月と秋刀魚と七輪と猫
七輪。
それは魅惑の道具。
炭火で焼くと食材は中はふんわり、外はカリカリ。
スルメにアジの開き、餅、五平餅、茄子、ソーセージ、ホタテ、エトセトラ。
魚、肉、野菜……どんな食材も香ばしく焼いてくれる。
なかでも一番ウマイのが秋刀魚。
秋の味覚の王と言ってもいい。松茸なんてお高くとまった茸より、安くてうまい秋刀魚こそ、七輪とのマリアージュによって最高の食へと変貌する。
じゅうじゅう脂をしたたらせて焼ける秋刀魚。
炭火に脂が落ちて、なんとも言えない芳香を漂わせ、その香りが秋刀魚を包む二重奏。
その香りの前には、通りすぎようとしていた野良猫でさえ脚を止める。
その猫は物欲しそうに秋刀魚を見つめ、それから僕を見上げた。彼の名はサンタマ。額、後ろ首、背中に見事な真円の斑が並んである。まるで上から見ると泥団子を背中に乗せて運んでいるみたいだ。
彼は彗星のように現れた若い三毛猫のオス。
ちなみに名前は僕が付けてあげた。
「これはあげへんよ」
「ニャーー」
「憐れっぽく鳴いてもあかん。僕もお腹空いてるの。これは今月の最初で最後の贅沢なんやから」
「ニャーーニャニャ、ニャーーニャーー」
「まあ、そんなに言うんやったら? ちょっとくらいはあげてもええけど。そやし、こないだみたいに一尾なり持っていかんといてや」
二階建て木造建築、築三十九年、大家さんの趣味で塗られたペパーミントグリーンの塗装も剥げかけた庭先で七輪を前にしゃがみこみ哀愁を漂わせながら秋刀魚を焼き、猫と話しながら時々蚊にくわれた剥き出しのくるぶしを掻く男を見て、低い生け垣の向こうを通りかかる近所の人は、眉をひそめるか見てないふりするかのどちらか。
わざわざ声をかけてくれるのは近所の犬猫と、目を三角にしてこのアパートを必死で守ろうとしている大家さん、推定三十ウン歳。
まあ、ネコと話をしながら七輪で秋刀魚を焼く三十手前の男など「イタい光景やわなぁ」と自覚はある。
「けどなぁ、本人はこの状況を結構楽しんでるねんで」
サンタマやほかの猫たちと間合いを測りつつ、「そろそろええ具合や」と表情を綻ばせる。
「あ、しもた」
エアコンの室外機の上に置いておいた皿を取ろうとして指先が空を切る。大根おろしとカボスも家の中に忘れてきてしまった。
「この状況でうちの中に戻ったら……あかんわな」
茶トラがウキウキと秋刀魚と僕の顔を見比べる。『食べへんの? 食べてええの?』と聞いているような。
「金火箸で食えってか。火傷するわ」
合戦場に敵の軍が現れて、交戦中に味方が寝返ったみたいなこの状況。前にも後ろにも引けない。まさに四面楚歌。さあ、どうするか。
援軍は意外なところで現れた。
「轟くん、共用の庭でバーベキュー、花火、その他諸々火の気は厳禁だって言ったでしょう!?」
目を三角にした大家さんに後光が射して見えた。すかさず金火箸を大家さんに押し付けて身を翻す。
「すんません。ちょっとお皿を取ってくるんで、秋刀魚見ててください!」
「あっ! ちょっとぉ、轟くん!」
そして僕は靴を脱ぐのももどかしく共用玄関へと駆け込み、201号室の扉を開いた。
昔は学生相手の下宿屋をしていた、このメゾン・ルミエール。
今はもう下宿屋は廃業している。先代の旦那さんが亡くなり、奥さんも歳を取って、三食用意するのが大変になったからとか、なんとか。僕は学生時代からずっとお世話になっていて、女子大学に事務職員として就職してからもずっとここに住み込んでいる。つまり現在進行形。
