第三章 漂泊の騎士①
セラーナが陥落した、西セルディア王国滅亡の日。
すでに太陽は沈み、細い月だけが人気のない丘陵を照らし出す。
春とはいえまだ冷える宵の口、一つの騎影が丘の下をゆるやかに駆けていた。
「アウレリア様、寒くはありませんか?」
「ううん、ユリウスがあったかいから平気」
アウレリアはそう答えると、背後を覆うユリウスの胸に軽く身を預けた。
マクシムの指示通り、あらかじめ用意されていた馬に乗って彼らは王都セラーナからできるだけ遠ざかろうとしていた。現在、ユリウスは主を自分の前に乗せ、その体ごしに手綱を握って駆けさせている。その間、図らずも常に体が密着していたため、アウレリアは彼の体温に包まれて寒さなど感じていなかったのだ。
三年間毎日そばで護衛はしてきても、主に触れることなどほとんどなかったユリウスは、今こうして彼女の細く小さな体の熱を受けることに運命の皮肉さを感じていた。
(――いや、今はそれどころじゃない)
つまらない感情を追い出すように首を振り、彼は注意深く周囲を見回した。すると、やや遠くの街道沿いに点々と松明の光が見える。ただの旅人や商人かもしれないが、用心するに越したことはない。
「――馬を早めます。舌を嚙まないようお気をつけください」
「わ、わかっ――ひゃっ!?」
いきなり馬の速度が上がり、アウレリアは驚いて思わずユリウスの腕をつかむ。それでも彼の力強い腕は手綱を握りしめたままびくともしない。これまで離宮で和やかな会話しかしたことのないアウレリアは、初めて彼が真に鍛えられた騎士であることを感じていた。
無論、ユリウスは主の胸中など知るよしもなく、林道に差し掛かるまで馬足を緩めず一気に駆け抜けた。
街道からの視線が途切れるあたりまで来ると、ユリウスはようやく速度を落とした。
「お怪我はございませんか?」
「う、うん、平気……馬ってこんなに早いものだったのね」
アウレリアの素直な感想にユリウスは顔を曇らせる。彼女も王族の一員として、形ばかりの乗馬訓練は受けている。だが、それは離宮の中庭という閉ざされた空間でのみ。広い平野を思うままに早駆けなどという経験は一度もないのだ。
そして今、ユリウスは主を気遣いながら加減して馬を駆けさせており、全速力からは程遠い。それでさえ彼女にとっては目の回るような体験なのだ。その現実が、彼の心に暗い影を差した。
しばらく林道を進むと、適度な太さの幹に馬を繋ぎ、人目につかない木陰で二人は身を隠しながらひとまずの休息を取ることにした。
煙が出にくいよう、折った枝木で囲った小さな焚火に当たりながら、ユリウスは荷袋から取り出したパンをアウレリアに渡した。当然のこと、これもマクシムが用意して持たせたものである。
「ありがとう。そういえばおやつ途中だったものね。思い出したらお腹空いちゃった」
アウレリアは嬉しげに微笑んだ。
ユリウスにも彼女が努めて明るく振る舞おうとしていることはわかる。一度も外に出たことのない少女が突如国を追われ、見ず知らずの土地をわけもわからず逃げ続けているのだ。不安にならないはずがない。それでも唯一の味方である自分を気遣ってくれているのだと思うと、彼はどんなことをしても守らねばと改めて誓わざるを得なかった。
「ユリウスのはそれ……パン?」
アウレリアはユリウスの手元をじっと見つめ、彼が食べようとしているものが自分とは違うことに疑問を持った。何しろ、小さな焚き火の明かりでもわかるほど黒ずんだ、煉瓦のような物体だったのだから。
「これは軍用の携帯食です」
「そうなんだ……ねえ、どんな味?」
「いえ……保存が効くように硬く焼いて味気もないので、アウレリア様のお口には合いませんよ」
今にも食べてみたいと言い出しかねない主から遠ざけるように、ユリウスは携帯パンを自分の背後に回した。間違って齧りでもしたら、主の小さな歯が欠けかねない。そんな事態だけは護衛として阻止しなければならなかった。
「何で隠すのよ! おいしくないんなら、なおさら私のと半分交換すればいいでしょ!」
「私は慣れているから大丈夫です! それよりアウレリア様がとても食べられるものではありませんから!」
ユリウスは必死に抵抗した。まさか敵の追手よりも主の追求から逃れる方が先になろうとは彼も思わなかった。それも、たかがパンのことで。
「でも……」
「本当にお気遣いなく。それよりせっかく父の用意したものですから、アウレリア様がどうかお召し上がりください」
マクシムの名を出されてはアウレリアも引き下がるよりなかった。この時、二人はマクシムが王都で討死したと思っているのだから、なおのこと遺志を尊重すべきであった。
彼女は決して食い意地が張っているわけではない。ただ、硬くておいしくないという携帯食をユリウスだけが食べ、自分はマクシムが最後に残してくれた食べ慣れたパンなのがいたたまれなかったのだ。
