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あの日に戻れる片道切符

作者: 鈴森一

 もしも、あの日に戻れたら――。


 そんな風に考えたことは、一度や二度じゃない。

 人生がゲームみたいにセーブ&ロードが可能であったなら、誰だって今より幸せな人生を歩めたはずだ。


 俺はずっと、そんな風に考えてきた。もちろんその考えが間違いだなんて言うつもりはない。かつての失敗を繰り返さなければいいだけなのだから。


 だが、それなら過去に戻れるのが仮に「一度きり」だとしたら――?

 確かにあの時の失敗は回避できる。しかし、その後はどうなるのだろうか。

 もしかしたらその失敗のおかげで、知らないうちにより大きな災厄を回避できていたのかも知れない。


 ――バタフライエフェクト。今どき誰だって知っている言葉だ。

 やり直して失敗を回避すれば、当然ながら未来は変わってしまう。

 やり直したところで人生が今より良くなるとは限らない。今より幸せになれる保証なんてどこにもない。


 俺はある日、そんな時間逆行の片道切符を渡された。

 誰にとか、どうやってとか、そんな野暮なことは訊かないで欲しい。

 というより、俺にも詳しいことは何一つ分からない。

 分かるのは、今この瞬間に、俺は選択を迫られているということだけだ。


 それなりに不満があって、それなりに幸せな日々。

 そんな日々を。生活を。あるいは、世界を。

 今まで積み重ねてきた、一度きりの人生を。


 それを投げ捨ててまで、本当にやり直したいことがあるのか?


 そんな問いかけに、だから俺は――。






 ――次に気付いたときには、俺の体は10歳に戻っていた。


 結局俺はやり直すことを選んだ。

 そうするだけの理由が俺にはあるのだと、少なくとも俺自身はそう思っている。


 今はかつて過ごした実家の子供部屋にいる。壁にかけたカレンダーは2006年7月。


 10年、間違いなく戻っている。俺は20歳だったから、ぴったり人生の半分をなかったことにした計算だ。


 そんなことに思いを巡らせていると、不意に家のインターホンがなった。母親がそれに応対し、俺を呼ぶ。

 ――ということは、来客はあいつか。


「ナオ、遊ぼう」

「…………あ、ああ」


 想像通り、玄関には幼馴染のユイの姿があった。髪型は高い位置でまとめたポニーテール。背は今の俺よりも高くて、肌は健康的に日焼けしている。首元が広く開いた白いTシャツの中に黒のタンクトップを着ていて、短いズボンにバスケットシューズという出で立ち。髪が長くなければ男子と間違われてもおかしくない。


 俺は10年ぶりのそんなユイの姿にも平静を装いながら靴を履き、ユイと共に家を出た。

 けれどそんな俺の様子を不自然に思ったのか、彼女は尋ねる。


「……どうかした?」

「……何が?」

「んー、何かナオが普段と違う感じがした」


 いきなり核心を突いてくる。当時からユイは賢かった記憶があるけど、ここまでだったか? だってこいつはまだ10歳だぞ?

 見た目なんて、それこそ本当に小さな子供でしかないというのに。

 ――まあそれを言い出したら今の俺も同じことだけど。


「なあ、ユイ」

「何?」

「今日って何日だ?」

「……ごめん、面白い返しが見つからない」


 返事まで3秒くらい間があった。必死に洒落た切り返しを考えていたのだろう。

 実際のところ、俺は本当に日付が知りたかった。部屋のカレンダーを見ただけでは今日が何日かまでは分からなかったからだ。

 ……まあいいか。少なくとも今日は、問題の「あの日」じゃない。


「というかナオ、やっぱり変だよ」

「……例えば?」


 ユイはどのあたりが変だと思っているのだろうか。

 もちろん俺だって自分の言動が完璧だとは思わない。10年前の俺が一体どういうことを考えて、どんな喋り方で、どんな風に生きていたのかなんて、ほとんど覚えていないのだから。


「んー、いつもより何だか男らしい……?」

「どういう意味だよ、それ……」

「普段と違って、堂々としている感じ」

「………………」


 まあ確かに、当時の俺は男らしいとか堂々としているといった言葉からは程遠かっただろう。昔からいじめられっ子で、ユイに庇われてばかりの情けない奴だった。


「ごめん。普段のナオが悪いってわけじゃないよ?」

「いや、大丈夫。ユイの言いたいことは分かるつもりだから」


 ユイはスポーツ万能で、ドッジボールもクラスで一番上手かった。足の速さも学年でトップ、通っているスイミングスクールでも誰よりも速く、誰よりも綺麗に泳いでいた。俺も同じスクールに通っていたけど、俺がまだ平泳ぎのテストにつまずいている頃、ユイはバタフライのテストに合格して4種目全部泳げるようになっていたはずだ。それでいて勉強も出来て、字も綺麗。誰もが認める才女だった。


