プロローグ
「え。」
「お嬢様?!!」
ガシャン、と何か硬いものが割れるような音が、遠くで聞こえた気がする。
頭がクラクラとして、まるで視界に映る全てが、何か透明な薄膜一枚を隔てたようで。
私付きの侍女が慌てたように足元に這い蹲り、作業をしているのを見て、ようやく自分がティーカップを落としたということに気がつく。
―高そうなのに、あれ。
すんなりと心に浮かんだ言葉に驚いた。
だって私は、この私は、そんな事を思うはずがないもの。
私は伯爵家の我儘令嬢。
高そうなティーカップの1つや2つ、割ったところで気にも留めない。
我儘放題やりたい放題、寧ろ買ったばかりのティーカップを一回も口をつけず、癇癪を無残に割ることもある。実際に、怒鳴る喚く怒り散らすという癇癪は数え切れないほどやってきた。
一緒にいる人間が気に食わないからと、その人の目の前で…………あれ。
―それはもっと、先の話では?
いや、先の話って、なんだ。
私はまるで平凡な人間で、そんな『予知』のような特殊な力はない。
私は平凡で、平凡だから、ずっと努力して。
愛されないことがわかっているから、癇癪を起こすのだって気を引きたいが為で。
愛されようと幼いながらに努力した、つもりだった。
父親と、屋敷の使用人と、初恋の王子様。
―ダンスも教養も、勉強も、魔法も、全て精一杯努力した。幼い子供にしては、とても、健気なまでに。
でも結局愛されはしなかった。誰にも。
好きになってすらもらえない。
それは当然の話で。
だって私は、どんなに努力しても良いところで中の上。
それに、何より生まれながらに、罪を犯しているのだから。
「……今、なんと仰ったか、もう一度お聞きしても?」
恐る恐る見上げた先には、どこまでも冷静に、冷徹に私を見下げる顔。
笑ったところなど見たこともない鉄面皮。
テンペスタ家の若き執事であり、私、エリザ・テンペスタの従兄弟でもある青年が立っている。
ケイン・ジルベスターという、私とは違って、遥かに有能な人だ。
「ですから、この度幸運にもエリザ様。貴方様が王太子殿下の婚約者候補に選ばれました。恐らくはこのまま決定となるでしょう。」
「…………そう。」
喜ぶべきことのはずなのに、手が震える。
まるで死刑宣告を受けている様な気分だ。
おかしい、だって私は、エリザ・テンペスタは、皇太子殿下であるアルステリア・ソーレ・ヘリオス……この国の第一王子様がずっと好きだった筈だ。
4歳の時に出会って一目惚れをし、それは熱烈なアタックをかまして、妃に相応しくなれる様勉強に明け暮れた……そう、明け暮れていたのだ。
「……嬉しくないのですか?」
怪訝そうな顔でタイロスが尋ねる。
もしかしたら無表情以外の顔を見るのは初めてかもしれない。
つまり今の私の反応は、それ程までに不自然ということで。
……もちろん、嬉しいですわ。天にも登りそうなほど。
返そうとしたのに、口は開いても言葉が出てこない。
「お嬢様?」
後ろから、専属の侍女…セリアーナの声が聞こえる。
心配げな声だ。
この屋敷で唯一私に良くしてくれるその声に、何か反応しようとして。
ぐらりと世界が揺れる。
「……あ、れ……?」
「お嬢様?!!」
そして私は、暗い闇に沈んだのだ。
何度も見てきた夢がある。
知らない建物、現代からは考えられない生活水準。
鉄の塊が高速で移動し、海を走り、空を飛ぶ。まるで魔法以上に魔法の様な世界。
そこで暮らす、1人の女性。
年齢はよくわからないが、ジョシコウセイ、なのだそうだ。
ヒラヒラとした丈の短い簡素なスカートを履き、四角いパンに噛り付いて、コウコウなるところへ行くらしい。
地味目な顔立ち、取り立てて取り柄のなさそうな人物だが、毎日が楽しそうだった。
そんな彼女が毎夜ベッドの中で楽しむのは、小さな光る、映像の映った、箱。
それは様々な物語が体験できる箱らしく、時折何かを操作すると、ストーリーが進んで行く。
いつもならそこで終わる筈なのに。
いつもならば、箱に映る映像は見えないのに。
今回はその先があった、見えてしまった。
楽しげに、嬉しそうに、その光る箱をじっと見つめる女性の手の中。
描かれているのは一枚の絵。絵画のように美しい、幸せそうに笑い合う男女。
アルステリアとルイーズ。
金髪碧眼の絵に描いたような美青年と、銀の髪に深く澄んだ紫の瞳の儚げな美少女。
片方は初恋の王子様、隣にいるのは知らない女性。…誰からも愛される、そんな人。
―そして、エリザ・テンペスタは、獄中にて死亡した。
ただその一文が小さく下側に表示されて、次のテキストに押し流されていく。
ー愛し合う2人は幸せに暮らしましたとさ。
「うわマジかぁ。」
パチリと目が覚めた。
