第二章 灰色の王子⑦
皇后ベルダはもともとこの国の人間ではない。ヴァルクレウス王国が周辺の小国を次々に併呑していた時代、その敗戦国から貢ぎ物として贈られた、亡国の貴族の娘であった。
十七歳で輿入れしてきたその娘は、奇しくもセラ教の教義で「神性が高い」とされる容貌を備えていた。単に美しいだけではない。神の色である黄金に近い、白金色の髪。淡い金にも見える薄茶の瞳――これらは伝説の聖女を彷彿とさせる姿だったのだ。
もともとセルディア人はほとんどが黒か茶系の髪や瞳が大半で、黄金系の色彩を持って生まれる子供は稀である。だからこそ、外から来たベルダの方が神性が高いと見なされたのは皮肉でもあった。
その美しさと珍しさ、さらには男を惑わすほどの色香に酔わされ、王はたやすく陥落した。レックスの母である正妃はその当時すでに病の床にあり、ベルダ輿入れの翌年には崩御してしまった。その年、ベルダは正式に王妃となり、さらには第一子となるルシア王女を出産した。
それでも、レックスの地位はこの時点ではまだ揺るがなかった。東西セルディアでは古来より女子には王位継承権がないためである。ベルダが男子を産まない限り、第一王子たるレックスが継承権第一位であることには変わりなかった。
無論、ベルダも男子を望んでいただろうが、彼女にとっても想定外のことが起きた。
――ヴァルクレウス国王、病篤し。
唐突な凶報が国を駆けたのは、今より十四年前。ルシアが生まれてすぐのことである。王が重病に臥せってしまった以上、次の子供は望めない。これでただ一人の王子であるレックスが王太子になるだろうと、誰しもが思った。
ところが、レックスが正式に王太子となる十六歳を迎える前年、事態は急変する。
「正妃ベルダは教皇よりその位を受け継ぎ、教皇職と王后位を兼ねるものとする。以降は両職位を統合し、新たに『皇后』位を創設する――」
あまりに唐突な発布であった。しかしすでに宰相も教皇もベルダに取り込まれ、彼女の専横を止められる者は存在しなかったのである。
政権と神権の掌握――悪夢のような二重権力だが、レックスにとっての問題はさらに根深かった。
古来よりセルディアでは立太子の儀に、国王または教皇の承認が必要とされているのである。
現国王は重病で動けず、その代理は妻のベルダ。
前教皇は禅譲し、新たな教皇はベルダ。
すなわち、ベルダの承認がなければ永遠に立太子できない構造に落とし込まれてしまったのだ。
こうして成人してから十年間、レックスは王位継承者名簿の筆頭に名を載せながら、正式な王太子となることを妨害され続けているのであった。
第一軍団駐屯地、総司令執務室内は重い空気に満たされていた。
トゥレンが主に一通り謝罪と説明を終えると、長い沈黙が訪れたのである。
「……」
「…………」
「………………」
「……………………」
静寂を破ったのは、眉間の皺を頭蓋に到達するほど深く刻んだ主の方だった。
「……トゥレン」
「…………はい」
「何か言うことはないのか」
「あの……誠に申し訳なく……」
「いや、謝罪はもういい。それよりもあの子供だ」
レックスはすでに受けた謝罪を蒸し返すような無益な真似はしなかった。それよりもこの先の対策を練る方が重要である。
「あの女は、あれをどう使うつもりだと思う?」
あれとは当然、ヘリオスのことである。手の込んだ策を弄し、わざわざベルダ自ら出張ってまで奪い取るほどの価値が、あの少年にはあったということなのか。
「それは……無論、ルシア王女と娶わせるつもりではないかと」
「それはそうだろうな。あの女には他に駒がない」
ベルダがいくらレックスの立太子を阻んでも、女のルシア本人が王位を継げるわけではない。ルシアに男子を産ませること――それがベルダの狙いのはずなのだ。
「だが、あの子供が素直に言うことを聞くとは思えんがな」
灰色の王子と恐れられる彼を、正面から愚弄してくる者などこれまで一人もいなかった。だが、ヘリオスは違った。まるで珍しい玩具で遊ぶかのように、煽り、嘲り、弄んでみせたのである。その際に見せた、ただの快楽とは異なる愉悦の瞳――あれは単なる幼さゆえの愚行とはとうてい思えなかった。
ヘリオスは子供と侮っていい相手ではない。それはもはや確信に近い。
あれほどの異様さは、いくらベルダと言えども気づかないはずがないだろう。それでも自分なら御しきれると慢心しているのだろうか。
「全く、女の考えていることはわからん。道理に合わんことを平然とするからな。エピオナの件もそうだ」
レックスの触れた一語に、トゥレンはびくりと肩を震わせた。
「……殿下……その件は……」
「セラーナで報告は受けている。あれはあの馬鹿どもの暴走だろう。俺たちのいない隙を狙って、くだらんことを」
レックスたち王国軍が出払ったのを好機と見て、教皇でもあるベルダ直属の聖騎士団は、突如兵を挙げた。その矛先は王国領内の自治区、エピオナ。伝統ある古都を、彼らは一夜にして灰にしたのだった。
「事前に防ぐことができず、誠に申し訳ございません……」
「知っていたとして、王都の残存兵力では止められなかっただろうがな。奴らめ、余計なことばかりする」
エピオナはレックス陣営にとって要所ではなく、住人も厳密にはセルディア人ではない。そのため特に痛手にはならないものの、皇后の手により国土を荒らされるのは、君主を目指す彼にとって許しがたい暴挙であった。
「……これが凱旋の顛末とはな」
レックスは自嘲気味につぶやいた。それがトゥレンの胸に鋭く突き刺さる。
――この事態は自分の失策が招いたのだ。
トゥレンにとって、主に叱責されるよりも失望される方が、身を切られるほど辛かった。
一礼し、彼は無言で主の御前を下がる。暗い瞳の奥には苛烈な炎がたぎっていた。
この時から、トゥレンの脳内ヘリオス処刑劇場が幕を開けたのである。