「それで、今日は何して遊ぶの?」

「ん、ナオは何がしたい?」


 そうだった。ユイはいつだって俺に何をするか尋ねてくるのだ。

 それは別に優柔不断というわけではなく、俺が楽しめることを優先するという話だ。


 例えば俺とユイでテニスやバドミントンをして遊ぶと、ラリーで失敗するのはいつも俺になる。別に勝負というわけではないからそれでも本来問題はないのだけど、気持ちの面ではそうもいかない。


 毎回失敗しているうちに、どんどんと俺の表情は暗くなっていき、動きも固くなっていく。そんな俺の姿は、少なくともユイから見るととてもじゃないが楽しく遊んでいるようには見えないという。


 だからこそ、ユイは俺に尋ねる。裏を返せば、何をやることになっても俺のレベルに合わせられるという自信の表れでもあるのだ。


 今になって思えば、よくそんな状態で毎日一緒に遊んでいられたなと思うのだけど、当時の俺には他に友達と呼べる存在はいなかったからユイと遊ぶのはある意味で必然だった。友達がいなかったのはもちろん、俺がいじめられっ子だったからだ。


「それじゃあ、かけっこでもしようか」

「え?」

「ここから、あそこの自動販売機まで競争。この石が地面についたらスタートな。オンユアマーク、セット」

「オン、何? ってもう、知らないからね!」


 僕が構えたのを見て、ユイも体勢を低くする。

 それを確認してから俺は石を放り投げる。石が地面に着地した瞬間に、二人同時にスタートした。


 ちなみに当時の俺とユイだったら、間違いなくユイの方が足は早い。というか50m走で1秒くらい差があったはずだ。

 それを知っているから、ユイは俺の挑戦を無謀だと思った。しかし――


「――え?」

「よし、俺の勝ち」


 ……ぎりぎりだったが。

 俺は一応以前の人生では中学高校と運動部でそれなりの成績を残してきた。

 そのおかげでランニングフォームも洗練されているから、たとえ小学生当時の体であっても勝算はあると踏んでいたのだ。


「え、何で、だって、そんな急に」

「男子三日会わざれば刮目して見よ、って言葉があるだろ?」

「毎日会ってたよ!」


 俺のボケにはすかさずツッコミを入れる辺りはさすがだった。それでもやはり俺に徒競争で負けたのはショックだったようで、それからしばらくは「嘘だー」「ずるいー」と呻いていた。確かに今の俺は存在自体が嘘でずるい。


 その後、徒競争で負けたことを理由にユイに何で遊ぶのかを選ばせた。どうやら俺に負けたことが相当悔しいらしく、ユイが選んだのは一番得意だと自称するバスケットボールだった。

 一旦バスケットボールを取りにユイの家に寄って、それからバスケットゴールがある公園に向かう。基本的に遊び道具はユイの家の物置に一通りそろっていた。


「バスケなら負けないから」


 そう宣言して、ユイが俺にボールをパスする。それをユイに返すと、1on1が開始された。

 ユイは早速慣れた感じでドリブルを仕掛けてきた。手元をほとんど見ずに自然な感じでドリブルをしている。

 確かに得意というだけのことはある。とはいえ、所詮は10歳の女の子のやることだ。いくらスポーツが得意でも、それが専門というわけでもない。

 ボールのバウンドを冷静に見て、タイミングよく手を伸ばせば簡単にディフェンスすることが出来た。


「……次はナオの攻撃」


 先ほどと同様に今度はまず俺がユイにパスをして、それが返ってくると試合開始。ボールを地面についてドリブルをする。正直にいうと俺はあまりバスケが得意じゃない。中学高校の体育でちょっとやったくらいだ。一応基本的な動作くらいは出来るが、まあそれだけだ。でもそれくらいでちょうどいい。相手は10歳の女の子なのだから。


