第二章 見習いのための先生(1)
「タ・ス・ク・ぅっ、起きろォ!!」
体をバシバシと叩かれて、タスクは薄目を開けた。
ジルの金髪にメッシュの入った頭が見える。金とピンクの組み合わせは覚醒したばかりの意識に少々キツい。
「ふあ〜……、朝?」
「朝以外の何があるんだよ。ほらほらさっさと起きてっ。飯喰いに行こうゼ!」
元気な足取りで、ジルは豪華なカーテンをばっと開けた。
水垢のない大きな窓から眩しい朝日が射し込んでくる。
あぁ……オラ、城にいるんだった……。
光に目を細めて、タスクはようやく起き上がった。
ぼんやりとした目でボサボサの頭を掻きながら、タスクは支給された服に腕を通した。
「田舎から来た人って朝元気なイメージがあったけど、タスクってそうじゃないんだなー」
「……人それぞれでェ」
確かに田舎者には朝から元気な者が多い。タスクの兄がその最たる者だ。が、だいたいの者は朝から働かないと生活が成り立たないからそう思われているだけで、日が昇ったら起きて沈んだら寝るなんていう真の健康者などほとんどいない。
自分の兄の朝を思い出して、タスクはハァと溜息を吐いた。
純白の布地に金色の装飾がなされた上着を身につけて、タスクは一つ装飾品が余っていることに気がついた。
黄色がかった白、アイボリーホワイトというのだろうか。そんな色の細長い布で、先端に向けて幅広くなっていっている。
ジルを見ると、形の違うものをシャツの襟に通して結んでいた。
どうやらこれは首に結ぶものらしいと思い、タスクは同室者と同じようにしてみるが結べない。結び方が分からないのだ。
「あ、あのトライシオン? これってどうやれば……」
自称トライシオンことジルから返ってきた言葉は——
「え? ハハハ冗談はやめろよォタスク。ネクタイぐらい結べなくてどうするんだい。ほらさっさと飯行こう!」
本気でジルは冗談だと思っているらしい。
タスクはかなり端の辺境から出てきたのでネクタイとやらを知らない訳で、断じて冗談を言ったつもりではない。
長いリボンのようなネクタイと悪戦苦闘した結果、タスクはようやく結ぶことに成功した。
他人から見たらネクタイとはかけ離れ過ぎた状態なのだが、当の本人は当然の如くそれに気付いていない。それどころか達成感と満足感を感じている程だ。
「できた? ……う、うん。じゃあ食堂に行くか」
何か言いたそうなジルに頷いて、二人は部屋を出た。
リベルタ城の敷地内には多くの建物がある。
まず王族とその専属の側近などの私的住居空間と、執務をこなしたり会議を開いたりする王政の間などがあるリベルタ城。昨日タスクが行ったところだ。
そして兵士専用の住居施設。簡単に説明するなら寮のようなものだ。城の次に大きいのは、騎士が数多くいるからだ。
兵士のものがあるならもちろん使用人専用の建物もある。だいたいのメイドや使用人はリベルタ城内に住んでいるのだが、半数ぐらいは専用の建物で生活している。
大きさこそバラバラだが、この三つに共通していることもある。それは、どれにも厨房と食堂というか、食する所があるということだ。
衣食住は人生の基本なので、三度の食事の時間帯は食堂が混み合うものだ。——故に座るところがない。
木製のテーブルや椅子がずらりと並べられた室内では、大勢の兵士達が騒がしく朝食をとっている。隙間なく並んで腰掛けた彼らの間を歩きながら、タスクは後ろのジルを振り返った。
「ネェ、トライシオン。どこに座る?」
「んー……、空いてないなぁ、席」
彼の手には、朝食にしては胃への負担が多そうな料理を盛った皿が乗っている。一方のタスクのはジルのものと比べると素朴——、というか、ジルのが派手すぎるからそう見えるだけで、実際は中流階級の人が食べるような上品なものだ。つまり一般的に言うまっとうな朝食だ。
タスクだって今まで食べたことのない高級料理を食べてみたい。だが人生で一度もそういうものを口にしたことがないので、朝っぱらから重いものを食べると腹を壊すことは分かっていた。もっとも、今自分の手元にある料理でもタスクにとっては充分豪華なものなのだが。
「おっ」
一つのテーブルの列の横を通りすがったときだ。ジルがそう声を上げた。
「? どした?」
再度振り向くと、ジルは嬉しそうに笑った。
「おいタスク君、紹介しようっ。これぞ我が部下達だ!!」
自慢げに言って、百人隊長はそのテーブルの列にかたまって座る男達を指さした。