実家で生活していた年数より、ルミエールの201号室に棲みついている年数の方が長いこともあって居心地がよい。職場にも近いし、家賃も都内なのに破格に安い。
まあ、このどうみても昭和な下宿屋に珍妙な塗装の建物の名前がフランス語で光だなんて、ちょっとイメージが違うなと当初から思っていたら、奥さんの名前が『ひかり』さんで、旦那さんとのプロポーズが「僕だけの光になってください」で、新婚旅行がフランスだったそうなので、おおいに納得できた。
あの野村監督のような厳めしい面をした親父さんは意外にロマンチストだったんだなと感心したほどだ。
いや、やはりそのくらいでなくては女性と結婚はできないのだろう。と、その話を旦那さんから聞いたときは思いもしなかった感想が、今我が身を振り返って、大いにのしかかってきた。ちなみに今の大家さんは先代の大家さんの娘さん。近所の奥さんの話では出戻りらしい。
「現状維持も大変なんやな」
結婚はできればいいけど、しなくてもよいくらいに思っている僕だが、この歳になって売れ残っている僕を見て、世間の女性の方が避けて通っていくだろうということに、そろそろ自覚し始めていた。友人は若い女性の多い僕の職場を羨ましいなどというが、若いのはお客さんである学生さんたちであって、それほど学生さんと接する機会のない僕ら職員など端から視野には入っているわけもなく、同僚の女性はほぼ既婚者。僕の生活圏内に性別女性が占める割合は大きいのに出会いがない。
「こんなメランコリーな気分になるんは、昨日届いた結婚報告のハガキが来たからやわな」
足元に落ちている写真付きのハガキを危うく踏みそうになって、それを拾って、積み上げてある本の上に置いた。
大学の同期で、大手電気工業に就職して、学生時代よりさらに接待ででっぷり肥えた友人は、写真の中で薄い頭髪を撫で付け、タキシードに巨体を窮屈そうに詰め込み、眼鏡をシャンデリアの光に反射させて、花嫁さんの隣で幸せそうに照れ笑いをしている。学生時代、僕は彼よりは女性にもてるはずと失礼なことを自尊心の拠り所にしていた。今となっては恥ずかしい過去である。
友人の側で輝くように笑う花嫁は、僕がひっそりと想いを寄せていた女性なのがまた追い討ちをかける。
「ほんま、むかつくわ。おめでとうさん」
今となっては自分の方が負け組か。いや、何をもって勝ち負けを決めるのか。
とにかくこんなところで物思いに耽っている場合ではなかった。
簡易食器棚もとい蓋付きカラーボックスから皿を一枚取り出し割りばしを握り締め、醤油の小瓶と大根おろしのタッパーを抱えて、大急ぎで庭へ引き返した。
戻ってみると、庭では、猫が集まっていた。
ニギャー、フギャーと威嚇しあっては、その身体をゴム毬のように弾ませ、跳躍し、爪を奮っている。
僕の七輪と秋刀魚はかろうじて無事だったが、非常に危うい。
何が危ういかというと、七輪を倒される、もしくは焼き網の上に落ちた猫を火傷させてしまう危険性に満ちていた。
「ええと、これは、どういう状態ですか?」
七輪を倒させまいと仁王のように立つ大家さんに恐る恐る声をかけた。大家さんは僕を見て心底安堵したように緊張を弛めると、直後まなじりを吊り上げた。
「どうもこうもありませんよ。轟くんがこんなところで魚を焼き始めるから猫が集まってきたんじゃありませんか。ただでさえいつも猫のおしっこや糞に困っているというのに。よもやエサなんか与えていませんよね」
「はぁ」
ついさっき、猫と秋刀魚を分け合う約束をしたとは言いにくく、曖昧に頷いた。
