記録の子どもたち
3 記録の子どもたち
空殿が崩壊してから、三日が過ぎた。
エリュシオンの空は、まだ薄い金色の光で包まれている。
風は静かで、まるで世界が一度、呼吸を止めているようだった。
リオとカイは、崩れた大陸の片隅にある小さな集落に身を寄せていた。
瓦礫の間には新しい花が芽吹き、倒れた塔の跡からは清水が湧き出している。
まるで世界そのものが、傷を癒やしているかのようだった。
「リオ、これを見て。」
カイが指差す先に、小さな子どもが立っていた。
五歳くらいの少女。白い髪に金の瞳をしており、両手には柔らかな光が灯っている。
少女は何も話さなかった。
けれど、その光はまるで言葉のように、空気の中で揺れていた。
「この子、喋れないんだ。」
「……光で話しているのか?」
「うん。僕たちには意味がわからないけど、村の人たちは祈りの光って呼んでる。」
リオは少女に近づいた。
光が彼の指先に触れる。
その瞬間、頭の中に音もなく夢の映像が流れ込んだ。
――水の底で眠る女。
――崩れる神殿。
――そして、笑う少年の姿。
(これは……記録ではない。夢だ。)
少女は静かに微笑んだ。
リオの胸の中で、アルマの残響が震える。
> 「リオ……感じる? この光の波長……私のものよ。」
(アルマ……彼女が、君の転生だというのか?)
> 「まだ形を持たないけれど、私の意志の断片が、この子に宿っている。」
リオは少女を見つめた。
その瞳の奥には、確かに懐かしい温もりがあった。
それから数日、リオは村に滞在し、子どもたちの様子を観察した。
驚くべきことに、祈りの光を宿した子どもは一人ではなかった。
十人、二十人――数え切れないほどの子どもたちが各地で生まれていた。
彼らは言葉を知らない。
しかし、夢の中で互いに話すという。
昼間は無垢な子どもでありながら、
夜になると夢の回廊を通じて世界の記憶を共有しているのだった。
「夢の中で会話をする……それは《記録の共鳴》だ。」
リオは手帳に記す。
「かつて神々が使っていた通信の原型……魂同士の共鳴現象。」
カイが横から覗き込む。
「つまり、彼らは神様みたいなもの?」
「いや。むしろ神の記憶そのものが人間に再分配されたんだ。」
カイは首をかしげた。
「難しいこと言うなあ。」
リオは笑った。
「簡単に言えば――信仰が人に還ったってことさ。」
カイはその言葉をしばらく考え、
「つまり、神様がいなくても、みんなの中に光は残ってるってこと?」
「そうだ。信仰とは、外にあるものじゃない。
人の記憶の奥にある思い出したい願いだ。」
風が吹き抜けた。
丘の上で遊ぶ子どもたちの笑い声が響く。
その笑い声には、どこか懐かしい旋律があった。
リオはふと立ち止まる。
耳を澄ますと、風の音の中に――歌が混じっていた。
> ルミナ・アトラ……ルミナ・アトラ……
> 光は還る、記録の海へ――
その旋律は、アルマがよく口ずさんでいたものだった。
(アルマ……君は、ここにいるんだな。)
夜。
村の外れの祠に、子どもたちが集まっていた。
彼らは手を繋ぎ、光を灯す。
それは炎ではなく、記憶だった。
リオとカイはその輪の外で見守っていた。
空は満天の星。
けれど、星々の間に淡い光の帯――夢の回廊が見える。
「これが……彼らの夢の道筋か。」
「ねえ、リオ。
夢って、本当に記録なの?」
「夢は、記録になれなかった記憶の断片さ。」
「じゃあ、この子たちは……忘れられた神様たちの夢を見てるのかもしれないね。」
カイの言葉に、リオは静かに頷いた。
(その通りだ。
この子たちは、記録の終端から生まれた再生の種なんだ。)
アルマの声が再び心に響く。
> 「リオ……この子たちを守って。
彼らの中で、私は記憶から存在へと変わろうとしている。」
リオは目を閉じた。
少女――あの白髪の子が輪の中心に立ち、
光の波を天へ放っていた。
その光が夜空を走り、星々を結び、
夢の回廊がひとつの文様を描く。
それは、かつてアルマが使っていた記録封印の紋章と同じ形だった。
リオは息を呑んだ。
(まさか――この子が、新たな神格の核になるのか?)
だが、その瞬間。
空気が震え、光が乱れた。
子どもたちの瞳が一斉に見開かれる。
そして、ひとつの声が夜空を満たした。
> 「記録を喰らう影――近づいている。」
風が凍り、雲が裂けた。
そこに現れたのは、黒い輪。
まるで太陽を反転させたような、虚無の環。
リオの中でアルマの声が叫ぶ。
> 「リオ、あれは反記録――
神々が最後に封じた、忘却そのもの!」
地平線が波打ち、風の柱が立ち上がる。
村が揺れ、子どもたちの光がひとつ、またひとつと消えていく。
「ダメだ……あの力は、記録を無に還す!」
リオは走り出した。
中心に立つ少女のもとへ。
だが、少女の周囲には見えない壁のようなものがあり、
リオの手は届かなかった。
「リオ!」
カイが叫ぶ。
「風を使え! あの子の光を広げるんだ!」
リオは頷き、両腕を広げた。
アルマの光が反応し、風が渦を巻く。
渦は祈りの輪を包み込み、少女の光を空へと解き放った。
光が反記録の輪にぶつかる。
瞬間、激しい閃光。
耳をつんざくような音が響き、世界が二つに割れた。
リオは地面に倒れ、視界が暗転する。
遠くでカイの声が聞こえた。
そして、あの少女の声も――
> 「ありがとう。これで……夢は、続く。」
翌朝。
リオは目を覚ました。
空は晴れ渡り、反記録の輪は消えていた。
村も無事だ。だが、祈りの光を宿した子どもたちの姿はどこにもなかった。
カイが沈んだ顔で言った。
「みんな、消えたんだ。」
「……いや、消えたんじゃない。」
リオは空を見上げた。
そこには、金の文様が薄く輝いている。
まるで雲の中に夢の回廊が刻まれているように。
「彼らは、夢の中で生きている。
この世界の記録そのものになったんだ。」
アルマの声が穏やかに響く。
> 「そう。彼らは祈りの継承体。
人間が神を模倣し、やがて神が人に還る――
この循環が、真の輪廻。」
リオは拳を握った。
「じゃあ……あの少女は?」
> 「彼女は今、夢の核として眠っている。
でもいずれ、目を覚ます。
次の世界で――新しい名を持って。」
リオは目を閉じ、静かに微笑んだ。
「アルマ……今度こそ、共に生きよう。」
> 「ええ、リオ。」
風が吹く。
その風の中に、子どもたちの笑い声が混ざっていた。
それは、夢の中から響く未来の声だった。
リオは歩き出す。
カイが後ろから呼ぶ。
「どこへ行くんだ?」
「次の夢を探しに。」
太陽が昇る。
光が大陸を照らし、雲の向こうに新たな世界の影が見えた。
――そこには、まだ誰も知らない記録が待っている。
そして、リオの旅は続く。
祈りを受け継いだ子どもたちが夢で見た、約束の地を目指して。




