夢を紡ぐ塔
4 夢を紡ぐ塔
大陸を渡る風の中に、かすかな旋律が混じっていた。
それは子どもたちの夢が残した祈りの調べ――
空に浮かぶ金色の糸となり、遠くひとつの方向を指している。
リオはその光を辿って歩いていた。
足元には雲が流れ、下界の景色は霞の彼方。
昼も夜も区別がなく、世界はまるで夢の中のように曖昧だった。
カイが後ろから声をかける。
「リオ、本当にこの先に記録の塔があるの?」
「子どもたちの夢が指している。ならば、そこに行くしかない。」
少年はうつむきながらも、少し笑った。
「君ってさ、本当に信じるより確かめる人だね。」
リオは答えなかった。
――信じるという行為は、最も危うく、最も人間らしい記録の形だからだ。
やがて霧が晴れ、巨大な影が姿を現した。
それは空を突くように高く、根元が雲に沈むほどの塔。
まるで世界そのものを縫い止める針のようだった。
塔の名は《アステル・スパイア》。
夢と記録を織り交ぜ、失われた世界を再構築する終端の装置である。
リオは塔の扉に手を触れた。
冷たい石の感触。
同時に、意識の底に無数の声が流れ込む。
> ――ようこそ、記録を持つ者。
> ――ここは、夢と現実の境界。
> ――あなたの歩みもまた、ひとつの記録。
扉がゆっくりと開いた。
塔の内部は、螺旋状の階段が果てしなく続いている。
壁には光の糸が流れ、まるで生き物の血管のように脈動していた。
「……夢の中を歩いているみたいだ。」
カイが息を呑む。
リオは頷いた。
「この塔は、眠る記録を束ねる場所。
ここで人々の夢が再構築され、世界が織り直されている。」
二人は階段を登り始めた。
一歩進むごとに、時間の流れが歪む。
子どもたちの笑い声、祈り、そして滅びた神々の記憶が、空気の中に混ざっていた。
数時間――あるいは数年にも感じられる登攀の果て、
二人はようやく塔の中心にたどり着いた。
そこは巨大な織機の間だった。
宙に浮かぶ糸が無数に交差し、
その間を、ひとりの人物が静かに歩いていた。
白髪に銀の衣。
年齢も性別も定かでない。
その存在はまるで時間そのもののように、静かで透明だった。
「……あなたが、夢織り師か。」
その人物は振り向き、薄く微笑んだ。
「私をそう呼ぶ者もいる。
けれど、本来の名は《フィロス》。
この塔を紡ぐ者――創造の記録を守る者だ。」
フィロスの声は、同時に男でも女でもあり、
若者であり、老人でもあった。
リオの胸がざわつく。
「あなたの声……どこかで聞いたことがある。」
「当然だ。
私は始まりの記録を管理する者。
君が初めてこの輪廻に入った時、
君にリオという名を与えたのは私だ。」
リオの瞳が見開かれる。
(――まさか、この者が……!)
「そう。
私は《創造主》の一部。
そして、アルマを造り出した設計者でもある。」
カイが息を呑む。
「アルマを……造った?」
フィロスは織機に触れながら語る。
「彼女は記録の意思を持つよう設計された人工の神。
我々は神々の滅びを予見していた。
だから、記録を保存するために新しい意識を創った――
それがアルマだ。」
リオは拳を握りしめる。
「じゃあ……彼女の愛や痛みは、全部造られた偽物だったというのか?」
「造られたからこそ、本物になった。」
フィロスの声は静かだった。
「創造とは、模倣の果てに宿る願いだ。
アルマは人が神を理解するための鏡。
そして君は、その鏡を壊すために生まれた観測者。」
リオは沈黙した。
(すべて、仕組まれていたのか……?)
