鏡の裏の「待ち時間」
それは、本当に些細な違和感から始まった。
一人暮らし三年目の古いアパート。家賃の安さは気に入っていたが、洗面台の三面鏡だけが昔から少し不気味だった。
ある夜、歯を磨きながら中央の鏡を開けた時。
「あれ?」
一瞬、指先に触れた空気が明らかに冷たかった。冷蔵庫を開けた時のように、ひんやりとした冷気が奥から漂ってきたのだ。
次の日の夜、鏡を閉めようとした瞬間、その「裏側」からかすかに音が聞こえた。
サ……、ササ……。
古い画用紙を爪で引っ掻くような、乾いた、ごく小さな音。
ネズミかと思い鏡を全開にして奥の壁を叩いてみたが、返ってくるのは空洞音だけだった。
だが、恐怖の本質はそこではなかった。
それに気づいたのは一週間後、雨の火曜日。
深夜二時、喉が渇いて目が覚めた。洗面所で水を飲み、ふと鏡を見た。寝起きの冴えない自分の顔が映っている。
何気なく、中央の鏡を手前に開いた。中には見慣れた洗面用具。何もおかしなところはない。
……いや、何かがおかしかった。
私は鏡を閉じた。心臓がドクンと跳ね上がる。
「今、鏡を開けたよね?」
脳裏に強烈な違和感が突き刺さる。
鏡を開ける瞬間、鏡面は私の顔から逸れ、壁や天井を映しながら動くはずだ。だが、鏡が動き、角度が変わっていく間も、視界の端にはずっと『正面を向いた私の顔』が映っていた。
全身の毛穴が収縮し、冷や汗が吹き出す。
手の震えを抑えながら、もう一度、鏡を開く。ゆっくりと。
斜め四十度、六十度。普通なら後ろの壁が映る角度だ。しかし、鏡の中の「私」は、依然としてこちらをじっと見つめている。
それだけではない。私が恐怖で顔を歪めているというのに、鏡の中の「私」は、一切の感情を失った無表情のままだった。
「あ……、あ……」
声にならない悲鳴が漏れる。
鏡が完全に開ききる直前、鏡の中の「私」の視線が、少しだけ下にずれた。
「私」は、枠を掴んでいる、現実の私の指を見ていた。
そして、鏡の向こうの暗闇から、ゆっくりと手が挙げられた。
土気色に汚れ、爪が不自然に長い、痩せ細った腕。その手が、鏡のフチを内側からガシッと掴んだ。
ガタガタと洗面台が揺れる。そいつは、鏡を開けるという私の動作を「手伝って」いるのだ。
鏡の裏にあるのは、無限に続く、光の届かないどす黒い空洞だった。
鏡の中の「私」の顔が、ずるりと歪んだ。口角が耳元まで裂け、黄色い歯が剥き出しになる。それは私を真似るのをやめた、全く別の「モノ」の笑顔だった。
そいつは身を乗り出そうと、手に力を込める。長い髪が境界線を越えて、洗面台にハラハラと落ちた。
「嫌だあぁぁぁ!」
私は狂ったように叫び、全身の体重をかけて鏡を叩き閉めた。激しい音がして、鏡にひびが入る。
それ以来、洗面所には入っていない。電気もつけっぱなしだ。今すぐこの家を出ようと、リビングで震えながらカバンに服を詰め込んでいる。
しかし、作業をしながら気づいてしまった。
あいつは、私が鏡を開けるのを待っていたのだ。
今まで私が何気なく鏡を開けて、歯ブラシを取り出し、閉めるまでの、あのわずか数秒の間。
あいつはいつも、鏡の裏の暗闇から、私のすぐ目の前まで身を乗り出していた。私が気づかなかった何百回、何千回という「待ち時間」の間、あいつの顔は、私の顔の、わずか数センチ先にあったのだ。
サ……、ササ……。
リビングのドアの向こう、誰もいないはずの洗面所から、あの音が聞こえ始めた。ひび割れた鏡の隙間を、内側からこじ開けようとする、乾いた爪の音が。
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