 それからずっと、何度も休憩をはさみながらバスケに没頭した。

 俺のディフェンスは鉄壁だった。しかしユイがドリブルで強くボールをつくなど工夫を見せて、徐々に対処された結果何度かユイにシュートを決められてしまった。

 一方で俺のオフェンスは、シュートがとにかく駄目だった。身長が低くなったこともあるし、単純に筋力が落ちていることもあってシュートのコントロールが全く出来ない。

 それでもユイよりもかなり多くシュートまで持ちこめていたので、まぐれで入ったゴールの数がだいたいユイのゴール数と同じだった。


「……ナオ、どうしちゃったの」

「……何が」

「ナオって、運動出来ないわけじゃなかったけど、いつもクラスで真ん中くらいだったのに」

「よく見てるな」

「そりゃここまで毎年同じクラスだし……」

「……少し、確かめてみようと思ったんだよ」

「確かめる? ……何を?」

「………………」


 俺は答えない。


 ――今の俺は、ナオに対して10年分のアドバンテージがある。10歳の段階での肉体的には劣っていても、知識や経験、技術なども含めて、俺がこの先の10年間で得た物は決して少なくない。


 それだけのアドバンテージがあって――それでようやく、当時の俺はユイと互角になれる程度なのだ。

 別に俺が特別劣っていたわけではない。平均程度の実力は俺にもあった。


 ただその程度では話にならないくらい、ユイの才能が際立っていたという話だ。日本全国を探しても、ユイほどの才能を持った人間は同世代に10人といないだろう。


 誰もが期待し、誰もが憧れた。

 ――ユイは将来、どんな凄い人間になるのだろう。


 10年後から時間を遡ってきた俺は知っている。きっと今この世界では、俺だけがそれを知っていることだろう。


「……そろそろ帰るか」


 俺はそう言うと、公園の出口に向かって歩き出す。

 すぐさまボールを持ったユイが小走りで横に並んだ。


「そうだ、ナオ。明日」

「明日?」

「夏祭り、一緒に行く約束してたでしょ」

「ああ、そうか」


 ――そうか。

 明日が、「あの事故」の日なのか。


 以前の世界では、ユイは交通事故で命を落としていた。享年10歳。

 誰もが期待し、誰もが憧れた才女は、しかし何者になることもなくこの世を去ったのだ。


「なあ、ユイ」

「何?」

「10年後、お前は自分が何してると思う?」

「……?」


 俺の突拍子のない質問に、ユイは内容を理解するまで少しの間を要した。


「10年後……20歳だね。……普通に大学に通ってたりするんじゃないかな」

「……東大とか?」

「あはは、そんな凄いところ入れないよ」

「ユイならいけるだろ」

「別に普通でいいよ。ナオと同じ大学とかで」

「じゃあ東大だな」

「何で!? ……ナオ、東大に入りたいの?」

「別に、そういうわけじゃないけど」


 単に、俺は以前の世界で東大に通っていたという話だ。


 理由はユイが死んだからだ。

 俺がユイを助けられなかったから――だから俺はユイの分まで、立派に生きなければならなかった。


「ユイは、何かなりたいものってあるか?」


 ユイだったら、きっと何にでもなれる。それこそスポーツ選手にだってなれるだろうし、もしかしたらオリンピックでメダルを取れたりするかもしれない。勉学の道に進めばノーベル賞だって夢じゃない。どんな大企業にだって入れるだろうし、競争倍率の高い宇宙飛行士とかにだってなれるはずだ。


「んー、あるけど、秘密!」

「秘密、ね」


 大それたことだから口に出すことに遠慮があるのだろうか。別にユイだったら、何を言っても誰もそれを嗤ったり否定したりはしないのだが。


「それじゃあ、またね」


 そうして話をしているうちにユイの家についたので別れの挨拶をした。

 俺は自分の家までの道すがら、一人で考え事をする。


 それは以前の世界での生き方について。

 ユイが死んでから、俺はひたすらにユイを追いかけた。運動も勉強も、必死に努力した。

 その結果スポーツではインターハイに出場したし、東大にだって現役合格した。


 傍から見れば、俺の人生は順風満帆だっただろう。

 それでもいつだって、俺の心の中にはユイの背中があった。どれだけ追いかけても、決して届かない背中。ユイに追い付けなければ、追い越せなければ、俺の人生は何の意味も持たなかった。


 そんな俺の心は誰にも理解されなかった。俺が必死になって追いかけているものがどれほど偉大で、どれほどの高みにあるのか。幼少の頃からユイと親交があったはずの同級生たちでさえ、時間の流れと共にそれを忘れてしまっていたのだ。


