第三章 漂泊の騎士⑥
ユリウスの警戒の効果もあってか、特に敵影らしいものも見かけず、彼らはひとまずの目的地であるルカリスの町に到着した。
「ねえ、お兄ちゃん、人がいっぱいいるわね」
ルカリスは宿で泊まったグレッソルよりはるかに大きい。本来は国内最大の王都セラーナに暮らしていたアウレリアだが、その街並みを一度もまともに見ることなく脱出してしまったため、初めて遭遇した中規模程度の商業都市であった。
「私、ここに入っても大丈夫……?」
徒歩で馬を引くユリウスの腕を、アウレリアは不安そうにぎゅっと握りしめる。
「ルカリスのように人の出入りの多い都市の方がかえって紛れやすいので大丈夫……だよ」
ユリウスの兄言葉はいまだに定着しない。その不器用さが今はアウレリアの不安な心をほぐさせた。
「それならよかった。ねえ、今度は私にもお買い物させてくれる?」
「ではパンをお願いしま……しようかな」
「マクシムのパンはもう終わっちゃったの?」
「さすがにそう何日もはもちませんからね……」
そう、とアウレリアは寂しげに視線を落とした。マクシムの遺したパンだけが、彼との最後の繋がりだったのだ。だが、それももう残っていない。
それだけではない。このルカリスより先の経路はすべてユリウス個人の判断にかかっている。ここまではマクシムの指示や手配した協力者などに助けられていたが、この先はもはや未知の領域なのだ。
「ここでお買い物をしたら、次はどうするの?」
「この近くにフォルカ砦があります。まだ健在であれば砦長に交渉してみるつもりです」
フォルカ砦はトルーノ山脈を越える際の重要地点に存在する。セルディアの国土が今より狭かった時代は、ここが国境線だったのだ。
山の中腹に建つその砦は古いが堅牢で、街道警備や治安維持などの実戦経験もそれなりに積んでいる。平和な王都の警備兵よりむしろ鍛えられているだろう。だからこそ、まだ戦力として残っていてほしいとユリウスは心から願っていた。
そんな腹の内は一言も漏らさず、ユリウスは馬を繋いだ木にもたれながら、少し離れてアウレリアの買い物の様子を見つめていた。
適正価格は事前に教えてある。あとは適度に交渉し、お金を払い、品物とお釣りを受け取る。当たり前の一連の行動が無事にできるかを、ユリウスははらはらしながら目で追っていた。
(――パンならそれほど難しくない買い物だし、多分大丈夫だろう……あっ、それじゃない、そう、そっち……値段を確認してる……? いや、そこは銀貨じゃなくて銅貨……ちゃんと枚数数えて……!)
普段はあまり口数の多くないユリウスの脳内は、完全に主とパンの実況で占拠されていた。
(――数が多いから受け取ったらちゃんと袋に入れて……あっ、そんなに一気に入れたら落ちる! 落ち――)
「おい、ユリウス! ユリウスじゃねえか!」
その声に、ユリウスは一瞬本気で心臓が止まりかけた。買い物見守りに全集中していたことと、日々蓄積した疲労のせいで、背後から声をかけられるまで気配に気づけなかったのだ。
変な声が出そうになるのを必死にこらえながら、ユリウスは慎重に振り返る。
「……オルゴか?」
その人物の面影を記憶の中から掘り起こし、ユリウスはつぶやくように問い返した。
「そうだよ! 三年ぶりか? また背が伸びてるじゃねえか! 少しは俺にも分けろよ」
笑いながら親しげに肩を叩いてくる男。それはユリウスの見習い時代に四年間生活をともにした同僚、オルゴだった。同い年だがもともと少し丸みのある体つきのオルゴは、三年ぶりの再会ではいっそう丸くなっていた。
「オルゴ、悪いな。今、連れが――」
「ああ、あの嬢ちゃんか? もしかしておまえ、ついに恋人でもできたのか?」
「ち、違う! あれは、その、俺の妹だよ……」
「ああ、そうかあ。――でもおまえ、妹いなかったよな?」