ぱっと見ただけで百人前後程人がいるのが分かる。まぁ百人隊長と言うのだから、その指揮下にある部下の数も百というのは当たり前のことだろう。
その起きたばかりだということを感じさせない明るい声に、食事をしていた彼らは顔を上げた。
「あ……。ジル隊長」
その内一人がボソッと呟いた。
「やぁ皆! おれ達の軍……、オズ将軍が率いる軍に新しく入ってきた騎士見習いのタスク君だ。皆仲良くしてやってくれよっ」
「……ど、どうも」
タスクは曖昧に頭を下げ、ジルの部下の数人も似たような反応を示した。
皆眠そうでそんなリアクションしかとれないのだろう。大半の人には寝癖や口元のよだれの痕などが残っており、まぶたも重そうだ。服装も満たれている。
……あー、トライシオン元気だなー。
そう思っていると、ジルがふと、そう言えば朝の挨拶まだだった、と口にした。その言葉に何人かが明らかに嫌そうな表情で顔をしかめた。
「と・い・う・わ・け・で! 皆おはよう!」
「お、おは……ようございます」
部下の全員沈んだ調子に対し、ジルは雲泥の差並みの明るい声を上げる。
「元気がないよー。もう一度! グッモーニン!」
「グ、グッドモーニング……」
「何で快活さがないのかなぁ。もう一度! グッモーニンッ」
三度目となる挨拶で、何人かが吹っ切れた。
「グッモーニング!!」
……百人からなるモーニングコールだ。
周囲の人達がギョッとし、むせたり手に持った何かを取り落としたりしている。
内心百一人の大合唱に引きながら、タスクは実際に一歩退いて周りをキョロキョロと見回した。
タスクにとって今最も優先すべきことは朝食をとることで、そのためにはまず空席を探さないといけない。コミュニケーションは二の次だ。周りに流されやすいノリの持ち主でも、苦手な朝ではそうならない。
しばらく食堂内を見回して、タスクは歩き出した。席を見つけたのだ。
近付いてみると、四人がけのテーブルに一人だけを残して他の三つの席が空いているのが分かった。
両隣のテーブルには定員をオーバーして六人もの人がひしめき合っているのに、何故そこだけが空いているのか。
それはすぐに理解できた。
その一人だけ座っている人は、全身黒衣——そして顔には不気味な仮面をつけていたのだ。
斧こそ持っていないものの、服装は昨日とほとんど同じで分かりやすいことこの上ない。
ジル曰く性別不詳の少女は、脇目もふらず黙々と厚いハムを挟んだパンを咀嚼していた。
「あ、あの。……おはよう、ごぜェます」
そう声をかけると、イヴァリースは口にパンをくわえたまま顔を上げた。モゴモゴと口を動かしつつタスクを見上げると、素っ気なく頷いた。
「こ、ここ……座ってもいいですか……」
イヴァリースの斜め向かいの椅子の背に手をおいて尋ねる。少女はまたもフンッ、という感じで頷いた。
ほっと域を吐いて、タスクは席についた。
ようやく朝食を食べることができる。
パンを呑み込んだらしいイヴァリースがこっちを見ている。
「……何、ですか?」
「……無様だな」
「へっ?」
「そのネクタイ、ちゃんと結べてないじゃないか」
嘲笑を浮かべて、作り声——つまり地声ではないあの中性的な声で、彼女はそう言った。
「い、いや……だって結び方、分かんね……から」
「さっさとマスターしろ世間知らずの愚民が。みっともない。そんなもの他国の人間に見られたらシェイディア様の顔に泥を塗るようなものだからな」
酷い言われようだが、素直なタスクは了承の返事をした。
「はい……。っていうか、……そんなに食べるの……?」
「ん? ……普通でしょ?」
イヴァリースの前には大皿がいくつも並べられている。
彼女自身はこれで普通だと言ったが、食べている量と内容がすごい。
もうすでに三つの皿を空にしており、今は四皿目らしいのだが、その皿に盛られているのがハムステーキ。しかも濃厚なソースがかかっている。
他の皿にも肉料理が中心となってのっていた。野菜は申し訳程度にしかない。タンパク質のオンパレードだ。
「……けど、お前もそれっぽっちしか食べないのか。田舎から出てきたばかりだからとことん贅沢するのかと思ってたよ」
「胃に悪いと思ったから……。あと何か、こんなの食べていいのかなー……って」
「ハッ」
タスクがぼそぼそと言うと、イヴァリースは鼻で笑った。
あまり話のネタないタスクと、元々親しい人以外とはあまり喋らないイヴァリースの組み合わせで会話が長続きするわけもなく、すぐに沈黙が舞い降りる。
