第三章 漂泊の騎士⑤
出立の前に、セラーナ脱出から乗ってきた馬は宿で替えることとなった。軍馬ではなくともよく鍛えられ、ここまでの逃走路を支えてくれた相棒である。
「ここまで運んでくれてありがとう」
アウレリアは馬の鬣を撫でながら、感謝と別れを告げた。彼女にしてみれば頼もしい仲間を一人失ったような思いなのだろう。名残惜しそうにはしていたが、馬の疲労と庶民への偽装のためにはここで乗り換えるしかない。
マクシムは最初の逃亡時に距離を稼げる駿馬を、指定の宿ではより庶民らしい駄馬を用意していたのである。無論、見た目は駄馬でも足腰は強く、二人乗りでも長距離を耐えられそうな体つきであった。
女将にも礼を告げ、二人は市場で物資の確保をしながら町を抜けることにした。
「お兄ちゃんったら全然お兄ちゃんらしくないじゃない。そんなに固くならないでよ」
「いえ……いや、その……すまない」
「ほら、名前で呼んで?」
「…………レーナ」
「もっと自然に呼ばないと怪しまれるわよ、お兄ちゃん?」
「…………」
いつもと違っておろおろするユリウスの様子が面白いのか、アウレリアは逃亡中にも関わらず上機嫌だった。この機会にさんざん兄妹ごっこでからかって遊んでいる風である。一方、ユリウスはお兄ちゃんと呼ばれるたび、レーナと呼ぶたびに精神が削られていくのであった。
「ねえ、お兄ちゃん、どうして買い物するたびに値切る必要があるの?」
「明らかに高すぎる値段のまま買うと、かえって怪しまれるからです……怪しまれるんだ」
もはやユリウスの口調は混沌の極みであった。意識の底まで染みついた敬語を一時的にでも捨てるのは容易ではない。それでも何とか説明を続ける。
「その……身なりは庶民らしいのに金持ちのようなふるまいをすれば、特に商人はすぐに怪しいと気づき……気づくんだ。だから、あえて値切って庶民と思わせる必要があるん……だよ。それに、実際路銀を節約する必要もあるし……」
ユリウスが懸命に説明しようとするほど、その棒読みぶりがおかしくて、アウレリアは吹き出してしまった。
「お兄ちゃんってば、本当に下手くそなんだから!」
面と向かって下手くそと言われ、ユリウスは不本意だったが顔には出さなかった。
アウレリアに貨幣での買い物やお釣りの受け取り方を実際に見せ、兄妹ごっこに付き合いながらも彼の意識は全方向に張りめぐらされている。いつどこから敵が襲ってきても瞬時にかばえるよう、常に主の背を守るように位置取りをしているのだ。
それでもグレッソル近辺では特段危険なことはなく、彼らは無事に町を通過した。
東軍は東寄りの中央街道を占領しているため、彼らはできる限り西寄りの経路を採るよりなかった。半島の西端、海岸沿いを北上し、トルーノ山脈の麓にある主要都市ルカリスを目指す。
大きい町は人目も多く危険ではあるが、彼の狙いはそのルカリス付近にあるフォルカ砦だった。東軍が王都を陥したとは言え、王国全土を占領したわけではない。
フォルカ砦は旧国境に位置する重要な砦の一つであり、ここが健在なら聖女の保護を求められる可能性も残っていたのである。
栗毛の駄馬に乗り、二人は怪しまれない程度の馬足で細い道を北上する。海辺近くは視界が開けすぎて見咎められやすいため、ユリウスは慎重に木陰を縫うように進んでいた。しかし、主の興味を完全に断ち切ることは不可能だった。
「お兄ちゃん! ねえ、あれ何!?」
かりそめの妹が目を輝かせて遠くを指差す。ユリウスは自身の意識も遠くなりながら、何とか答えた。
「あれは……海、です……」
周囲に人がいないため、ユリウスは兄言葉を放棄した。
「あれがそうなのね!? ねえ、お兄ちゃん! ちょっとだけ……ほんのちょっとだけ、近くで見てみてもいい?」
「……薄暗くなってきましたし、少しの間でしたら」
「ほんと!? お兄ちゃんありがとう!」
アウレリアは馬上で今にも飛び上がりそうなほど声を弾ませた。
本来なら少しでも危険な要素は回避すべきである。それでも、主の純粋に喜ぶ姿を見ては、とても拒絶することはできなかった。
ユリウスはそれでもできるだけ人目につかぬよう、岩場に馬を隠すように繋ぎ、アウレリアを下ろした。
アウレリアにとって、海とは絵物語や大陸地図でしか見たことのないものだった。
水平線の向こうまで何もない、ただの水と空。膨大な空白を初めて目にして、彼女はただ見蕩れていた。
「ねえ、ユリウス! 凄い、水が動いてる!」
さっきまで楽しんでいた兄妹のふりすら忘れ、彼女は砂浜を駆け出した。
「アウレリア様! 波に足元を掬われないよう、お気をつけください!」
ユリウスの注意など聞こえていないかのように、彼女は海岸を踊るように駆ける。まるですべてのしがらみから解き放たれたかのように。
――あれは。
その時、ユリウスは己の目を疑った。
ただそれは、春の西陽を浴びて、染めた髪が光に透けただけだったのかもしれない。
それでも、彼は確かに見た。
聖女が失ったはずの、光り輝く黄金の髪。聖なる色をたなびかせ、波間に沈む陽光とともにきらめかせる姿は、まさに神の使い――黄金鳥のはばたきのようであった。
どれだけ身をやつそうと、彼女こそが黄金の聖女なのだと、ユリウスは否が応でも信じるよりなかった。
彼が言葉を失い、立ち尽くしていると、アウレリアは慣れない砂浜に足を取られ、盛大に転倒した。
慌てて我に返ったユリウスはただちに駆け寄り、彼女の体を抱き起こす。
アウレリアは転んでも痛みを感じてはいなそうだった。先ほどまでの高揚感を引きずっているのか、砂だらけのまま少し恥ずかしげに微笑み、
そして、ふと表情を消した。
「ユリウスは……どうしてここまでしてくれるの……?」
抱き起そうとする腕にしがみつく彼女の手は、かすかに震えていた。
「ずっとこのままならいいのに……誰も私たちのことを知らない土地で、色んなものを見て、二人だけで旅していけたらいいのに……」
どれだけ心身ともに鍛えられてきた彼も、今この時にかける言葉は見つからなかった。
「アウレリア様……」
反射的に名を呼んだまま、彼は身動きすらできない。
ほんのわずかな沈黙が永遠にも感じられていたその時、先に口を開いたのはアウレリアの方だった。
「駄目だよ、ユリウス。私はレーナでしょ?」
今の独白をなかったかのように、彼女は再び「妹」の仮面をつけた。
「……申し訳ございません」
「お兄ちゃんは妹にそんな風に謝らないんでしょ?」
「…………」
ユリウスはただ沈黙で返すしかなかった。
どれだけ抱きつかれようと、彼女を抱きしめ返すことはできない。自分にはそんな資格などない。
彼女が生まれつき黄金の宿命を受けているのなら、彼には生まれながらの黒き呪縛が受け継がれているのだから。
【悲報】ユリウス、疲労が限界突破して幻覚を見る




