第二章 灰色の王子⑥
ヴァルクレウス王国軍総司令アレクシス王子は、翌日の昼頃に堂々の帰還を果たした。
国を出発してから二か月にも満たない内に一国を征服してきたのである。その期間のほとんどが移動と戦後処理にあてられており、実質の戦闘はほとんど一瞬で決していた。
史上類を見ないほどの大勝利である。その輝かしい功績は、彼に立ちはだかる政敵も決して看過できぬほどの意味を持つはずだった。
「――こたびの大勝利、まことにおめでとうございます」
祝いの言葉とは裏腹に、主君を迎える補佐官の顔色はもはや死体同然だった。とても凱旋してきた勝者を寿ぐ表情ではありえない。あまりの異様な空気に、レックスもさすがに違和感を覚えた。
「……俺の留守中に何があった?」
「そのことですが……」
トゥレンの口は極めて重い。捕虜略奪の件だけではない。王都の留守を預かっている間、あまりに想定外のことが起きすぎて、どこから報告しても主の機嫌を地底の果てまで叩き落とすに違いなかったのだ。
「――アレクシス殿下、謁見の間へどうぞお越しください!」
主従の会話を割くように、宰相府の下官が移動を促しにやってきた。
早々の凱旋報告とは慌ただしいが、もともと面倒なことは先に済ませたいレックスの意向から、以前より帰還と同時に行われる習わしだったのである。
ただの効率重視だけではなく、帰還直後であれば武装そのままで入城できるという利点もあった。時を置いては改めて正装する必要が出てしまう。
だが、そのせいで今はまともな会話をする余裕がなかった。
「ひとまず面倒な報告を終わらせるぞ。話はその後でゆっくり聞く」
「……承知いたしました」
相変わらず土気色の顔のまま、トゥレンは主に従って謁見の間へと向かった。
これまでに一度も敗北したことのないレックス麾下「鉄の軍団」ことヴァルクレウス王国軍は、戦勝報告を常に宰相に対して行ってきた。
レックスが総司令に就任する前から国王は病篤く、公式の場に姿を現すことがなくなっていたのである。それに従うように、妻である皇后もこの十年間、一度も報告に立ち会うことはなかった。
――それなのに。
(――なぜ、いるのだ)
トゥレンの顔色は死体を通り越し、もはや土そのもののように変色していた。
彼らの目の前、いつもは空席の玉座の片割れに、その女は悠然と座っていたのだ。
黒いヴェールの向こうに、見えないはずの魔性の笑みを浮かべて。
「こたびの遠征、ご苦労であった。疲れたであろうな、アレクシスや」
「……さほどのことではございません、皇后陛下」
「相変わらず冷たい子だこと。私のことは母と呼んでくれて構わぬのだぞ」
「いえ……畏れ多いことにございます」
真冬のアルティス山脈の氷よりも冷え切った二人の会話。血の繋がらない親子だからというだけではない。レックスが形式と秩序を重んじない人間であれば、とうの昔に決裂していた関係なのだ。
「まあ良い、おまえもこたびはずいぶんと親孝行をしたものよ。こんな玉のような美しい子を手に入れてくれたのだもの」
黒い絹手袋に覆われた右手を掲げると、ベルダの背後から小さな影がひょっこりと顔を出した。
金色の髪に、澄んだ碧い瞳。神の寵児とも呼ばれるほどの整った相貌は、初対面でもそれが誰かを雄弁に語っていた。
「やあ、アレクシス王子。セラーナではお会いできなくて残念だったけど、これが初めましてだね」
セラーナ陥落後、レックスが捕虜を無視して一度も接見しなかったことを逆に嘲笑うかのように、ヘリオスは第一声を放った。
(――なぜ、ここに)
主が背中でそう告げているのを、斜め後ろで控えるトゥレンはひしひしと感じていた。だが、もはや今さらどうにもならない。
セラーナから送られた捕虜は、王都で待機するトゥレンが預かり、厳重に管理している手筈だっだ。帰還直後のレックスはそう認識していたはずなのに、よりによって皇后の手元にいるなどと、どうして想像できようか。
混乱の極致にあるレックスに向けて、ヘリオスはさらに親しげに話しかけてくる。
「そんなに怖い顔で睨まないでよ、アレクシス王子。僕、また今夜も眠れなくなっちゃうよ」
「……どの口が」
レックスの喉から押し殺した声が漏れ出した。そのあまりの低さに、トゥレンは胃を素手で捩じられるような苦痛に襲われる。
「ねえ、僕みたいな子供なんて適当に閉じ込めておけばどうにでもなると思ってた?」
ヘリオスは無邪気に笑いかける。まるで神の起こした気まぐれのように。
「鉄の軍団を率いる冷徹な灰色の王子、か。どんなに恐ろしい人かと思ってたけど、案外甘いところがあったんだね。でも人間らしくていいと思うよ」
悪意の欠片もないような笑顔。だが、その言葉はすべて毒に満たされていた。
――これが十二歳の無力な子供だと?
レックスとトゥレンの二人は同時に戦慄が走った。
その後、宰相から簡潔な賞賛と慰労の言葉が贈られ、戦勝報告の儀は終了した。それは同時に、これから起きるはずの動乱の幕開けをも告げていた。