常ににぎやかな家庭で育ったタスクは、それを気まずく感じた。
……何を話したらいいんだろ。
あれこれと考えながら、生ぬるい牛乳に口をつけて——。
「ごちそうさまでしたっ!」
「ゴフッ!?」
その口に含んだ牛乳を噴きそうになって、慌てて飲み込んだ。当然むせる。
半分涙目になって咳き込みながら、大合唱の出所を探した。
この騒がしい部屋の中で、驚く程の声量だったのだから相当な人数だろう。そう思っていると、ジル達百一人が目に入った。
元気に立ち上がるジルとは正反対に、他の人達は耳や頬を赤くしたり顔を隠したりしている。どうやら先程のは彼ららしい。
「……またジルか。いつものことだ、気にするな」
イヴァリースも口に入れるのを失敗したのか、ナプキンで口元を拭っている。
「これが……いつも、すかぁ?」
「……だからどんなことも驚くに値しないって、オズは言ったんだ」
これ……いつも……なのか……。
陽気な足取りで出ていくジルを目で追って、タスクはさっさと馴れた方がいいかなーと思った。
人の性格が世間からどう見られるのか分からないタスクにとっては、これもまた理解できないことなのだが、周りの人からして見ればジルは明らかに浮いている。……いろんな意味で。
言ってしまえば彼は型破りだ。あんなチャラチャラした格好と性格の百人隊長なんぞ前代未聞なのだ。今まで居たのでもせいぜいふてぶてしい人ぐらいだ。ジルなんてもう不適の域を悪い意味でオーバーしている。
「おい、そこの。死刑執行人といると危ない……なんだ、愚民か」
「ふえ?」
その声に顔を上げると、片手にトレーをのせたオドラータが立っていた。
長い髪を後ろで無造作に束ねている。青と黒のオッドアイが無感情にタスクを見下ろしていた。
「あー……え、えっと。おはようございます。……オズ? 将軍?」
「ん? ……あぁ、おはよう」
オドラータは意外そうに目を僅かに見開いた。
「オズ、遅い」
タスクの斜め前で、イヴァリースがぼそっと言った。
「ごめんって。おはようイヴァリース」
そう言ってオズは少女の隣に座った。
本名はあまり言ってはいけないのだが、数千人が出入りしガヤガヤと騒ぐこの広い室内では、聞いている人はいないので大丈夫なのだ。
「ん、おはよう」
またも素っ気なく返し、イヴァリースは空になった五つ目の皿を脇へ置いた。
「相変わらず、お前はよく食べるな」
どこか呆れたように、オドラータは言った。
そういう彼の皿には、タスクとそう変わらない量と内容のものが盛りつけられている。
彩り豊かなそれらは隣のイヴァリースと比べればかなり健康によろしいものだ。
タスクの兄も大食いだが、自分より年下の少女がここまで食べれるものなのかと未だに驚いている。
「それだけだったらあたし死んじゃう」
タスクに対するときと明らかに違う口調で言って、イヴァリースは六皿目を手にとった。今度のはローストチキンだった。
夜ならまだしも、朝からこの献立というのは見ているだけで胃に負担がかかりそうだ。
それにしても……。これだけ食べてよく細いままでいられるなぁ……。
実家の母親がいつも体型のことで嘆いていたのを思い出して、そう思う。
イヴァリースならそのままで、呼吸困難になるまで胴をコルセットで絞めた人と同じくらいの太さしかないだろう。
母のものを着せたらどれだけダブダブになるのかと考えながら、机の向こう側の細いウエストをぼんやりと眺める。
と、視線を感じてタスクは前を向いた。何故かオドラータが慌ててそっぽを向く。
「ところで、愚民」
咳払いをして、オドラータが口を開いた。
先程の彼の行動に内心首をかしげつつ、タスクは何ですか、と聞いた。
「お前はオレの隊の見習いだ……、つまり部下、だ。だからオレはお前にいろいろと教えてやらないといけない。癪だがな。その様子じゃ、ジルにまともなこと教えられてないだろ」
図星だ。
昨日ずっと二人で喋っていたのだが、どれもこれもしょうのない雑談で、唯一参考に——、大商家の息子であるジルの話は、王都を初めて見るタスクにとってはどれもこれも興味深かったのである意味勉強になったが、ここで暮らしていくにあたって必要なことで、教えられたことはたった一つだけだったのだ。それもオドラータ達の名前を詳しく聞いただけのものである。大半はジルの自慢話だった。