オルゴが目を細め、疑念を口にするや否や、ユリウスは瞬時に動いた。素早くオルゴの背後に回り、右腕を捩じり上げて木の幹に体ごと押しつける。体重ではオルゴが上でも、鍛えぬいたユリウスの膂力に抑え込まれてはとうてい身動きが取れなかった。
「おい、何すんだよ! 久々に会った親友に対してひでえ真似するじゃねえか!」
「――何が目的だ?」
わめくオルゴに対し、ユリウスの声は冷たく鋭い。
「わかった、言うって! 言うから手ぇ離せよ!」
「このまま話せ」
「いや、この状態だとおまえこそ目立つだろ!? 人目を気にするなら少しは普通にしろって!」
つい警戒心が優先されて行動したが、確かに通行人がじろじろこちらを見てきている。このままではまずいと思い直し、ユリウスは仕方なく拘束態勢を解いた。無論、右腕の自由までは許さず掴んだまま。
「おまえ……あの嬢ちゃん、聖女様なんだろ? 今、東の兵が行方を追ってる」
「だとしたらどうなんだ。東に売って恩賞でももらうつもりか?」
「違うって! いいから落ち着いて聞けよ。まず、フォルカ砦はもう東に恭順してる。おれはフォルカに配属されてるからこれは間違いない。おまえ、本当は砦に行くつもりだったんだろ? だったらやめとけ。すぐに捕縛されるだけだ」
オルゴを拘束する腕の力がさらに強まる。旧友の動揺を体で感じながら、オルゴは続けた。
「今、国内に東の兵はそれほど多く残ってない。その代わり、俺たちみたいな各地の元西の兵が聖女捜索に駆り出されてるんだ。俺が先に見つけたから良かったものの、他の奴らに気づかれたらとっくに捕まってたぞ?」
「各地の兵が……?」
「そうだよ。王都も落ちたし、今さら抵抗する奴らもほとんど残ってねえよ。真っ先に北方警備隊が寝返ってるんだからな」
ユリウスは言葉を失った。
北方警備隊とは見習い時代の四年間、ユリウスとオルゴが配属されていた部隊である。常に蛮族の脅威にさらされる国境地帯のため、実戦経験も豊富で国内で最も精鋭が揃っている。
アウレリアを任せられるとしたらもはやここしかないと、最終的には目指そうと考えていたユリウスにとって、それはすべてを水泡に帰す事実だった。
「ユリウス、悪いことは言わねえ。もう諦めろ。今さら聖女を連れてどこに助けを求めるつもりなんだ? そもそも東の王子は聖女を保護するって布告を出してるんだぞ。見つけ次第保護し、手厚く遇するって。町の入り口にも貼ってあったの見てねえのか?」
オルゴの声音は硬い。それこそが彼が真剣に旧友を心配している証だった。
「もういいじゃねえか。聖女は殺されないどころか厚遇されるんだろ? だったらおまえが命張って守る必要あるのか? このままだと聖女は無事でも、おまえは反逆者として処刑されるかもしれないんだぞ?」
何を言われたところでユリウスの信念が揺らぐわけではない。それがたとえ旧友の情から来る言葉だとしても。
それでも彼を揺らしたのは、たった一人のか細い声だった。
「……ユリウス……?」
買い物をとうに終えたアウレリアが、不安げに恐る恐る彼の名を呼ぶ。あれだけ楽しんでいた兄妹ごっこすら忘れ、素のままの顔で。
何と答えるべきかわからず固まっていると、街道から太い声が上がった。
「おいオルゴ! いったい何をしてる!」
兵士の服装から見て、それはオルゴの上官に当たる男のようだった。
「ん? 何だ、その女は。オルゴ、おまえもしかして――」
上官の問いが終わらぬうちに、ユリウスは即座に腕の拘束を解き、すかさず鞘を着けたままの剣でオルゴの丸い腹を打ちつけた。オルゴが倒れ込むのを尻目に、彼はさらにアウレリアの腰を掴んで持ち上げる。
「すみません、失礼します!」
慌ててそれだけ言うと、ユリウスは主の体を左腕一本で自分の肩に担ぎ上げ、そのまま全速力で駆け出した。
「な、何だおまえら!? おい、早くあいつらを追え!」