 ――10年。

 俺がそれだけの時間必死に努力して手に入れたものは、10年間止まっていたユイにようやく追いつける程度のものでしかなかった。

 今日、それが分かった――いや、最初から分かっていた。

 ただ確かめてみようと思った――ユイと俺との、致命的なまでの差異を。


 だから今日したことは、あくまで分かり切っていたことの再確認。

 そして俺は自分の選択が正しかったことを確信する。

 以前の世界を捨ててでもユイを助けることは、だからきっと、正しいのだ。




「ナオ、夏祭り行こう」

「ああ」


 翌日、夕方頃になってユイが俺を迎えに来た。

 ユイは浴衣姿だ。その浴衣を買うために出かけていたらしく、今日ユイと顔を合わすのはこれが初めてだった。


「浴衣、一回着てみたかったんだよね」

「……似合ってる、って言えばいいんだっけ?」

「……動きにくそうだな、でいいんじゃない?」


 そう言ってユイは笑う。ちなみに以前の世界でもこれと同じ会話をした。

 似合ってるは本心。後ろ半分は照れ隠し。

 きっとユイはそんなこともお見通しなのだろう。以前の世界では気付けなかったが、ユイはどことなく嬉しそうにしている。

 髪型もいつものただゴムでまとめただけのポニーテールとは違い、編み込みなど様々なヘアアレンジをしている。普段は男子と間違われそうなユイだけど、今日は何だか普通にかわいい女子だった。まあそれは10歳目線ならという話で、20歳の精神からすればほほえましいという感覚が強いが。


「それじゃあ、行くか」

「ちょっと待って。……もう少しゆっくり」


 俺が先導する形で、夏祭りが行われる広場へと歩き出す。

 普段なら歩いて10分くらいの距離だが、ユイが慣れない草履をはいているのでもう少しかかるだろうか――確か、当時はそんなことを考えていたはずだ。


 あと5分もすればあの場所だ。

 そこは地元でも事故が多いことで有名な道路だった。ついついスピードが出てしまう緩やかなカーブ。一見すると見通しが良さそうだが、実はそこかしこに死角がある。

 しかも歩道がないから、脇道から合流してきた歩行者や自転車との接触事故がとにかく多かった。


 その道で、以前の世界のユイは交通事故にあって亡くなった。夏祭りに遅れそうだと携帯でメールをしながら速度違反で運転していた女性は、脇道から不意に飛び出してきたユイに気付くのが遅れた。しかも草履をはいて運転していたことも重なって、ブレーキ動作さえも遅れたという。


 飛び出したユイも悪いのかも知れないが、メールも草履も車の速度も道路交通法に抵触していたことは事実で。もし普通に運転していた車だったならユイはそもそも轢かれなかったかもしれないし、轢かれてもちゃんとブレーキを踏んでくれていたら軽い怪我くらいで済んだかもしれない。

 もちろんそんなことは考えても仕方のないことだった。それこそ慰めにすらならない徒爾でしかないだろう。


 ――そうして、あの道が見えてきた。

 もう少し行けばあの道と合流する、そんなタイミングでユイが口を開いた。


「ねぇ、ナオ」

「ん?」


 そのときユイが何を言ったのか、俺は鮮明に覚えている。


「手、繋がない?」


 そういってユイはこっちに手を差し出す。

 どうしてユイがそんなことを言ったのか。今なら分かる。

 しかし当時は分からなかった――いや、本当は分かっていて、それでもあえて気付かない振りをしていたんだと思う。


 だから以前の世界の俺はここで、「嫌だよ、恥ずかしい」と答えてしまった。

 そしてユイの行き場をなくしたユイの手は、ゆっくりと下ろされて――「あ、あはは、そうだよね……何言ってるんだろう、私。ごめん、お祭りでテンション上がって変になってるみたい」と、泣きそうな顔で笑った。そして、ユイは堪え切れなくなった涙を隠すために「先行ってちょっと頭冷やしてくるね」と、俺に背を向けて全力で駆けだした。


 この先の道が危険なことは知っていたから、俺は危ないと声をかけて、すかさず手を伸ばして追いかけた。けれど当時の俺は、慣れない草履をはいているユイにすら追い付けなかった。全力で走っても、俺とユイの距離が縮まることはなくて、そして――。


