第四章 灼熱の魔女⑥
ニコスはミリアの父親と同じエピオナの医師だった。医師同士、仕事上で関わることも多く、幼い頃から父の手伝いをしていたミリアも自然と顔を合わせることも多かった。
知識も技術も経験も充分ある医師でさえ、悪意の業火により一夜にして故郷も資産も誇りも奪われてしまうのだ。
その現実の冷たさにミリアは何度も折れそうになりながら、それでも今はニコスの利き手を治すことに専念しようと集中した。
「思ったより癒着は深くない。これなら切開できるかも」
改めて手指の症状を確認したミリアに、ニコスは問う。
「ミリア、やれるのかい」
「このまま放っておいても治らないでしょ。だったらやれるだけやってみないと」
「だったら……これを使ってくれ。逃げ出す時に唯一持ち出せた最後の一瓶だ」
ニコスが差し出した陶器の瓶を見て、ミリアは目を大きく見開いた。
「これ……! そう、だから思ったほど化膿してなかったのね……」
アウレリアたちに二人の医師の会話はほとんどわからない。成り行きを見守っていた二人は、いきなりミリアから鋭い指示を飛ばされて意表を突かれた。
「ユリウス! ちょっとその辺で安酒でいいから最低二本買ってきて! アウレリアはこっちでちゃんと手を洗って!」
こうなると二人とももはや助手に専念するよりない。ユリウスはなぜ自分が顎で使われているのかという思いがよぎったが、足は素早く近くの市場へと駆け出していた。
こうして粗末ながらも準備が整い、ミリアは火傷による手指癒着患者の切開手術を開始した。
麻酔はない。代わりにユリウスに買わせた安酒を原液のまま盃で数杯分一気に飲ませる。この当時、セルディアでもエピオナでも葡萄酒などの酒は水で割って飲むのが当然とされている。そのため、飲みなれない原液を空腹と疲労の蓄積した体に流し込めば、瞬く間に酔いが回る。麻酔の代わりに行われる苦痛緩和の処置であった。
それでも痛みは避けられないため、口には猿轡を噛ませ、暴れないようユリウスが患者の体を掴んで固定する。
アウレリアは手元を照らすための灯火を持つ役回りを与えられた。よく見えるようにと手燭をミリアに近づけると、注意を受けた。
「レーナ、この皿に火は近づけないで。燃えて危ないから」
ミリアが指すのは手元に置かれた深皿だった。中には先ほどニコスから受け取った瓶の中身――透明な水のようなものが入っている。
「燃える……?」
「説明は後でする。じゃあ始めるよ」
ミリアの手際は実に素早かった。使用するのはユリウスから借りた細いナイフ。余計な動きなど欠片もなく、流れるように小さな刃で患者の癒着した皮膚を切り開いていく。ニコスはやはり激痛を感じていたが、猿轡を必死で噛みしめながら耐えていた。
透明な液体にさらした小さな白布を患部に当てて巻き付けると、ミリアは大きく息をついた。
「何とか癒着は切り離せたみたい。白布と残った酒は消毒用に置いていくから、あとは自分で処置してね」
苦痛と感謝で目に涙を浮かべながら、ニコスは黙ってうなずいた。
「凄いね、ミリア。あっという間に治せるなんて」
手燭を離れた台に戻すと、アウレリアは初めて見る医療技術に感嘆の声を上げた。
「まだ……治せたわけじゃないけどね」
桶で手を洗いながら、ミリアは表情を陰らせる。
「それで、その水はいったい何なんだ?」
そろそろ尋ねてもよい頃合いかと、ユリウスはようやく疑問を口にした。アウレリアに近づくなと注意した、あの透明な液体。手術中、ミリアが刃物や白布をさらすのに幾度も使っていたものである。
「これはヒュドール・ピュロス――エピオナ語で燃える水、と呼ばれるものだよ。目には見えない毒を殺すための特殊な液体なんだ」
ミリアの説明にアウレリアは首を傾げる。
「水なのに燃えるの?」
「水というより元は酒だからね。それをとびきり濃くしたものだよ。火に近づけると一気に燃え上がるんだ」
まだ実感のわかなそうなアウレリアを見て、ミリアは小さなナイフの先を『燃える水』に浸して軽くぬぐった。
「ほら、この刃の先をよく見てて」
そう言いながら、彼女は手燭の炎に切っ先を近づける。その距離が小指の長さほどに近づいた時、刃物の先端がパチッと音を立てて火が走った。
「本当! 燃えたわ! ねえ、ユリウス見た!?」
手術の直後だというのに、アウレリアは新しい玩具を見つけた子供のようにはしゃいでいた。
ヒュドール・ピュロス、それは主に葡萄酒などを蒸留した高濃度の酒精である。この時代、エピオナ以外ではほとんど蒸留技術も消毒知識も発展していない。エピオナがあえて隠匿していたわけではなく、まだ技術も不安定で大量には作れなかったこともある。それに密閉容器の製造や保管も難しく、遠方へ運ぶにはまだ不向きであった。
そのため、見習い時代には衛生兵補助もしていたユリウスでさえ、この『燃える水』は初めて目にしたのである。
「親父さんによく似ているな……」
少し酔いが醒めてきたのか、横たわったままのニコスがそうつぶやいた。
「手術の手際も、そうやって実験してみせるところも……あいつにそっくりだ……」
その言葉にミリアはうつむいた。
