第二章 灰色の王子④
捕虜の王子収容から約二週間が過ぎた。王国軍が本国を出発してからすでに一月以上経ち、ようやく翌日には総司令であるレックスと本隊が帰還するという。その報を受け、トゥレンは安堵の息を漏らした。
主の身を案じていたからではない。そもそもまともな交戦すらない、戦争ではなく接収作業だったのだから、総司令の身に危険が及ぶ可能性は大いに低い。それよりもレックス本人と王国軍の長期の不在が一番の懸念材料だったのである。
これまでも蛮族鎮圧などでレックス自らが陣頭指揮を執ることはあったが、大軍勢を率いるほどではなく、また戦場もせいぜいが国境近辺に過ぎなかった。他国の奥深くまで侵攻して王都を制圧するような大規模行軍は、今回が初めてであった。総司令のレックスは王国軍のほぼすべてを掌握しているが、一部にだけ彼の統帥権の及ばない兵力が国内に存在する。それが国王夫妻直属の王室近衛軍と教会組織に属する聖騎士団である。
王国軍の大半が国を空けている今、本国で留守を預かるトゥレンたちは軍団駐屯地にいても、実際には身の危険が付きまとっていた。しかも敵国の王族捕虜の処遇のために、さらに危険な王宮と往復する日々は確実にトゥレンの精神を削っていたのである。
(――これで奴らの動きも収まれば良いのだが)
すでに王国軍侵攻直後、聖騎士団はレックスのいない隙を突いて暴走している。駐屯地に残る寡兵ではいくらトゥレンでも制御しようがなかった。そんな国内勢力の綱引きに苦心している中、子供の捕虜の世話までさせられていたのだから、過労で倒れてもおかしくないほど彼は消耗していた。
だが、それも今日で終わる。
明日、総司令以下王国軍本隊が帰還すれば、いくら愚かな聖騎士団たちでもむやみに動くことはできなくなるはずだ。その希望だけが今の彼の精神を繋ぎ止めていた。
これが最後と重い腰を上げ、トゥレンは日課となってしまった王宮通勤の支度を始めた。現在、ヴァルクレウス王宮はレックスにとって最大の政敵の牙城である。そんな魔窟に毎日通うのは自殺行為に等しいが、王族捕虜という甘美な餌を無防備に放置するわけにもいかないのだ。
それでも何とか宰相府と折衝し、王宮内でもぎりぎりレックスの支配下にある王子離宮内にヘリオスを置くことを許可させたのは、トゥレンの交渉術によるものである。もし本宮にでも置いたら、その日のうちに重要な捕虜を奪われていただろう。
重い足取りで駐屯地を出ようとしたその時、一人の兵士が大慌てでトゥレンの元へ駆けてきた。
「たっ、大変です! 補佐官殿! あの、じ、じじ、」
「少しは落ち着きなさい。それでは報告の意味がありませんよ」
深い溜息とともにトゥレンは叱責する。兵士は大きく息を吐き出して呼吸を整えると、とんでもない台詞を放った。
「侍女が! 侍女たちが反乱を起こしました!」
「――はあ!? 何ですって!?」
いつもの鉄面皮を脱ぎ捨て、トゥレンは落ち着きなく叫んだ。
王子離宮――十年間主不在のその区域に、今は西から来たもう一人の「王子」が寝起きしている。
虜囚の王子ヘリオスを監禁していた部屋の前が、にわかに騒がしくなっていた。
「ヘリオス様をお守りします!」
「私たちはどうなっても構いません! ヘリオス様に自由をお与えください!」
侍女たちの群れが、口々に叫んでヘリオスの部屋の扉を固めている。警備兵たちが何とか彼女たちを取り押さえようとするものの、
「兄さん、そこをどいて! 私たちはヘリオス様をお助けするの!」
「馬鹿、何を考えてるんだ! いいからそこを離れろ!」
兵士の身内から侍女を選抜したことがかえって仇となった。お互い身内同士では、乱暴に制圧することが心情的に難しい。しかも、侍女たちは想像以上に過激化していた。
「道を開けてください! そうしないと私たちはこのまま喉を突きます!」
「ヘリオス様のためなら命など惜しくありません!」