オルゴの上官が周囲にいた他の兵士たちに指示を飛ばす。だが、その前にユリウスは馬を繋いでいた縄を素早く切り、アウレリアを馬の背に放り込むのと同時に飛び乗って、兵たちの包囲網が完成する前に脱出した。
「くそっ、痛ってぇ……」
剣で殴られ、道端に転がされたオルゴは一人うめいていた。同期の中でも頭一つ抜けて優秀だったユリウスの一撃は、たとえ剣を抜いていなくても思わず内臓が飛び出そうなほどの痛みだったのだ。
「あの馬鹿野郎……」
オルゴの独白は苦々しい。彼には充分わかっていたのだ。この攻撃は、旧友が砦の仲間たちから疑われぬようあえてユリウスが採った選択なのだと。だからこそ、彼は自分の無力さと旧友の頑迷さに歯噛みするよりなかったのだ。
兵士たちはまだ聖女だとまでは気づいていないのか、ただの不審者の追跡はそこまで厳しくはなかった。それは同時にオルゴが黙っていたことの証でもある。
旧友の無言の気遣いを感じながら、ユリウスは街道から逸れた林道に入ると馬を止めた。まだ物資は買いそろえていないが致し方ない。もう町に戻るわけにもいかず、今日は野営で過ごし、明日以降に小さな町で残りの物資を買い足すしかない。
アウレリアを丁寧に馬から下ろし、彼は非礼を詫びた。
「急なこととは言え、申し訳ありませんでした」
しかし彼女は荷物のように担がれたことなど今は気にしていなかった。代わりに口から出たのは黄金の瞳が「見た」真実だった。
「ユリウス……あの人、嘘ついてなかったよ」
「……聞いていらしたのですか」
もっと気を付けるべきだったとユリウスは悔やんだが、今さらどうにもならない。
「ねえ……私、別に殺されるわけでもひどい目に遭わされるわけでもないんでしょう? だったらもうこれ以上逃げる必要なんてないんじゃない? それならユリウスも――」
「あいつの言葉が嘘でなくても、発布の内容が嘘でない保証はありません!」
珍しく語気を強めたユリウスに、アウレリアはびくりと震える。
「街で聞いた話によれば、ヘリオス殿下は捕らわれ東に送られ、そのご一族は全員処刑されたとのことです。――幼い子供まで」
その苛烈な末路にアウレリアは息を飲む。
「そうであれば、アウレリア様も決して無事で済むとは言えません。まして――……」
ユリウスはそこで口を閉ざした。これ以上は主に聞かせられないと判断したのだ。
しかし実際、アウレリアの価値は「神の子を産めるかどうか」にしかないのが現実なのだ。黄金の聖女ならば、神性の高い黄金の子を産む確率が高い。そのためだけに彼女は王宮に長年囚われていたのだ。
となれば、たとえ東の王子が保護したとしても使い道などほぼ決まっている。そもそもこの戦争自体、聖女への求婚から始まっているのだから――
重い沈黙が二人を包む。黙ったまま馬蹄や足跡が残りにくい草地を選んで進み、やがて林道から開けた丘に出た。
「……ねえ、ユリウス」
アウレリアは静かにつぶやきながらユリウスの袖を引いた。
ユリウスは答えずとも主の言いたいことをすぐに理解した。
(――嘘ではなかった)
神の瞳が断じた通り、旧友の言葉は真実だった。
小高い丘から見える山の中腹、そこにそびえる石造りの堅牢なフォルカ砦。
その四方の塔には、夕日を受ける赤い旗がはためいていた。
祖国の黄金鳥の白旗ではなく、東の敵国が掲げる薔薇の紅旗。それは、砦が東に恭順したことを雄弁に物語っていた。
「……行きましょう」
落ちた砦と太陽に背を向け、ユリウスは進路を変えた。
それは国を失った日と同じ。それでもあの時はまだ父の指示も、目的地もあった。だが、すべての希望が潰え、もはや行くあてもない。
それでも聖女を守る――ただ一つの誓いのために、彼は虚ろな道を漂うしかなかった。
第三章はここまでです。
海で幻覚見たり、はじめてのおつかい実況したりと、二人きりの逃亡劇が思いのほか長くなってしまいましたが、第四章からは物語がようやく大きく動き始めます。
今しばらくロードムービーにお付き合いください。




