悪運の強さ
アリババが注射器を押すのとその音が聞こえたのは同時だった
ピーーピーー
耳鳴りにも似たその高音は、紾とアリババの耳に嫌な音として届き頭を響かせた
アリババ
「っ、っつあっ、っ、く、みみ…が」
あまりの頭の痛さにアリババは、注射器を離し耳を押さえ倒れ込む
蔡茌 紾
「っが、いた、いたい、」
唯一、この場で二人が苦しんでいる理由が分からない馬場は不思議そうにその光景を見ていた
馬場
「ひぇ、な何が起こってやがる」
黎ヰ
「紾ちゃん、歯噛みしめときな!!」
音が鳴り止んだ直ぐ後に、黎ヰに蹴り飛ばされたアリババは吹っ飛び、角に居た馬場の元へと転がった
アリババ
「ぐっ、」
馬場
「ひや!」
誰かが何かを考える前に、間髪入れず絨毯の端を掴み力いっぱいに引っ張りあげ、紾はコロコロと回り…身体が解放された頃には酷い頭痛と目眩に襲われる
蔡茌 紾
「くろ、い、なのか?無事で…よか、た」
フラフラする身体を何とか無理矢理起こし、立ち上がっる紾に黎ヰは目を細めた
黎ヰ
「お互いの安否が確認出来た所で、すぐさま退散」
二人の犯人を残して、黎ヰに導かれるまま紾も図書室を出た
アリババ
「さっさと追え」
アリババに言われるまま馬場も急いで後を追おうとして、気づいた…足元にアリババの持っていたもう一つの注射器が落ちている事に。素早くそれを拾うと、馬場は出入り口へと走る
フラフラしている紾に追いつくのは、足を負傷している馬場でも簡単だった
馬場
「生きて帰すか!」
注射器を握りしめながら叫ぶ馬場に対して、追い詰められている筈の黎ヰは挑発的に笑った
黎ヰ
「さっきまで怯えてた奴がいきなり強気になる…武器を手にすれば気も大きくなって当然だよなぁ」
紾より一歩前へ出ると、馬場の手に握られている注射器を見た
蔡茌 紾
(なにをする気なんだ?)
黎ヰ
「で?人を殺せるその針は一体誰に使うつもりだぁ?言っとくが俺たちは立場上、犯罪者とは言えお前は殺せないぜ」
黎ヰが何を言おうとしているのか…紾にも馬場にも理解出来た
『状況的にはこっちの方が圧倒的に不利と言っても比喩じゃない。だからこそ付け入る隙を見つける必要がある』ふと、黎ヰの言葉が頭を横切った
蔡茌 紾
「黎ヰ、駄目だ」
付け入る隙と言うのは恐らく、馬場がアリババに反旗を翻す事なのだと気付いた紾は、必死にとめる
あの劇薬の入った注射器を使わせてはいけない
蔡茌 紾
「罪のない子を殺害したとしても、殺し合わせるのは駄目だ。お前まで犯罪者になるつもりか」
直接でなくともその状況を作り、仕向ければそれは犯罪だ。そんな事は許される訳がない、あってはいけない
黎ヰ
「黙ってな」
今までにない冷やかな声音に、突き放された気がした
蔡茌 紾
「黎ヰ!!…っぐ、頭が」
叫ぶとまだ頭が痛み、紾は顔を歪ませた。気にする素振りすら見せない黎ヰは、今度は言い聞かせるように戸惑いを見せる馬場へと語りかける
黎ヰ
「お前を縛るモノは何だろうなぁ、彼奴は本当にお前を生かすのか?そんな事ある訳ない…だろ?」
洗脳にも近い黎ヰの言葉は確実に、馬場の心に響いていた
アリババは…失敗した自分を殺す。逆らえない相手だと思っていたが、今武器はここにある
黎ヰ
「天はお前の味方だ」
馬場
「は、ははは、そうだ、アリババから逃げるのは今しかないんだ」
黎ヰ
「アリババねぇ」
新たな情報に反応を示すも、馬場は黎ヰ達に背を向けた
丁度、頭を押さえながら出てきたアリババと目が合う。今までの会話が聞こえて居たのかアリババの目は残酷な人殺しの瞳をしていた