家庭教師の先生が聞いたら小一時間の説教どころの話ではないセリフと共に。
「……うわ……うわうわうわ……思い出しちゃったよ〜…………あぁ……。」
そう、私は思い出してしまったのだ。
私は所謂、日本人である。名前こそ思い出せないが、確かに日本に生きていた女子高生である。この乙女ゲームを愛していた冴えない感じの。
転生か。転生なのか。まぁ異世界トリップではない、と言うことは転生なのだろう。
私の死因とか全然わからないけど、転生モノとはそう言うものだ。過去の記憶などブラックボックスに等しい。
あぁ、そしてここは、恐らく。
「……ゲームの世界、よね……たぶん。」
記憶の中の地名、人名、国名、年代、その他諸々細部に至るまであのゲームの設定と一致する。
ソレイル歴456年、エテルニテ王国。その中心地より少しだけ外れたところにある、テンペスタ公爵家長女、エリザ・テンペスタ。
じっと見つめる鏡の中には、美少女が写っている。
絹のような赤茶の髪、瞳は澄んだ美しい、翡翠を彷彿とさせるような緑。肌は白くきめ細かく、唇は瑞々しいピンク色。
良いのか6歳で、6歳のくせにこんなに美少女で。
べ、別にこの顔ならコスプレし放題だなんて思ってないんだから。
「……私が中身ってだけでプラマイゼロだから良いのか。」
自分で言って悲しいが、残念ながら中身である私はかの令嬢とは程遠い。一言で言えばやたら無駄に動くオタクだ。
ゲームのイベントには全て参加し、時間の許す限り働いたバイト代を全てをつぎ込んだ。
幸い6歳までの血の滲むような努力で身につけた礼儀作法は体が覚えているようで助かるが、令嬢要素はその辺りにしかない。
記憶を手繰り寄せながら、父親の部屋へ向かう。
ー剣と魔法の世界で恋をしよう☆
『アルビートルの福音』、通称アル福。
私が生前気が狂ったようにプレイした乙女ゲームだ。
物語の舞台はこの国の学園、王立学園マクスウェル。
いわば魔法を使える事が入学条件のエリート校である。
主人公の名前はルイーズ、銀の髪に紫色の瞳の可憐な乙女。珍しい魔法属性である光魔法に突如目覚め、学園へ入学するといういかにもテンプレ的なゲームの始まりである。が、しかし。
ストーリーがとてもよかったのだ。更にルートも多岐にわたる。
乙女ゲームでありながらRPG要素を備え、攻略対象そっちのけで強くなって冒険者になるエンドもありのやり込み要素。
グラフィックもさることながら、背景すら美しく、音楽も良いと評判は上々。
攻略対象は6人、それぞれにきちんと属性がついていてキャラデザも良かった。あとなんか推しもいた。
つまり、堕ちるしか無かったのだ。家族と暮らしていなければ寝食も放り投げたに違いない。そのくらいには嵌っていた。全ルートを制覇した…はずなのに!
どういうわけかストーリーに関しては一部の記憶しかない。主にアルステリアルートの記憶と、エリザの末路(全て破滅)しか。
記憶に残るアルステリアとルイーズは攻略対象であるこの国の皇太子殿下とヒロインである。
ストーリーでエリザに関して覚えているのは4つ。
1、私はテンプレ的な悪役令嬢である。
2、私ははメインキャラであるアルステリア殿下にぞっこんである。
3、アルステリアルートでは悉くヒロインとの仲を妨害しまくる。
4、卒業イベントで断罪され、良くて幽閉悪くて即死刑、他は国外追放などなどろくな目に遭わない。実家は潰されるしお付きのメイドも一緒に死ぬこともあった。
まぁなんだ、簡潔に言えばつまり破滅である。
「……あれ私詰んでる?」
「何がですか?」
「うわびっくりした。」
考え込む間に目的地に着いたらしい。
目の前には若干15歳の身でありながら、父親よりこのテンペスタ家の執事の職を受け継いだ人がいる。
一応公爵家であるので、取り仕切るのは大変なはずなのだが、彼は苦もなくそれをこなす。いや本当、ベテランレベルの働きなのだから何も言えない。
「…………………………。」
「……何ですか。」
「……あなた、ケインよね?」
「そうですが。」
それも当然だ。人手不足?とかは言ってはいけない。
この何を言っても全く動じない可愛げのない15歳の男は、10年後可愛いルイーズと恋に落ちる可能性のある、『攻略対象』なのだから。『攻略対象』はどんな作品であれ優秀で有能だと決まってる。もしくはポテンシャルが高いか、逆に劣等生か。
キャラ立ちしないものは攻略対象にはなれないのである。
ちなみにケインは10年後には更に美しく逞しく成長し、理由は不明だが学園へ先生として赴任してヒロインと出会うのだ。
そして、私を冷たい牢獄に打ち込むのに一役買う。それが本人のルートでなくとも。
ゲームの画面に映った、エリザの最期のスチル。汚く錆が浮いた鉄格子、冷たく硬い石畳、薄暗い部屋には小さな小窓が一つだけ。
