになってしまう
曳汐 煇羽
「あ、でも命令なら話します」
蔡茌 紾
「あのな、無理矢理交友を深めようなんて思ってない。監視係なんて役名で警戒されるのも分かるが、仕事仲間としてわかり合いたいんだ」
曳汐 煇羽
「そうですか」
ニッコリ笑いながら曳汐は席を立ち部屋を出た。確かに笑ってはいたが、その表情と声色だけで感情を読み取る事は出来なかった
黎ヰ
「いいねぇ面白い最高!!」
何故か上機嫌の黎ヰに、何か言う元気もなく紾はまだ手を付けていなかったお弁当を食べる事にした
蔡茌 紾
(当たり前だけど、まだ距離は遠いな)
一週間じゃお互いの事を分からないのも当然だ。ここで焦って無理矢理距離を縮めるよりも、ゆっくり分かり合っていければいい…
そんな事を思いながら紾は昼食を取った。その間、黎ヰが絡んでくる事はなかった
ーーー ーーー ーーー ーーー
昼休みもひと段落した頃、異常調査部のドアが勢いよく開く
皐月 周
「失礼します」
珍しいどころか初めての来客訪問に紾は、一瞬頭が真っ白になった。驚いて呆然と立ち尽くす紾に構わず、男は部屋に入るなりスタスタと歩いてくる
皐月 周
「貴方は!!…お初にお目にかかります。私は少年課の皐月周と申します」
顔を上げた紾を見るなり、興奮したように皐月周は自己紹介をする。ピシッと敬礼をし、着崩さないスーツ姿は警察官と言われても誰も疑わないだろう
半ば彼の勢いに気圧されながらも、失礼のないよう慌てて席を立つ
蔡茌 紾
「ご丁寧にありがとうございます。異常調査部監視係、蔡茌紾です」
紾の態度が気に入ったのか、皐月は強張らせていた顔を緩めた
綺麗な顔立ちに思わず見とれてしまうも紾は、部屋の隅に気持ち程度に設けられている来客用スペースへと案内する
皐月 周
「時間を頂いてしまいすみません。お一人ですか?」
いまここには、紾以外の人間は居ないーー正確には奥にある解剖部屋の中の更に奥の部屋に一人居るが、まず出てこないだろう
曳汐は昼の話の後から戻って来ず、黎ヰも『用事がある』とだけ伝えると、鼻歌を歌いながら出て行ってしまったっきりだ
蔡茌 紾
「奥に1人居ますが…仕事に集中しているので出てこないかと、誰かに用事なら伝言をーー」
皐月 周
「いえ!いいんです!!」
蔡茌 紾
「?!」
先程までとは違い、皐月は声を荒げた。
自分の態度に、不思議そうな目を向ける紾を見てすぐに謝ると、今度は恥ずかしそうに目線をそらす
皐月 周
「私は蔡茌さんと少しお話がしたくて…ずっと憧れてるんです」
蔡茌 紾
「俺を?皐月さんとは、初めて会う気がするんですが…」
自己紹介の時は確かにお互い"初めまして"だったが、皐月の言動は既に紾を知っている様だった
皐月 周
「顔を合わせるのは今日が初めてです。ですが蔡茌さんの活躍は少年課ではとても有名なんです!もちろんその他の課でも有名人ですが、この皐月周は誰よりも尊敬してます!」
紾を見るその目は、曇りがない輝いたものだった。少し居心地の悪さを感じつつも、大人しく彼の話を聞く
皐月 周
「蔡茌さんの担当した訓練犬は全て賞状を授与し、優秀有能に鍛え上げた実績は素晴らしい限りです!なのに本人は飾らず威張らず…まさに仕事人そのもの!」
口から弾丸のように語り継がれていく武勇伝、個人的な意見もあるが偽りはない
21歳から訓練士として働き、その実績は皐月が言った通り周囲から認められ、紾は何度も表彰された
四年後には、異例の速さで訓練士最高ランクの"一等訓練士長"の地位を獲得。その後も、躾が難しい種類の犬すら手懐け彼の元へ何件も依頼が殺到した
皐月 周
「ここへ移動したと知るまでは、ついに独り立ちしたんじゃって噂が広まっていたんですよ」
このまま警察官の訓練士としてやっていくよりも、自営業として開業した方が給料面でも確実に成功する。と勧められた事もあった
