第四章 灼熱の魔女①
トルーノ山脈は西セルディア王国の中核をなすウィタリカ半島を南北に走り、大陸との付け根を西に湾曲するようにそびえている。すなわち、半島中西部にある王都から陸路で国外へ脱出するには必ず越えねばならない障壁である。
本来はルカリス付近の安定した低めの経路を進む予定だったが、フォルカ砦がすでに落ちている以上、さらに西の峠道へとずらす必要が出てしまった。
「ねえ、ユリウス! あれは何の鳥!?」
春の渓谷に弾んだ声が響いた。
人間の侵入に驚き飛び立った鳥を指差し、彼女は珍しそうに眼を輝かせる。
「アウレリア様、川辺は崩れやすいのであまり近づかないでください」
彼らの他には川のせせらぎと鳥の鳴き声のみ。誰もいない静かな山野で、二人はかりそめの兄妹から元の主従に戻っていた。
「あれは雉ですね。今日の夕飯にいたしましょうか」
「ほんと!? ユリウス、撃てるの?」
「ええ、また地面に降りてきましたら」
ユリウスは声をひそめ、静かにするよう促した。雉は長時間飛ばず、高所にも停まらない。別の個体が降り立ったところを狙えば仕留められるはずだった。
王都を出る際、マクシムの用意した馬に括りつけられていた弓矢。アウレリアはまだこれを使うところを目にしていない。その最初の標的が人でなかったのは幸いと言えた。
射手の邪魔にならないよう、彼女はじっと息を殺す。茂みから顔だけ出して、注意深く獲物が降りるのを待つ。
そして。
深い青緑の体に紅の頭。白地に茶紋の羽を広げた雉が、草地の上に降り立った。
その瞬間を逃さず、弓弦と矢羽の音が風に乗り、気づいた時には矢尻が獲物に突き刺さっていた。
「凄い、ユリウス! さすがね!」
「……ありがとうございます」
彼女がどれだけ褒め称えようと、ユリウスは常に控えめだった。もっと喜んでもいいのにと思っても、彼女の前であまり大きく感情を揺らすことがない。それがどこかもどかしく、そばにいても遠くに感じられる。
だが、それでも今はできるだけユリウスの負担にならないようにしようと彼女は密かに誓っていた。
「これを今から捌くの……?」
ユリウスの左手にぶら下がる雉を見ながら、アウレリアは恐る恐る問いかける。見事に射止めた時は喜んだものの、その動かなくなった体は、確かにあった命が失われたことを示していた。せっかくユリウスが獲ってくれたものに怯えてはいけないと彼女は唇を噛みしめる。
「いえ、捌くのは私の方でいたします。取った羽の中から、アウレリア様は特にまっすぐで破れのないものを選んでいただけますか」
「羽を?」
「はい、矢を作りますので」
「ユリウス、矢も作れるのね!?」
アウレリアの一つ一つの驚きに、ユリウスは少し困ったように微笑む。
(――まだ、大丈夫)
ユリウスの黒い瞳を覗き込み、翳りがないことを確認してアウレリアはかすかに安堵する。
彼が目指していた砦はすでに落ちていた。山の向こうの国内最大兵力も、もう敵に恭順しているという。
そんな絶望的な状況でもユリウスは決して主を見捨てず、こうして守りながら進もうとしているのだ。それなら、自分にできることは――
(――せめて、立ち続けられるように)
自分には何の技術も知識もなく、ただ、彼の庇護に甘んじることしかできない。進むべき道を示すことも、手を取って導くことも、どうあがいても不可能なのだ。
それでも、せめて彼が傷つき倒れそうな時は、踏みとどまり支えることぐらいはできるだろうと――そうしなければならないのだと、彼女は深く心に刻んでいた。
ユリウスから渡された羽の中から、アウレリアは言われた通りまっすぐで形の良い羽根を選別していった。一方、ユリウスは削った枝を火で炙って矢柄を作り、その羽を松脂で固定する。
矢尻は手持ちの在庫を利用していた。これが尽きれば矢尻も自作しなければならないが、今のころはこれで間に合わせられそうだった。
初めて見るものばかりで、アウレリアは一つ一つの工程を興味深そうに眺めていた。
焚火は明かりが目立ちにくい昼のうち。ユリウスが処理した雉肉を串に刺し、火でしっかり焼き上げる。
パチパチという火のはぜる音、焼ける肉の香ばしさ。そのすべてがアウレリアの食欲を誘う。生まれて初めての串焼きも戸惑ったが、ユリウスの食べ方を真似して一気にかぶりついた。
「……熱っ」
「大丈夫ですか、アウレリア様」
慌ててユリウスは水を渡そうとするが、彼女は手を振った。
「ううん、大丈夫……熱かったけど……でも、おいしいね、ユリウス。こんなにおいしいものがあるんだね」
皮の焦げた匂い、弾力のある肉の厚み、噛むたびに広がる熱い肉汁。ただ焼いただけの簡素な料理なのに、ここまでおいしくなるものかと彼女は目を丸くする。聖女として離宮で生活していた時には、こんな野蛮な食べ方をする機会などとうていなかったのだから――