アリババ
「ふーん、それが答え」
馬場
「そ、そうだ!もうお前らの言う事なんて聞かない!!お前を殺して自由になる!!」
アリババ
「へぇ、やってみれば」
馬場
「へ?」
鋭いナイフが馬場の顔目掛けて飛んでくる
馬場
(死ぬ)
そう悟った馬場の足元に、予期せぬ痛みがきたと同時に、そのまま横転してしまう。お陰で投げられたナイフは狙いを外し、地面へ刺さった
黎ヰが馬場の足を振り払ったのだ。どうして焚きつけた本人がそんな事をするのか気にはなったが、アリババがそれについて聞く事はなかった。正しくは聞く暇がなかった
何故なら、横転した馬場が注射器を空中で離すのを見逃さなかったアリババは手を伸ばすーーが、それは黎ヰも同様で、彼が投げたハサミが注射器に当たり、その針が伸ばしてしまったアリババの手の平へと突き刺さったからだ
もちろん、ただ刺さっただけなら良かったのだが、最初から予想していた様に黎ヰがもう一つ投げたハサミが、注射器の後ろを押した
アリババ
「え…」
つまりは完全に中身がアリババへと投与されたのだった
アリババ
「はは、おもしろっ」
狙いを倒れた馬場から黎ヰへと変えたアリババは、新たなナイフを持つと真っ直ぐ突っ込んでくる
すぐさま、しゃがみ振るわれた一撃を交わすも、アリババは軌道を変えナイフを下へと向けて、足に力を入れ黎ヰ目掛けてナイフを振り下ろした…
その時
ガタン バリ バリバリ
アリババ
「……え」
床が抜けた
正しくは、アリババの力が掛かった足の下にある床だけが音を立てて崩れ落ちた
巻き込まれる前に黎ヰは身を引き、ついでに落ちゆくアリババの顔面へ向けて足を軽くヒットさせた
アリババ
「くそっ、」
悔しそうに口を歪めたのを最後に、彼は床下へと落ちていった
黎ヰ
「この下にも部屋があったか。悪運強い奴」
呑気にも思える黎ヰの言葉を聞きながら、紾は何が起こっているのかを考えようとするが、頭が痛み抑えた
蔡茌 紾
「いたたた…」
そんな紾を見て、黎ヰは直ぐに彼の首元を確かめた
黎ヰ
「紾ちゃん、針刺されてたろ。打たれたか?」
蔡茌 紾
「身動きが取れなかったからどうだか分からないが、症状も出てないし打たれてはいないとーー」
黎ヰ
「血が出てる…気持ちちょっと打たれてるなぁ」
蔡茌 紾
「はい?」
身に降りかかっている死の恐怖が紾を襲う。青ざめた顔を明らかに楽しんでいる様子の黎ヰは、意地悪な笑みを浮かべた
黎ヰ
「ま、安心しな気持ち程度だって言ったろ。効果なんてあって無いようなものだって」
蔡茌 紾
「…そ、そうか」
深く考えないようにした紾はただ唯、うなづくしかなかった
黎ヰ
「んな事よりもだ」
次は眉を不機嫌そうに寄せ、いつの間にか持っていたハサミの柄で紾の頬を突きだす
黎ヰ
「あれだけ忠告したにも関わらず、滑稽だねぇ紾ちゃん」
頭から爪先までジロジロと見られ、初めて自分の姿を確認した紾は、そう言われても仕方ないなと思う
ここに来る前までは綺麗なシャツだったのに、気づけば所々破れている上に血まで付いていた。よく見ると、頭や腰に膝まで血だらけの状態で少し腕をまくると、打撲痕まである
蔡茌 紾
「そう言う黎ヰこそ、左腕が血だらけじゃないか。大丈夫なのか」
黎ヰ
「わざとだから、へーき」
蔡茌 紾
「わざとって何だ」
軽くあしらうと黎ヰは、とりあえず紾の調子が変わってない事に安堵した
黎ヰ
(呂律も回ってるし、怪我以外にそれっぽい変化もなし…やっぱ悪運強いわ)
次は横転した拍子に頭を打ち、気を失った馬場に近づきポケットから手錠を出した