「さっさとこの喧嘩を止めさせてちょうだいな。もし七輪でも倒されて火事にでもなったらどうするの」
「はぁ」
この猛獣同士の闘いを、爪も持たぬ僕に止めろと。
「水でもなんでもかければいいじゃないの」
そんな発情した猫を追い払うみたいなことで止むんでしょうか。
「とにかく、なんとかしてちょうだい。それからね、猫にはエサをあげないでちょうだいな。ルールを守れない人は出ていってもらいますからね」
言いたいだけ言うと、大家さんは預けていた金火箸を手のなかに押し付けるように渡し、ずかずかと玄関に戻って行った。
猫たちはまだ戦っている。
これはもう止められぬと、少し焼き過ぎた秋刀魚を皿に乗せ、七輪の後始末を始めた。
本当は月でも観ながらビールと焼き秋刀魚と思っていたのだが、秋刀魚争奪戦の様相を呈しているこの乱戦の最中、秋刀魚を食べてもよいものか。いや、良いのだ。この秋刀魚は僕の給料から買ったものなのだから。
本来なら猫の乱闘騒ぎのなか、大家さんと、近所の人の迷惑そうな視線を浴びて涼しげな顔をしていられるほど厚顔無恥な性格をしているわけではない。
今日はもう、世界中のなにもかもに拗ねたい気分だった。
ストリートファイターな猫たちを観ながら、秋刀魚の身をほぐす。
旨い。実に旨い。
塩をしたあとしばらく置き、ペーパーナプキンで水分を取ったあと、もう一度塩をした。
食べるわけではないが、顔と尻尾にしっかり塩を振るのが僕のこだわりである。
「ビールより日本酒の方が良かったか」
呟きながら缶を傾ける。爽やかなキレのある苦味と炭酸が口の中の脂をさらって喉へ流れ込む。
サンタマにやられて猫が一匹、また一匹と生け垣の向こうへと逃げていく。
「サンタマ、お前強いんやな」
動物の世界では強い雄がもてるのだ。
友人のせいで感傷的になっている僕は、男前なサンタマを羨ましいと思った。
「あかん、もう回ってきたんかな」
感傷が過ぎる、卑屈なのはよくない。原因は己の中にあるのだ、と苦笑いした僕の前に、サンタマがやってきた。庭にいた野良猫を追い出し、これで秋刀魚は俺のものと言わんばかりの自信に満ちた顔で。
「あんたが羨ましいわ」
「なーん」
サンタマが催促する。
僕は苦笑して、秋刀魚の身をほぐす。
「そやったな。大家さんには内緒やで。勝利の味や、よう味わい」
手のひらに秋刀魚の身を乗せてサンタマに差し出した。
サンタマはするりと右足の下を抜けて、手のひらに乗せた秋刀魚のほぐし身を無視し、片身が無くなった秋刀魚を皿からくわえると、颯爽と走り去った。途中でもげた秋刀魚の頭が砂だらけになって庭に転がる。
そのあまりに鮮やかな動きにしばし動けずにいた僕は、ゆっくりと手のひらを顔の前まで戻し、少し冷えた秋刀魚を口に入れた。冷えたワタは苦くて、ビールでそれを洗い流すように飲み込んだ。
「そうや、旅に出よか」
ふと閃いた思い付きは、口に出せばさらに魅力的なアイデアに思えた。
中古で買った唯一の財産ともいうべき車に、寝袋と七輪を積んで。走り出すと、いつの間にかサンタマが後部座席のかげから助手席にのっそりと姿を現す。
『なんや、お前もついてくるか?』
そう聞けば、にゃーんと返事が返ってきて、寂しい気持ちはどこへやら。
七輪なんか積んで山道を走ったら、検問で自殺志願者と間違われるのではないか、そう考えるとなぜか愉快だった。
「ま、しばらくは連休なんて取れへんけどな」
ひとりごちて、空になったビール缶を潰すと椅子代わりにしていたコンクリートブロックから腰をあげた。