侍女たちの手には小さなナイフが握られ、その先端は自らの喉元に押し当てられていた。邪魔をすれば自決すると脅されては、兵たちも手を出せない。これが赤の他人なら無慈悲に斬ることも可能だったかもしれないが、自分や仲間の身内を手にかけるには、あまりに唐突すぎて彼らも覚悟を決められなかった。
「――いったい何の騒ぎですか!?」
ようやく現場にたどり着いたトゥレンが、珍しく大声を上げた。
もはや状況は混沌の域を超えていた。
捕虜の監禁部屋の前で、警備兵と侍女たちが身内同士で揉み合っている――こんな馬鹿げた状況をどうやって想像できただろうか。トゥレンは頭痛と目眩でその場に崩れ落ちかけた。
「補佐官殿! 申し訳ございません、うちの妹たちがいきなり……」
兵の一人がトゥレンの元に駆け寄った。その目にはうっすら涙が浮かんでいる。厳しい鍛錬を積んだ「鉄の軍団」の一員であるはずの彼も、妹が突然発狂して捕虜のために命を捨てるなどとわめき出せば、さすがに泣きたくもなるというものだった。
「なぜ侍女が全員……」
トゥレンはうめくようにつぶやいた。
現場で騒ぎを起こしている侍女は七人。このたび急遽配備した者たちの全員である。捕虜に情が移らないようにとあえて毎日交代で世話をさせていたのに、かえって反乱の人口を増やす羽目になるなどと、想像できようはずもない。
しかも彼女たちは多くとも二回しか捕虜と接触していないはずなのに、なぜここまで過激に心酔しているのだろうか。女の情動は不可解なものと今まで切り捨ててきた彼にとって、これはもはや悪夢の極みでしかなかった。
ズキズキと痛む頭を押さえていると、トゥレンはそこでようやく別の異変に気がついた。慌てて彼は周囲の兵たちに指示を飛ばす。
「皆、口と鼻を覆いなさい! この香を吸ってはなりません!」
あまりの惨状に目を奪われて気づくのが遅れてしまった。だが、ここには明らかに異様な香りが立ち込めている。恐らくは回廊を照らす灯火の中に、何者かが香を仕込んでいたのだろう。
よく見れば、侍女たちの目はとろんとして、焦点が定まっていない。叫んでいるのに口元も緩んでいる。そして対応する兵士たちも、どこか動きが緩慢で、冷静な判断力を失っている。
(――まさかここまでするとは)
トゥレンは内心、歯噛みした。
この異様な香こそが黒幕の正体を雄弁に語っている。だからこそ、彼は苛立ちと屈辱に内臓を焼かれるような痛みを覚えた。
もはや反乱分子と化した侍女たちを強制排除するしかないかと考え始めたその時――
「何をしておる? 道を開けよ」
いっそう強まる香とともに、腹の底まで一瞬で冷却するような声が背後から上がった。
「な、なぜこのようなところへ――……」
思わず問う声が掠れているのをトゥレンは自覚した。いくら彼でもここまでは読み切れるはずもなかったのだ。
「可哀想な王子が囚われていると聞いて迎えに来ただけのこと。早うそこをどくが良い、無礼であろう」
黒いヴェールに覆われていても、その下の顔が勝ち誇っていることは想像に難くなかった。その女は護衛騎士たちを従え悠然と回廊を進み、騒ぎ立てていた侍女たちすらひれ伏させ、堂々と捕虜の部屋へ到達した。
「おお、可哀想に。もう恐ろしいことはないぞ、ヘリオス王子」
女がそう呼びかけると、少年は満面の笑みを浮かべてその胸の中へ飛び込んだ。
「ありがとう、皇后様」
女の胸に顔を埋めながら、ヘリオスはちらりと視線を向けてくる。――そう、トゥレンたちの方へと。その瞳に嘲笑と侮蔑の色が浮かんでいることを、トゥレンは見逃さなかった。
(――いったい、いつから)
もはや疑いようもない。彼は全てを悟った。これは共謀によって仕組まれた事件なのだと。
「今日からヘリオス王子は私のところで保護する。良いな?」
有無を言わさぬ台詞を残し、女はヘリオスを腕に抱いたまま去っていった。震えるほどの怒りをこらえたまま、トゥレンはその背を見送ることしかできなかった。
ヴァルクレウス王国皇后ベルダ――この女こそが、彼らにとっての最大かつ最凶の敵なのである。