「お父さんとは……あの日以来会ってないよ。当日は私と同じように往診に行ってたから、もしかしたらどこかで逃げ回ってるかもしれないと思ってたけど。おじさんはここまで来る途中で見かけなかった?」
本来なら再会してすぐに訊きたかったであろうことを、ミリアは手術を終えた今、ようやく口にした。だが、ニコスは術後の不調のせいだけではなく明らかに口ごもっていた。
「ニコスおじさん……何か知ってるなら教えてくれない? 他に訊ける人なんてもういないんだよ」
ミリアはニコスの無事な方の手を強く握りしめた。真摯な瞳でまっすぐ射貫かれ、彼はこれ以上口を閉ざすわけにはいかなかった。
「……俺はあの日、おまえの父親を見た」
ニコスは沈思の後にそう切り出した。
「夕方、俺が家に帰ってきたのと同じ頃、街の外れですれ違った。往診から戻ってきたんだろうな……そのまま自宅の方へ行くのを俺は見てるんだ」
握りしめるミリアの手がかすかに震える。それに気づいてもなお彼は続けるしかなかった。
「それからしばらくして東の兵が突然攻め込んできて、診療所を襲い始めた。そのうち誰かが火をつけて、それが街全体に一気に広がったんだ。俺は初め、兵から隠れるために地下室にいたんだが、火が回ってるのに気づいて逃げ出したんだ。街外れだからまだそこまで焼かれずに済んだけどな。おまえの家は……街の中心部だったよな……」
「そんな……何で……」
ニコスの目撃証言から推測される答えはほぼ決まっている。だからこそミリアは問わずにはいられなかった。
「あの日、お父さんの往診は東の貴族の屋敷だった……帰りはもっと遅くなるはずだったのに……」
ミリア自身、当日は現場にいなかったから直接焼かれずに済んでいる。同じように外出していた父も、もしかしたら同じように逃亡中なのではと――そうであってほしいと彼女はそれだけを願って今日まで耐えてきたのだ。
それなのに、今の言葉はそのすべてを覆すに足るものだった。
「すまない、ミリア……」
頭を下げるニコスに、ミリアは小さく首を振る。彼のせいではないことはわかっている。責めるつもりはない。――むしろ感謝すべきだろう。この先の指標を与えてくれたのだから。
「ううん……大丈夫。ありがとう、おじさん」
ミリアはそう言ってニコスからゆっくり手を離した。もはや震えは収まっている。彼女はすでに心を決めていたのだ。
「ミリア……」
心配そうに呼びかけるアウレリアに、彼女はかすかな笑みを返した。
「ごめんね、アウレリア。これ以上はあんたたちとは一緒に行けなくなった。私、里帰りしなきゃ」
里帰り、と彼女は軽く口にする。その帰るべき里などもうないと痛いほどわかっているにも関わらず。
「何言ってるの!? そんなところに戻ったら殺されちゃうかもしれないんでしょ!?」
ミリアの無茶な発言に、アウレリアは正面から叱りつけた。今までミリアの指示に従って動いてきた彼女が初めて異を唱えたのである。そして同調するようにユリウスもミリアを制止しようとした。
「なぜ西に侵攻している最中に東の兵がエピオナを焼いたのか、俺にはわからない。不明な以上、対策も立てづらい。女一人じゃあまりに危険すぎるぞ」
「そうだよ! 一人じゃ危ないよ!」
アウレリアはユリウスの援護を得て、さらに力説する。そして、ユリウスにこう告げた。
「ねえ、ユリウス。だから私たちも一緒に行こう? ミリア一人では行かせられないよ」
「あ、いえ、そういう意味では……」
ユリウスは確かに女一人では危険だと言ったが、それは行くのをやめさせるための警告である。女一人が男一人と女二人に変わったところで危険性に大した違いはない。むしろ非戦闘員が増えている。
しかし主は、よりによってユリウスの言葉を根拠に自分まで行くと言い出したのだ。彼が軽くめまいを覚えるのも無理はなかった。
「あんたこそ何言ってんの! 自分の立場を忘れたわけ!? 何のためにマルナ島まで来たと思ってんのよ!」
これにはミリアも反対したが、アウレリアは動じなかった。これまで常に不安げにしていた姿とはまるで別人のように、黄金の瞳に強い意思を乗せ、はっきりと告げる。
「だって、マルナは助けてくれるわけじゃないんでしょう? だったらいつまでもここにいたって安全なわけじゃない。それよりミリアが確実に危ないとわかってるなら、私はそのまま見送ることなんてできないよ。――そうでしょう? ユリウス」
アウレリアは世界情勢など学んでおらず、国の駆け引きなど全く知らない。それでも、今まで聞いてきた話から、自分がこの先どうなるかを静かに悟っていたのだ。そのことを痛感させられて、ユリウスはもはや拒絶の言葉を持たなかった。
「……本当に馬鹿だよ、あんたたちそろって」
そう呆れたようにつぶやくミリアの瞳はかすかに揺れていた。
その言葉に嘘がないことを、黄金の瞳は静かに感じ取っていた。
古代ギリシャ・ローマ地域ではワインを水割りで飲むのが一般的だったそうです。
今の感覚だとかなり不思議ですよね。
実際には中世あたりになると割らない文化も広まってきたようですが。