しかもマクシムは周到に、アウレリアが慣れない逃亡生活でも体力を維持できるよう、干した果実や木の実を生地に練り込み、さらに食べやすくあらかじめ小さく切り分けてあった。ここまで来るともはや過保護な親も同然だが、それだけ彼女を心配していた証でもある。
当の本人はそこまで理解はできずとも、マクシムやユリウスの気遣いは充分察しているだろう。
本来ならそんなことを気にする必要のない身分なのにと、ユリウスはかえって申し訳なさを感じていた。
彼は手持ちの水筒から分けた水と、火で炙って少し柔らかくした干し肉をアウレリアに渡すと、さらに荷袋から取り出した地図を焚火の前で広げた。
「これも、全部マクシムが用意してくれたの?」
「……私ではここまでの準備はとてもできませんでした。すべて父が事前に手配していたものです」
ユリウスは数か月前から国難の可能性を父マクシムから聞かされていた。そして万一の際には主を連れて確実に逃げられるよう、逃走経路や手段なども完全に叩き込まれている。だからこそ今、迷いなく動けてはいるが、これを自前ですべて揃えることなど、まだ経験の浅い十九歳の青年騎士には不可能だった。
小さな焚火に照らしながら、ユリウスは入念に地図を確認する。アウレリアも王族教育の一環として大陸地図を見たことはあるが、実践的な軍用地図を目にするのは初めてだった。興味深げに覗き込む彼女に、少しは安心させようとユリウスは経路を指差しながら説明する。
「今、我々が向かっているのはこちらの北西方面です。北東には東の兵が多く配置されているはずですから、西側から山を抜けて国外へ脱する予定です」
王都セラーナは内海に突き出たウィタリカ半島の内陸部に位置し、その半島の南北を割るようにトルーノ山脈が走っている。東軍はトルーノ越えの際、最も広い中央街道が通る東寄り経路を驀進してきているため、その付近の道には近づけない。となると、海岸寄りの北西経路を選ぶしかなかった。――無論、敵もその程度は予測しているだろうから、移動には細心の注意が必要となる。
「南の方には行けないの?」
アウレリアは地図の下方を指差した。セラーナからトルーノ方面とは逆方向に南下し、内海を渡れば肥沃な南方大陸が広がっている。慣れない山越えをするより早く国外へ出られはするが、ユリウスは首を振った。
「南下して海へ出ることも可能ですが、万が一船内で見つかった場合、逃げ場がありません。ですので陸路を採る方が安全かと」
それらの経路もすべてマクシムの指示による。自ら説明しながら、ユリウスは改めて父の偉大さを思い知らされていた。自分が将来ここまで抜かりなく動けるだろうかと思いかけ、今はそれどころではないと邪念を払うように小さく首を振る。
おおよその逃走経路を確認すると、ユリウスは地図をしまい、主に休息を促した。
「今日のところはお疲れでしょう。アウレリア様は先にお休みください」
今まで籠に囚われていた聖女が、突如国を追われ、初めての野宿で震えながら、まともに寝ることなどできないだろうとは彼も思う。それでも何日続くかわからない逃亡生活のためには、少しでも体力を回復しなければならないのだ。
「明かりが目立たぬよう、火は土で隠しますが……こちらを覆うように寝れば暖を取れますので」
地熱が体に伝わるよう、彼は残り火を埋めた土の上にアウレリアを横たわらせようとする。だが、アウレリアは不安げに彼を見上げてきた。
「……ユリウスは?」
「私は見張りをしておりますからご安心ください」
逃亡初日。慣れない少女を抱えたまま、隠れながらの移動で大した距離は稼げていない。まだ王都に近い位置での危険な野営で、ユリウスは当然寝るつもりなどなかった。だが、
「駄目だよ、ユリウスも一緒じゃないと。それに、一人じゃ寒いでしょ?」
アウレリアにそんな道理は通じない。彼女はただ、自分のために尽くしてくれている騎士の身を案じていた。
そして彼女はユリウスの手を引っぱり、その腕の下に自分の背中を預けた。
「ほら、こうしてればもっとあったかいよ」
少女の小さな体は、ユリウスの広い胸の中にすっぽりと収まってしまう。全幅の信頼を体重とともに預け、アウレリアはそのまま目を閉じた。
「あの……アウレリア様……」
ユリウスは大いに戸惑ったが、だからと言って突き放すことも抱き寄せることもできなかった。空いた手を宙で上下させながら、何とか事態の打開策をひねり出そうとして――失敗した。
「ありがとう、ユリウス……ユリウスがいてくれて良かった……」
そのつぶやきは、少女の体温とともにユリウスの中に沁み込むように伝わってきた。返す言葉も見つからず、彼はそのまま動くことをやめた。力を少し込めたら折れてしまいそうなほど細く柔らかな肢体の感触も、首筋からほのかに漂う乳のような甘い香りも、全力で脳内から追い出しながら。




