第一章 裁かれ人の幸運(3)
頭頂部をさすって、タスクは目の前の扉を見上げた。
騎士見習いの真新しい制服を手渡され、ハイテンションに喜んでいたらうるさいやかましいと、イヴァリースに殴られたのだ。
だが仕方のないことなのだ。
タスクは今までまともな服を持ったことがない。だいたいは兄や父のお古や、捨てられていた布切れを縫い合わせたものだった。どれもこれも繕った痕がたくさんある。だからこんなに白くて新品で、周りの人から見たらいささかダサいと思われる飾り気のなさの服でも嬉しいことこの上ないのだ。
やっぱりここは天国だ……!
隣でイヴァリースが溜息を吐いたが、鈍感な少年は気付く訳もなく、
「オズ、早く戻ってこないかなぁ……。こんな奴といたらこっちが死にそう」
言われた言葉の酷さにも気付かない。
先程から扉の内側からオドラータの怒鳴り声が聞こえてくる。イヴァリース曰く、ここは兵士専用の建物で、この中にはとある百人隊長がいるのだそうだ。そしてオドラータが彼に、タスクのことを説明しているらしい。
「あー……、愚民」
「は、はい?」
「お前…………。いや、なんでもない……。この中のクソッタレ……の、百人隊長、貴様の同室者になる奴だけど、そいつも含めて他の人間に、私のことあまり喋るな」
「何で……、どうしてですか?」
「ハッ、お前には関係ないだろう。そもそも愚民の腐りきった無知の脳で理解できる訳がない」
イヴァリースは白黒の仮面を着けたままで、タスクの目を下から覗き込んだ。
意外と言えばそうなのだが、この少女は自分よりも若そうだし背も低い。タスクの目のあたりに彼女の頭頂部がくる程度なのだ。
そんな奴に偉そうな口きかれては、大抵の人は腹を立てるものなのだが、タスクは良い意味でも悪い意味でもそういうことはない。言ってしまえばただ単に『プライドが低い』だけなのだが。
「分かったか愚民」
見下した表情の彫られた不気味な仮面の奥、影に閉ざされてあまり見えない紅い目が、タスクの目を直視する。
「は、はい……」
そうタスクは答えたが、イヴァリースはそのままで動こうとしない。いくら鈍いタスクでも居心地の悪さを感じる。視線をそらそうとしても、その度に、射るような視線と静かなプレッシャーを向けられて固まってしまうのだ。
「……約束破ったら、愚民、貴様の首斬り落として街中に晒すからな」
「…………」
背中に斧をくくりつけているせいで、この子が言うと現実味がある。
何も答えられずにいると、タイミング良く扉が開いた。
たった数分中にいただけなのに、すごく疲れたように見えるオドラータは、ブツブツの呪詛の言葉を吐いている。
「ったくあの馬鹿が。大商家の子のくせに何なんだあの態度と頭の悪さは。少しはこっちの身にもなれ礼儀知らずが……」
「……オズ、愚痴は後で聞いてあげるから本題入ろうよ」
「あぁ……。本題って言ってもな。おい愚民、説明はこの中の百人隊長がしてくれるが……、その前に三つだけ言わせてもらう。……どんなことも驚くに値しない。だからあきらめろ。そして染まるな。以上」
それだけを言い放って、オドラータはさっさと歩き出した。
どういう意味なのかさっぱり理解できなかった愚民呼ばわりの少年は、訳が分からずそんな彼を見るが、オドラータは振り向いてくれない。
イヴァリースはうつむいて肩を震わせている。何かと思ったら笑っていた。
「あ、あの……?」
「……っ、あはは! ねぇ愚民、入ったら分かるよ。頑張りなよ、人生何事も経験だ」
これまた意味深な言葉を残して、小柄な少女は走り去った。
「へぇっ? ちょっ……あ…………へ、はぇ」
どうしたらいいのか分からない。
しばらく扉の前で立ち往生して、タスクはドアノブに手をかけた。
と、とにかく入ろ……。
ノックなどというマナーを知らない少年は、無遠慮に扉を開ける。
ガチャッ。
豪華な——、というより世間一般から見たら派手、否、けばけばしく思える室内の風景が、視界に飛び込んできた。
床には外国産らしきじゅうたん。カーテンには金色のカスゲートがウザったくなるぐらいにぶら下がっている。良質のレンガでできた暖炉のマントルピース上には、絵皿や金銀細工が所狭しと並べられていた。
全体的に赤と金が多い。あとやけに高価な物が家具や雑貨にされている。金持ちであることをやたらと誇張したいらしい。
部屋の中央部に置かれた肘掛け椅子から、スッと人影が立ち上がった。
その人はタスクに目をとめ、心からの歓迎を示すかのように両腕を広げて——。
「ヘェイ、ヤッホー! おれの名前はジル・フィ・レシアニアンって言うんだゼ☆ トライシオンって呼んでくれよな! よろしくッ」
…………。
「へ、ヘェイ!!」
テンションが大変高い挨拶をされた。つられてタスクも思わず、同じような挨拶を返してしまった。
「おおっ、こんなノリの良い奴がおれの同室者になるのか! こんな反応されたのはじめてなんだよ嬉しいなー!」
ジルと名乗った青年は、タスクの前までやって来た。
……これが、百人隊長?