 そうだ。だから俺はあの悲劇を回避するために、今ここにいるのだ。

 あのとき、俺のちっぽけな心がユイを殺してしまった――これはその贖罪だ。

 そのためなら全てを投げ捨ててもいいと、心の底から思う。


「……いいよ、はい」


 俺はユイの手を握った。

 そうして二人並んで歩く。気恥ずかしさはあったが、俺の精神は20歳。10歳と手を繋ぐくらい、我慢できないようなものではない。

 ただ――ユイが我慢出来るかは、また別の話だったようだ。


「や、やっぱりなしで!」


 ユイは不意に手を振りほどくと、恥ずかしそうに頬をかきながら言った。


「私、なんか変なこと言っちゃったよね。何だろう、お祭りでテンション上がって変になってるのかな」

「いや、ユイ、ちょっと――」


 ちょっと待て。その言い訳には聞き覚えがあった。

 だから俺には全てが分かってしまった。

 ユイが次に何を言うのか。そして、次の瞬間、何をするのか。


「――先行ってちょっと頭冷やしてくるね」


 そういうと、ユイは俺に背を向けて全力で駆けだした。


「くそっ」


 俺も即座に駆けだす。そして走りながら、ユイを捕まえようと手を伸ばす。けれど届かない。

 ――そうだ。俺は腕を大きく振って、綺麗なフォームで走って、そうして初めてユイと互角のスピードで走ることが出来る。

 焦りで腕を前に伸ばして走っていたら、10歳当時の俺の貧弱な肉体では、ユイに追い付くことなんてできやしない。

 頭では理解している。だから綺麗なランニングフォームに修正しようと考える。けれど体がその通りには動いてくれない。

 俺は焦っていた。あの道路はもう目の前に迫っている。何とかしなければ――。


 ――何か。何か無いのか。俺に出来ることは、何か。


 しかし手は届かない。足は追い付かない。ユイの背中は、またあの時のように――。


 その背中に向けて、出来ることが一つだけあった。俺には全てを投げ捨てる覚悟がある。もはや迷うことはなかった。


「ユイ! 好きだぁぁぁ!!」

「へっ!? ちょ、きゃっ!」


 突拍子もない俺の叫びに驚いたユイは、足をもつれさせて盛大に転んだ。それにしても浴衣に草履とは思えないくらい綺麗に受け身を取るなぁと感心しながら、俺は倒れているユイを捕まえた。


「17時23分、被疑者確保」

「な、な、な」

「走って飛び出したら危ないだろ、車に轢かれたらただじゃ済まない」

「いや、それはそうだけど、じゃなくて! ナオ、さっき言ったこと!」

「何?」

「私! ナオが私のこと、好きだって」

「そうだけど、それが?」

「いや、だって、あれ、私、片思い」

「カタコトの間違いだろ?」

「ちょっと待って、落ち着け、落ち着け私……」


 そういってユイは大きく深呼吸を始めた。


「ねぇ、ナオ」

「何だ」

「……さっきナオが言ってたのは、本心? それとも、私を危険から守るための嘘?」


 この数秒で、あれがその場しのぎの嘘である可能性まで考慮したのか。やっぱりユイは――いや、そんなことを言うのも今さらか。


「……ユイを止めようとして叫んだのは確かだけど、その言葉に嘘はないよ」

「…………そっか」

「つまりめでたく両想いというわけだな」

「ちょっと!」

「何だよ?」

「確かにそうなんだけど、過程に不満があります!」

「ロマンチストめ。俺があれだけ情熱的に愛を叫んだのに、何が不満なんだ」

「そうなんだけど、そうなんだけど! ……出来れば面と向かって、言ってほしいというか……」

「……嫌だよ、恥ずかしい…………って、言ってたんだろうな、あの頃なら」

「……? あの頃?」

「何でもない。……好きだよ、ユイ」

「……っ! 私も好きだよ、ナオ!」


 そういうと、ユイは俺に跳びかかるようにして抱きついてきた――。




 ――想定とはだいぶ違ってしまったが、こうしてとりあえずは俺の望んだ結果は得られた。

 もちろんこの先、俺が幸せになれる保証はない。

 ユイが死んだから俺は頑張れたという側面があることは否定できないし、ユイが生きているからといって、ユイと俺が結ばれるかどうかなんて分からない。

 こんな風に愛を告白してみたところで、そんなものは子供の頃の綺麗な思い出でしかない。ユイも別に俺に恩を感じたりはしていないのだから。

 そもそもの話をすれば、俺はユイを救ってはいないのだ。

 だってそうだろう、この世界ではそもそもあの事故は起きていないのだから。起きていない事故からユイを救うことなんて出来るはずがない。

 事故や事件を未然に防ぐということは、何も起きなくなるということと等しいのだ。

 ユイからすれば、夏祭りへの道中で突然告白された程度の認識だ。間違っても命を救われたなんて思ってはいない。


 けれど、それでいい。

 ――ありふれた幼少期の綺麗な思い出一つ。

 だがそれには、今持っている全てを投げ捨ててでも手に入れる価値があると、少なくとも俺はそう思ったのだから。



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