あまり欲がない紾は、その時の現状には特に不満もなかった為、結局開業の話は流したのだった
蔡茌 紾
「まさか、俺なんかよりももっと訓練士として立派な奴は居ました。表彰されたのもたまたまで…何より犬達が頑張ってくれただけです」
初対面の人間に褒め称えられた上に、尊敬の眼差しを向けられてしまい紾はだんだんとむず痒さを感じる
ましてや、過去の出来事だ。異常調査部に移動した時点で、紾の中ではもう蒸し返す話しでもない
皐月 周
「すみません。つい勢いが…失礼致しました」
今までの熱が冷めたのか、我に帰った皐月は自己紹介をした時のように冷静に戻った
皐月 周
「本題に入る前にひとつだけお願いがあります。どうか気楽に話して下さい」
懇願するその瞳は、捨てられた子犬のようだった。
元々、童顔寄りの皐月にそんな瞳を向けられてしまうと、断るのも心苦しくなる
どうして自分にここまで熱く憧れているのか、まったく理解できないまま紾は、とりあえず首を縦に降るしか出来なかった
蔡茌 紾
「まぁ、それで良いなら」
皐月 周
「ありがとうございます!!」
今度はキラキラした眼差しを向けられ、思わず苦笑いを返してしまう
蔡茌 紾
「それで、此処へはまさか…ただ単に俺に会いにって訳じゃないよな?」
話題をかえる紾に、何か思い出したのか一瞬目を見開き、今までとは違う…真面目な顔つきになると、ピシッと姿勢を正した
皐月 周
「大変申し訳ありません。本題を疎かにしてしまいました。本日此方へ尋ねたのは異常調査部へ事件の依頼をお願いしたく参りました」
蔡茌 紾
「事件の依頼?少年課で一体何が…」
異常調査部の担当する事件のほとんどは、黎ヰが自ら見つけてくる…らしい
事件の報告書にも目を通したが、他部署が関わった形跡は一切なく、本来なら科捜研を通す場面も全て黎ヰ達がこなしていた
つまり…警察組織に属していながら完全に独立してしまっている状態だ
何となく紾の言いたいことが分かり、皐月は順を追って話し出す
皐月 周
「本来なら一課…所轄に回る予定だったのですが、どうにも信頼出来なくて…悩んだ末に、蔡茌さんになら任せられると思い依頼を持ってきました」
蔡茌 紾
「俺に?刑事課としての勤務歴はまったくないんだが…」
訓練士の前は田舎の交番勤務だった為、事件とはほぼ無縁の生活を送ってきた紾にとっては、警察官勤務自体が久々すぎて、事件を解決する自信がないのは当たり前だった
皐月 周
「勿論、存じてます」
間髪入れない返答は、決してうわべだけではないのだろう。訓練士の前の紾の勤務歴すら知っている…そう思わせるには充分だった
蔡茌 紾
(それはそれで怖いな…)
皐月 周
「今までこの部署は、近寄りがたい人達ばかりで誰も関わろうとしませんでした。今でもそのイメージは払拭できてませんが…でも今回、あなたの転勤の話を聞いて、蔡茌さんが居るのなら安心できると思ったんです」
黎ヰ達が異色を放っているのは有名だ。だから、周りの部署は関わらないよう避けてきたのだろう…だが、そこに紾が来たことにより多少なりとも、皐月のような人間が関わりにきた
それは良いのか悪いのかは不明だが、孤立している異常調査部からすれば大きな変化なのは間違いなかった
皐月 周
「お願いします。1人の少年の人生が掛かっているんです!どうかご助力を!」
勢いよく頭を下げられてしまうと断れる筈もなく、紾は本格的に依頼内容を聞くのだった
〜蔡茌 紾プロフィール〜
年齢/27歳 誕生日/8月2日 血液型/A型
好きな食べ物/チーズ類全般とおつまみ 嫌いな食べ物/なし
好きな飲み物/お酒全般 お気に入りスポット/飲み屋と植物園
経歴/田舎交番勤務から鑑識課の"直轄警察犬訓練士"として6年間在籍。27歳になった現在、何故か異常調査部・副部長兼監視係となる。
性格/動物の気持ちを読み解くのを得意とするが、その反面人間の気持ち(主に女性)にはやや鈍感。