常識をまともに知らず、基本の字も読めない薄っぺらな知識の持ち主であるタスクでも、国に君臨する人に仕えているオドラータ達に愚民愚民とけなされる程、一般市民と一線をかいするタスクでも、このジルとかいう人が明らかに百人隊長らしくないということが分かる。
タスクの頭の中にある騎士像というのは、おとぎ話に出てきた英雄だとか、誘拐された姫君を助ける王子だとか、そんな夢きらきらな安っぽいものしかないのだが、それでも目の前の青年が百人隊長向きではないのは明確だった。
「そ・れ・でっ、お前の名は何と言うのかい?」
「タ……タスク。だぇ……す」
「あれ? 苗字は? ……ないんだ。それじゃ、歳はいくつ? ちなみにおれは二十七歳なっ」
二十七……っ!?
タスクは目をみはってまじまじとジルを見返した。
とてもそんな年齢には見えない。その童顔ではせいぜい十八歳ぐらいにしか思えないのだ。
しかし——それは、彼の装いのせいでもあった。
疲れを一切感じさせない爽やかな顔立ちで、世間から見れば格好良いという部類に入るような整いぶりだ。青紫色の目も綺麗だ。
そこはいい。……そこまでは、いい。問題はその次だ。
まず一つ目。ジルとやらはこの国の民の大半がそうであるように、髪の色は金だ。それを首の付け根あたりまで伸ばし、かなり目につくピンクのメッシュを右の側頭部にいれていた。
次に、身につけているアクセサリー類が異常なまでに多い。首にはネックレスを三重に巻き付けており、両耳にはたくさんのピアスを刺していた。とりわけ派手なのは、深紅の宝石をあしらったチェーン付きのハーフピアスと銀のリングピアスだろうか。数えてみると左耳だけで四つもあった。
あと首の左半分に白黒の刺青が彫られている。それと着ている服がとても派手派手しく、己の財力を他人に見せつけるかのように、コートのボタンにはカットの多い大粒のダイヤモンドが埋め込まれていた。
——などと、とにかくジルはチャラかった。
辺境から出稼ぎに来た無知なタスクでも派手過ぎだと思うのだから、オシャレと流行を追いかけるのが常の一般市民から見れば前例がないぐらいチャラいのだ。
「あれっ、信じてないのか? 本当だって。おれ二十七歳! レシアニアン家の末っ子さ!」
知るか。
そう思いもせず言いもしないところは、タスクの良いところでもあり悪いところでもある。
だがもちろん、内心では少し引いていた。
右手の立てた親指を自分の胸に突きつけて笑うジルに戸惑いつつも、タスクは十八歳であることを告げた。
「おっ、歳下なのか。っていうことはおれの方がお兄さんだなー。しっかし……、青春真っ最中のくせにぼんやりしているよな、顔が」
お前に言われたくねぇよ。
これと似たようなことを言ったとき、ほとんど全員がそう返したそうなのだが、さすがは安直な考えしかできないタスクだけあって、そうですかーと素直な返答をした。
「将軍に同室者としていろいろ教えてやれって言われたんだ。けど、お前、そんないっぺんに言われたって分かんないよな。生活は皆と同じようにしてたら分かるって」
明るい笑顔でジルは無責任なことを言う。
「まっ、今日は二人共初対面なワケだし? お気楽にお喋りでもしとこうぜ!」
そう言って、全くそうは見えない二十七歳の隊長は、ゆったりとしたソファに座った。勧められてタスクもカウチに腰掛けた。
二人で紅茶を飲みながら、タスクは部屋の内装をじっくりと観察した。