渓谷は日暮れも早い。早めに火を消して地面に埋め、翌朝早くからまた移動を開始する。これを繰り返すこと数日、追手に見つかることもなく彼らは峠道を越え、トルーノ山脈を無事踏破した。
道中で野草を採ったり物資を補充しながら山を下り、しばらく進んだところで二人は小さな集落を通りかかった。地図にも載らないほどの小規模な村である。
「どうしたの? ユリウス」
「いえ、トルーノは何度か通っておりますが、この村の存在は知りませんでしたので……」
地図を見ながらユリウスは少し怪訝な顔をしていた。彼は見習い時代の四年間に各地を移動する機会も多く、任地の北方との往来には必ずトルーノ山脈を通る。それでもこの谷合の小さな村は存在すら聞いたことがなかった。
村の入り口には古びた櫓があり、どの家も質素で年季が入っているように見える。最近できた集落ではなさそうだが、何となく閑散としていてあまり活気のある村には感じられなかった。
「ねえ、ユリウス、あれは何かしら」
アウレリアが小さな声で指差した先は、村の広場と思われる場所だった。
村人の多くはそこに集まっており、中央に何やら木を組んだ台のようなものがある。馬を降り、物陰から注意深く覗き込むと、二人は驚いて顔を見合わせた。
「――いい加減にしなさいよ! こんなことして何の意味があるのよ!」
その怒声は、広場の台の上から上がった。
「余計な口を利くな! この魔女が!」
「だから違うって言ってるでしょうが!」
その台とは木で組まれた磔刑台。そこに一人の少女が縄で縛りつけられていたのである。
見たところ、アウレリアと同年代と思われる少女の体は括りつけられた木材より細く、肩の辺りで切り揃えられた髪は、目にも鮮やかな炎の色をしていた。
「この者は神を冒涜する異教の魔女。よって火で魂を滅し、神の光の届かぬ無の底へと送るものとする」
白いローブ姿の聖職者と思われる男がそう宣言すると、村人たちが次々に少女の足元へ薪を積み上げ始めた。その意味するところは誰の目にも明らかだった。
「ユリウス、どうしよう! あの人、焼かれちゃうの!? ねえ、助けられない!?」
アウレリアは慌ててユリウスの袖を引く。
正直なところ、彼らこそが国のお尋ね者で、他人を助けている余裕などないのだ。それでも彼女は目の前で焼き殺されそうな少女を見捨てることなどできなかった。
そして、それがわかるからこそユリウスも拒絶はできない。
「わかりました。では、アウレリア様はこれから私の申し上げる通りに動いていただけますか」
ユリウスの言葉に、彼女は力強くうなずいた。
一方、その頃広場では、
「ふざけんなおまえら! だから人の話聞けって言っ――」
さらに叫ぼうとする少女の口は無理やり塞がれた。村人の一人が彼女の口内に丸めた布切れをねじ込んだのである。暴れようにも手足は肉に食い込むほどきつく荒縄で磔台に縛りつけられ、身動き一つ取れない。
大量の薪が少女の足元から膝上まで覆うほど積み上げられると、聖職者は村人から渡された松明を高く掲げた。
「偉大なる神よ、ご覧ください! これより異端の魂を焼き滅ぼしてご覧に入れましょう!」
そう叫び、松明を薪に灯そうとした瞬間――
「――!?」
聖職者は衝撃に虚を突かれ、松明を地面に落とした。そして激痛は遅れてやってきた。
あまりの痛みに叫び声を上げ、聖職者は地面を転がり回る。その男の手には、一本の矢が突き刺さっていた。
「誰だ!? 魔女の仲間か!?」
「冒涜者め!!」
村人たちは事態に気づき、口々に叫ぶ。そして聖職者の横にいた男が松明を拾い上げ、火刑を再開しようとすると、
「うわあああああ!!」
風切音の直後、男の濁った悲鳴が上がった。松明を拾おうとした右手の甲は、二本目の矢によって地面に縫い付けられていたのだ。
「探せ! 他にも魔女がいるぞ! 捕まえろ!」
混乱する村人たちをさらに惑わせる事態が発生した。
「おい、何だいったい――」
風上から流れてきたのは、大量の煙だった。風に乗って白煙はあっという間に火刑台を覆ってしまう。こうなると村人たちの動揺は爆発的に広がっていく。火事かもしれない、いやこれは敵の攻撃だ、口々に憶測と不安が漏れ出し、もはや統率など取れようもなくなってしまう。
その混乱に乗じて火刑台に近づく人影に、彼らは気づく余裕もなかった。手足の荒縄が切られると同時に、彼女の体は瞬時に運び去られていった。
第四章スタートしました。
長かった二人旅にようやく三人目が登場です。
これでワンオペから解放されるのか……!?