「で、オレの隊の田舎者でも基本の字ぐらいは読み書きできる。愚民、お前『おはよう』って書けるか?」
「……い、いえ」
その答えを聞くと、オドラータは額を押さえて息を吐いた。
字そのものは実家で見たことがある。両親が古ぼけた本を何冊か持っていたのだ。だが屋内に閉じこもって家事を手伝うより、兄に連れられて畑を耕すことの方が多かったタスクは、言葉のスペルを習ったことがない。兄弟共に字が読めないし書けないのだ。
「なぁ愚民。愚民は何でロエンに来たんだ」
ナイフで一口大に切った鶏肉を頬張り、今度はイヴァリースが口を開いた。
「ロ、エン……?」
「……王都、つまりここのことだ無知者が」
「えっ……と、出稼ぎ」
タスクがそう答えると、少女は哀れみの目を向けてきた。
説明するのが面倒くさいらしくイヴァリースは肩をすくめて、オドラータの肩を叩いた。
「オズ……頼んだ」
「何でまたオレに……。あのな愚民、知ってるか? リベルタ王国の生活水準と国民の学力の平均は他国より高いんだ。だから字の読み書きすらもできない奴を雇う店なんか皆無だ。そんなことも知らなかったのか」
「……………………」
「こいつは愚民だ、“愚かな民”なんだよ。オズ、少しでも希望を持ったあたし達が馬鹿だった……ハァ」
「……そうだな」
二人して酷い言い草だ。
一方、当のタスクは一種のカルチャーショックを受けていた。
当然と言えば当然なのだが、タスクの住んでいた“終わりの荒れ野”の住民にはとことん学がない。学校なんていうたいそうなものはなく、それどころか店もない。そんな訳でタスクにとって、字はどこか遠い国の文化みたいにしか感じられないのだ。
しかも、その字ができないと働き口が見つからないと言うではないか。身近に字がなくて当たり前の暮らしをしてきたタスクにとっては、このことは文化の違い以外の何でもない。
衝撃的だ。ここだけの話、タスクはジェスチャーと言葉が話せたらそれでいいものだと思っていた。
「……で、オレの部下にそんな馬鹿すぎる奴を入れる気はない。シェイディア様からの命令だから仕方なくしてるんだ。それで、他から白い目でオレの隊が見られるのが嫌だから、お前に勉強教えることになった。イヴァと二人で」
「え?」
「ちょっと!」
イヴァリースが抗議の声を上げた。が、オドラータはそれをスルーする。
「もちろん剣の稽古もする。……一から叩き直しだ。手加減するつもりはない」
「は、はい……」
オドラータに鋭く睨みつけられて、タスクは我知らず身を引いた。
「ねぇ、ちょっと、オズ」
「ん?」
「……何であたしも入ってるの」
「いやだって、お前暇だろ? あといろんな武器扱えて、多言語喋れるから」
あっさりとオドラータは答えた。
鈍くても本能が何かを感じ、タスクはまた少し身を引かした。
ガタンッ。
「私は! そんなに暇じゃあないッ」
乱暴に椅子を引く音と同時に、イヴァリースが立ち上がりざまに手を机に叩き付けた音がした。
その音と大声に、近くにいた何人かが何事かと振り向いた。
そこで我に返ったのか、イヴァリースはハッとして周囲を見た。自分達を中心として周りが静かになっている。
イヴァリースは小さく舌打ちし、食べかけの鶏肉を残して足音荒く食堂から出ていった。
少しずつざわめきが戻ってくる。それはジルが大合唱をやらかしたときのような文句の類ではなく、困惑を示すものだった。
「あー……。あれ、相当嫌がってるな」
オドラータ曰く、イヴァリースはいつも食事を残さない。あとあんな振る舞いはしないのだそうだ。そういうことをするのはかなり機嫌が悪いときだけらしい。
「何で急に……?」
「イヴァは馬鹿と一緒にいるのが嫌なんだ」
へぇ〜……と、タスクはうなずいた。オドラータの言う“馬鹿”が自分のことであるとは欠片も思っていない。
「あれはそういうのだからな……。なだめるのが大変だよ」
オドラータは少し遠い目をした。
彼はさっさと朝食を食べ終え、後で中庭に来いと言い残してイヴァリース同様に出ていった。
一人残されたタスクはしばらくパンを齧っていたが、そこで重大な問題に気が付いた。
タスクがここに来てまだ一日と立っていない。
王宮から下働きのための建物があるこの広大な城内は、馴れた者でも迷うことがあるのだと言う。そんな所を、方向音痴なタスクが一人で歩けるはずもなく——。
「……中庭って、どこだっけ?」
そう一人呟くことしかできなかった。