壁紙にはアラベスクの絨毯によく似た物を使っている。ぴかぴかに磨き上げられた眩しい銀色の、しかもアクセントとして水晶らしき小さな石がニ、三個飾りにされた鎧が部屋の隅に置かれていた。そしてその横には、マホガニーのコンソールテーブルが置かれていて、その上のやたらとカットの多いクリスタルの花瓶には香りの強い大輪のバラが生けてある。
物珍しそうにそれらを眺めるタスクに、先程からジルが品物の説明をしてくれているのだが無駄な努力だ。「あれはエレニウス連合の秘境“神精の森”の大樹で作られて……」とか、「これはレージェン侯国のウリアっていう街で作られた……」などと教えても、どこのことを言っているのかすらも分からないタスクに、調度品の一つ一つがどれだけの破格なのか分かるはずないのだ。
オラ、こんな天国みたいなところで寝るのかぁ……。
普通の人なら恐れ多いと思うものなのだが、タスクはそんなことなく、金持ちってスゴイとしか思っていない。元からの性格と、育った環境に影響されてすぐに馴れるのは良いことなのか、それとも悪いことなのだろうか……。
「……あ、そう言えぁ、ジルさん」
「トライシオンって呼べって言ったじゃん!」
聞きたいことがあったので呼びかけると、そう返ってきた。
「へっ? あー……そうだけど……。どうしてトライシオンって」
「だってかっこいいじゃないか!」
「……」
さすがのタスクでも言葉に詰まった。
「そ、そうすか……。じ、じゃあトライシオン……さん」
「フッ、何かなタスク君。……本当は『さん』じゃなくて『様』が良いんだけど、お前だけは特別扱いで呼び捨てでも良いぞ! ちなみにこの名前で呼ばせているのもお前だけなんだぜ、感謝しろよナッ」
「ヤ、ヤッター」
家族の影響で訳が分からなくてもとりあえずノリだけは良いタスクがそう言うと、格好つけたがり屋のジルは気を良くしたようだ。
タスクは知るよしもないが、トライシオンと呼ばれていないのは、ジルが周囲の人に教えていないのではなく、誰もそんなので呼ばねぇよと、全員に却下されたからだ。つまりタスクが初めてとなる。
「それで、何だい?」
「えっと……ここに来るまでオラ結構人に会ったんですけど、皆名前が分からないからトライシオンに聞こうと」
「アハハ嫌だなぁ敬語はやめたまえよ。おれ達同じ部屋の住民だからなー」
「う……うん。え、じゃあ……誰だっけ? 右と左で目の色が違う、女の人みたいな男の人ってェ」
「オッドアイと言えよ……。彼はオズ将軍。オドラータ・ル・グラッドストーン。おれ達の上官だよ。たぶんおれより四歳ぐらい若いんじゃないかな」
確かにそんな名前だった気がする。右が青、左が黒という瞳の色の違いの方が興味を引いたので、名前まで記憶できなかったのだ。
実家では周りの人が全員黒色だったということもあり、タスクにとって王都の人は神秘の箱のようなものなのだが、これでも人間の目の色は左右同じだという認識はあったので、人にあるまじき真紅の目よりもオッドアイの方が遥かに珍しく思えるのだ。
「それじゃあ、不気味な仮面着けてる子は?」
あまりにも抽象的な表現だ。が、リベルタ城内で仮面を着けているのは一人しかいない。それだけでジルには誰のことなのか分かった。
「あー……。その人はイヴァリース。銀髪の子だよな? 間違ってないよねおれ。さぁー、あいつのこと誰もよく知らないんじゃないかなー。でも上の人は知ってそう。大体の人はイヴァリースっていうのが、ファーストネームなのか苗字なのか偽名なのか分からないから、“仮面の人”とか“死刑執行人”とかって呼んでいるんだ。誰も性別も素顔も知らないと思う。……女の子だと思うんだけどなぁ。体格的に十四、五歳ぐらいだもんね。そんな人が拷問とか人の首斬りとかしないんじゃないかなー……」