黎ヰ
「んじゃ、とりあえず…4月25日午前3時半。廃校者殺人事件の被疑者確保っと」
ガチャン
しっかりと両手に手錠を掛けて、自分よりも堅いのいい馬場をおぶった
黎ヰ
「紾ちゃん、さっさとこんな所出ようぜ」
蔡茌 紾
「いや、俺はもう一人をーー」
"追う"そう言う前に黎ヰは遮った
黎ヰ
「やめときな、手負いの獣ほどたちの悪いものはない。それに今頃解毒剤打ちながら尻尾巻いて逃げてるだろうよ、追うだけ無駄だぜ」
蔡茌 紾
「…仕方ないか」
冷静にこの状況を考えると、最もな意見だった
それにアリババが落ちた床下を覗いて見て、身体が上手く動かない状態の今降りるのですらやっとだと思った
潔く諦めると紾は、馬場をおぶっている黎ヰに手を差し伸べる
蔡茌 紾
「黎ヰだって怪我してるだろ、二人で運ぼう」
黎ヰ
「紾ちゃん〜勘違いしてんじゃねーの?」
蔡茌 紾
「勘違いって何がだ」
流石に馬場の重さに参っているのか、額に汗を滴らせながらも図書室を指で差し示した
黎ヰ
「紾ちゃんは彼女をエスコートしてやんな」
蔡茌 紾
「彼女って?」
全くピンときてない紾に黎ヰは、呆れたように深いため息をついた
黎ヰ
「それじゃ少女漫画または、現代風に言うと異世界転生モノの鈍感主人公。気づけばバッドエンドになってるぜ」
何を言ってるのかは分からないが、果てしなく馬鹿にされているのだけは伝わる
黎ヰ
「居るだろもう一人。あの中に…物言わぬ人間が」
物言わぬ人間…その言い回しに気絶する前の光景を思い覚ます
黎ヰが彼女なんて言うから気づかなかったが、ビニール袋の中の足…死体の事だとようやく合点がいく
蔡茌 紾
「分かった、あのままじゃ報われないよな。それにしてもいつの間に見たんだ」
実際に見た紾は死体の性別までは知らなかったのに、黎ヰはいつの間に見たのだろうか、そんな些細な疑問だったが回答は予想の範疇を超えた
黎ヰ
「ん?中庭行ったろ、そん時に穴の中でコレ拾った」
暗がりの中でもキラリと光ったそれは、指輪だった。紾には分からなかったが、黎ヰはその大きさやデザインから女性モノだと特定していた
「そう言うことは早く言ってくれ」と、強く思ったがもう喋るのも辛くなって来た紾は、代わりに顔を引きつらせるしかなかった
ーーー ーーー ーーー ーーー
無事に馬場とビニールに入った死体を車まで運び入れた頃には、紾の息は絶え思考力は完全に低下していた
"死体を運ぶ""署に戻る"そんな単純な目標しか思い浮かばない時点で、限界はとうに越している
普通なら死体を背に抱えた時点でトラウマものだろう、警察官じゃなければ発狂していたかもしれない。
だが、紾がもっと精神的に追い込まれるのはここからだった
黎ヰは、助手席に馬場を座らせ車内にあったロープを出すと、座席に固定させる。ご丁寧にシートベルトをセットさせると、額にまとわりつく前髪を鬱陶しそうに払った
その次は死体の入っているビニール袋を、慎重に後部座席へと横たわらせる
黎ヰ
「お待たせ、どーぞ」
後部座席のドアを開けたまま、手で"乗れ"と促された。
蔡茌 紾
「…あはは…冗談じゃ、ないよな」
力なく呟く声音に、黎ヰは頷く
黎ヰ
「そんな状態じゃなければ、帰りも運転してもらう予定だったけど…流石に無理だろ」
黎ヰの言うように、いまだに続く頭痛を抱えたまま運転するのは難しそうだった
だからと言って死体と相乗りも辛いものがある… 数秒悩んだ末に、結局促されるまま後部座席へと乗り込むしかなかったのだった
そこで紾の記憶は途絶えた