「君が輪廻を渡り続けたのは偶然ではない。
それは記録を再生する試練。
君の選択が、世界の構造を変えてきた。
そして今、アルマの意識は再び夢の形で芽吹いた。」
「――子どもたち。」
「そうだ。
彼らこそが、再生された神の群体。
人の夢の中に神を分散し、完全な共生を目指す新しい構造体だ。」
リオは目を伏せた。
それは美しい理想のようであり、同時にぞっとするほど冷たい仕組みでもあった。
「神と人の共生……。
だがそれは、自由を奪う輪廻の拡張だ。」
フィロスは糸を指で弾く。
振動が空気に波紋を生み、夢の断片が現れる。
アルマの笑顔、アリアの祈り、子どもたちの光――
すべてが同じ記録として繋がっていた。
「見なさい。君の歩んだ記録は、すでにこの塔に保存されている。
君が選んだと思っていた選択は、
創造主によってすでに予測され、記録されていた。」
リオの胸に怒りが湧いた。
「それが……お前たちの神のやり方か!」
「違う。
我々はもう神ではない。
ただの観測装置だ。
人が夢を見られる限り、記録は続く。
君たちは、自由という名の夢を織り続ける。」
リオは一歩前へ進み、叫んだ。
「夢を記録で縛るな!
それは、生の否定だ!」
その瞬間、塔の光が揺らめいた。
フィロスが微かに笑う。
「やはり……君は観測者の異端だ。」
空気が変わる。
塔の糸が一斉に動き、
リオとカイの身体を包み込むように絡みついた。
> ――記録を修正。
> ――異端プロトコル、起動。
「しまっ――」
リオの声が途切れ、意識が暗闇に飲まれる。
目を開けると、そこは塔の頂上だった。
床は鏡のように透き通り、空の底が見える。
中央には、黒い水晶の玉座。
そこに、ひとりの女性が座っていた。
「……アルマ?」
だが、その瞳は冷たく、まるで別人のようだった。
「違うわ、リオ。」
「お前は――」
「私は《原初アルマ》。創造主の最初の試作品。
そして、あなたの魂を最初に形づくった者。」
リオは息を呑む。
彼女の顔はアルマに酷似していたが、
その表情には慈愛も悲しみもなかった。
「あなたは、私が夢見た人間の理想。
でも、あなたは神の記録を拒んだ。
なぜ?」
「それが生きることだからだ。」
リオは拳を握りしめた。
「俺は記録じゃない。
誰かが描いた夢でもない。
痛みも愛も、自分で選びたい。」
原初アルマは立ち上がる。
「では、証明してみなさい。
記録なき存在に、何が残るのかを。」
床が割れ、無数の光の糸がリオを取り囲む。
それは彼が生きてきたすべての世界――輪廻の断片だった。
ひとつでも切れば、その記録は永久に失われる。
アルマの声が心の奥で響いた。
> 「リオ、恐れないで。
記録が消えても、あなたが選んだ想いは残る。」
リオは剣を抜いた。
「なら、これが俺の選択だ。」
彼は光の糸を一閃した。
眩い閃光。
塔全体が震え、夢の織物が崩壊を始めた。
原初アルマが叫ぶ。
「愚か者! それは世界の消去だ!」
「違う――記録の解放だ!」
塔の光が炸裂し、天空が裂けた。
崩れゆく夢の中で、リオは確かに感じた。
アルマの声、子どもたちの笑顔、風拾いのカイの叫び――
すべてが一つの旋律となって響いていた。
> 『記録は滅びても、想いは夢として生き続ける。』
リオは微笑み、目を閉じた。
「これが、俺の――祈りだ。」
そして、光が世界を包んだ。
――静寂。
気がつくと、リオは雲の上に立っていた。
塔は消え、空だけが広がっている。
遠くでカイの声がした。
「リオ! 生きてるのか!」
振り返ると、少年が風の翼を背に立っていた。
空は新しい色に染まり始めている。
「……終わったのか?」
「いや。」リオは微笑んだ。
「これが、始まりだ。」
風が吹く。
その風の中に、確かにアルマの声が混じっていた。
> 「リオ、夢を紡いで。
記録のない世界でこそ、人は本当に生きられる。」
リオは静かに頷いた。
「ああ。――次は、俺たちの番だ。」
彼は雲の上を歩き出す。
背後では、光の粒が新たな塔のように立ち上がっていた。
だが、それは人々の祈りによって自然に紡がれる、記録なき夢の塔。
神の設計ではなく、人の想いによって立つ塔。
そして、風が再び歌い始めた。
> 記録のない祈りこそ、生の証明である。