ジルは紅茶を一口飲んで考え込んでいる。
もちろんタスクは、イヴァリースの素顔も性別も仮面の下に隠された残酷さも知っている。だが口止めされたばかりなので、言う訳にはいかない。
「へぇ……。後は女王様と……、あと、その横にいる真緑の人は?」
「真緑ぃ? あー……リズエルさんね、うん。あの人はシェイディア様の側近だよ。何だったかな……。リズエル……、リズエル・ヴァン……リングフェルト……だったかな。シェイディア様が小さいときからいるみたいだね」
「そーなんだ。ありがとぅ」
ジルは愛想良く笑った。
「とにかくっ、これからヨロシクなっ、タスク!」
「うん」
今日から、オラは兵士なんだ……。
タスクも笑いを返し、それから二人は、長く他愛のない話に興じた。
人っ子一人いない廊下に、カツンカツンと音が響く。
ランプの淡い光だけを頼りにして、ブーツの立てる足音高らかに、ようやく自分の部屋に辿り着いた。
室内の明かりを点けて、イヴァリースは仮面をはぎ取った。
血のしたたるフランベルジェという剣を置いて、これまた血に汚れたマントも脱ぎ捨てた。
チャラチャラと金属音がする。マントの裏側にはいくつものポケットがあり、拷問道具——例えば釘だとか、ナイフだとか、鎚などが入っているのだ。今日はどれもこれも血で汚れている。
メイドが用意していったらしい水の張った桶に、それらの道具をぶちこんで席につく。
さっきまでオドラータ達が連れてきた捕虜の相手をしていたのだ。祝いの日でも仕事はなくならない。
捕虜は五人いるのだが、内一人はもうすでに発狂してしまい、一人はそんな仲間を見て、知っている情報を僅かに喋り、他の三人は今気を失っているところだろう。
今から、その得た情報を報告書にまとめないといけない。
汚れた手をぬぐってペンを掴むが集中できない。
他のことが、気がかりなのだ。
いつもは捕虜をいたぶることが心から楽しい。けれど、今日に限ってそんなことはなかった。
原因は——、分かってる。
チリーン……。
静かで清らかで、それでいて耳によくつく鈴の音がした。
体の向きを変えて、窓から入ってきた黒猫を抱き上げた。
首に白色の華やかな輪をはめた、毛並みの良い猫だ。漆黒の毛に浮かぶ双眸は、イヴァリースと同じ瞳孔が縦に黒く切れ込んだ、真紅の目。
「あぁ……ルージュ、おかえり」
この猫——、彼女の名前はルージュ。イヴァリースが幼いときから近くにいる。
「ミャー」
「……うん。ちょっと気になることがあって、ね」
すると、ルージュが応えるかのように……歌った。
言葉のない、ただ口を開けたら出てくる音を伸ばしただけのように聞こえる、そんな短い歌。長く鳴いただけにしか聞こえないけれども、ただの叫びみたいだけれども、ちゃんと音階はあった。
「ん? ……そう、新入り。頼める?」
「ニャア」
猫は再び鳴いて、イヴァリースの膝の上で丸くなった。
その背中を撫でながら、ペン先を紙に滑らせてみる。が、数文字書かない内に、イヴァリースは執筆を放棄した。
提出は別に明日でも良い訳だし、自分の記憶能力は翌日になれば細部を忘れるなどというチャチなものではないので大丈夫だ。
ルージュを抱きしめて、脳裏にあの新入りの顔を浮かべる。
間の抜けた、いかにも阿呆そうな表情。覇気がなく、言われたことにはすぐに従いそうな、下らない人間——。
とてもそんなことできそうな人には見えなかったが……。
「……あいつ、あたしを斬ることに躊躇しなかった」
それは、剣が当たると思わなかったからなのか、それとも彼の本性なのか——。
分からないことに考えを巡らしても仕方がないから、イヴァリースは目を閉じた。