そこに蹲るように、汚いボロ切れを纏った私がいる。
救いなんて来ない、助けなんて来ない、明かりなど一筋も指す事はない。勿論それだけの事をした。
罵倒物隠しの嫌がらせから始まり、暴力、時間の妨害、ヒロインと殿下との仲違いの策略、最終的にはヒロインの殺害を企てた上に実行に移した。
当初はザマァとか当て馬とか当然の末路とか思っていたけど。いやまぁぶっちゃけそりゃそうなるわとしか今も思ってないけど。
でも、エリザとして6年間生きた今なら、何となくわかる。
彼女には、それしかなかった。
アルステリア殿下と結ばれることが、ただ一つの夢だったのだ。
その為に生きていると言っても過言ではなかった、そのために多くの時間と血の滲むような労力を費やした。
ーだって私を真っ直ぐに見て、手を差し伸べてくれたたった初めての人だったから
好きだった、好きだった、愛していた。
隣に並び立てるように、相応しくなれるように1秒だって無駄にはしなかった。できなかった。
それをぽっと出の小娘に攫われたら、そりゃまぁ……うん……病むよねとしか言えない。
「……どうされました?随分遠い目をしていらっしゃいますが。」
「……あぁ、うん……お父様にお会いできるかしら?」
「できません。」
「そう。」
はいですよね〜、なんて呟きは心の中に押し留め、にこりともしないその顔から目をそらす。
答えはわかりきっていた。私は家族どころか、この屋敷の住人達に愛されてなどいない。
いや、この屋敷でまともに私に接してくれるのは、私付きの侍女であるセリアーナだけだ。
ーだって、生まれた時に母親を殺しているから。
私はこの屋敷中から疎まれている。
家族の暖かさを知らず育つエリザには、初めて抱いた恋心が、恋しい人からかけられる言葉が、暖かさの全てだった。
物心ついた時、母親と仲の良かった侍女長に言われたセリフは、今もはっきり覚えている。恐らく相当心の傷になっているのだろう。
『貴女さえ生まれなければ、アイリーナ様は生きていたのに!!』
と。
「はぁ〜意味わかんな……無理……無理よりの無理……。」
納得はしてない。する気もない。思わず独り言として口から出る程度には理不尽だと思ってる。
子供に罪などあるはずもなく、生んだのは親の決断だろと。
産後の肥立ちで母体が死ぬのが嫌なら避妊しろ。させろ。産ませるな。恨みをこっちへぶつけてくるな。
ー私はなぜ生まれてしまったのか
子供にそう思わせることは、命をかけてでも子を産んだ母親と、命がけで生まれて来た子への侮辱に他ならない。絶許。
「……………お嬢様?」
「何でもないわ。」
思わず令嬢モードが解けた私を、ケインが訝しげに見つめる。おっといけない。
誤魔化すように淑女式のお辞儀をして、笑顔を持って取り繕う。
「会えないならば部屋に戻ります。お手を煩わせてごめんなさい。」
「……いえ。」
いつも冷静なキャラのケインにしては珍しく、歯切れの悪い返事だった。
しかし気にせず、くるりとUターンして部屋へと歩き出す。
頭の中ではどうすれば破滅しないか、それだけを考えて。
アルステリアとの婚約が引き金の一つなら止めてしまえば良いと思ったのだが、会えないなら仕方ない。
部屋へ戻り暫くふかふかのベッドでうんうん考えるも、中々いい案はでてこない。
こんな時、自分ならどうするかを考えに考えて、ようやく一つだけ思い付いた。
「そうだ、家出しよう。」
父親にこのまま会える事は恐らくないだろう。
何せ夕食の時にすら顔を合わせる事は殆どない。
明日明後日と機会をうかがっている内にタイムリミットが来てしまうのがオチだ。
扉の前で喚いてみてもケインかセリアーナに自室へ連れてかれるのが目に見えるし。
となればもう家出しかない。家出したとなれば、流石に話くらいは聞いてくれるだろう。
それにもし、家出したまま探さないとするなら、そちらの方がこの家にとっては良い。
何処かで誰も知らない場所で孤独に野垂れ死ぬのなら、私以外に害を被る者は居ないのだから。
「でもセリアーナは慌てそうね……一応書き置きは残しておこうかしら。……家出します。ごめんなさい。時期を見て帰れたら帰ります。うん、これでよし。あとは準備しなきゃ。」
適当な紙にペンを走らせ机の上に置く。
セリアーナは今他の仕事を片付けている最中だ、見つけるとしても今日の夜だろう。
幸い、セリアーナ以外に私を気にかける人などここには居ない。
クローゼットの中の地味な服を適当に来て、適当に食料を持って出るとしよう。
……ついでに、あわよくば、都合良くどこかに拾われて平民の暮らしが出来ないかなー。
その後、テンペスタ家の屋敷がかつてないほどの騒ぎになる事を私はまだ知らない。