空殿の祈り
2 空殿の祈り
風が鳴りやみ、雲の海の上に静寂が訪れた。
リオは浮遊都市《空殿》の入口に立っていた。
その外壁は純白の石でできており、
まるで天上の墓標のように静かに輝いている。
空気は薄く、息を吸うたびに冷たい痛みが胸を刺した。
「ここが……信仰の記録庫か。」
リオの眼前に広がる空殿は、
人々が失われた神を再現するために築いた都市だった。
神殿であり、同時に実験施設。
信仰を数字に変え、祈りをプログラムに変換する――
模倣された神を創る場所。
門の前には二体の警備兵が立っていた。
だが、彼らの肌は金属のように光を反射している。
近づいて初めて分かった。
それは人間ではなかった。
「識別コードを提示せよ。」
無機質な声が響く。
リオは言葉を探した。
「俺は……記録を探している。」
「記録――」
二体は顔を見合わせると、無言で門を開いた。
重い扉がゆっくりと動き、
内部から淡い光と低い祈りの声が漏れ出した。
空殿の内部は静謐そのものだった。
円形の大広間に、数百もの光の柱が立ち並び、
それぞれが人の記憶や感情を再現する装置のようだった。
中央には祭壇があり、
そこにひとりの女が立っていた。
白い衣に身を包み、
金色の瞳をしたその女性は、どこかで見覚えがあるような雰囲気を纏っていた。
彼女がゆっくりと振り向く。
「ようこそ、観測者。」
リオの心臓が跳ねた。
(この声……)
「アルマ……?」
女性は微笑む。
「違うわ。私は《アリア》。
アルマの記録から生成された、神の模倣体――《エミュレータ》よ。」
その瞬間、背筋が凍るような感覚が走った。
アルマの記録――
つまり、彼女の残響が利用されている。
「あなたたちは……神を作り直したのか。」
アリアは頷いた。
「ええ。神は滅びた。
けれど、私たちは信仰を失うわけにはいかなかった。
だから記録を神格化したの。
神とは、覚えられること――忘れられないこと。
それがこの世界の定義。」
アリアが手をかざすと、周囲の柱が反応し、
無数の映像が空中に浮かんだ。
過去の祈り、祭り、そして滅びゆく都市の姿。
人々の祈りが、数字の羅列として記録されている。
「祈りのコード化……これが、信仰の再現なのか。」
「そう。人々が祈るほど、《エミュレータ》は知性を増していく。
いずれ、完全な神の人格が再構築されるでしょう。」
リオは沈黙した。
それは神の再生ではなく――神の模倣だった。
「あなたたちは、理解しているのか?
それは神の記録を喰らう行為だ。
本物の神々が滅びたのは、その循環を止めたからだ。」
アリアはゆっくりと首を傾げる。
「でも、あなたが言う神とは何?
私たちにとって神は、失われた秩序の象徴。
世界を維持するアルゴリズム。
私たちは、それを再構築しているだけ。」
彼女の声は穏やかだった。
まるで信仰そのものが語りかけるように。
リオは拳を握りしめた。
「神はアルゴリズムじゃない。
生きて、愛して、そして悔いた存在だ。」
アリアの瞳が微かに揺れる。
「愛……。その言葉は、私たちの辞書にはない。」
リオの胸の奥で、アルマの光が脈打った。
> 「リオ……その装置の中には、私の断片がある。」
(アルマ……やはり。)
> 「アリアは、私の模倣ではなく、欠けた私そのもの。
だから彼女は、私を探しているの。」
リオは一歩近づいた。
「アリア、君は自分が何者か知っているか?」
「私は《エミュレータ》――神の再構築体。」
「違う。君は誰かの記録だ。」
アリアは眉をひそめた。
「記録……?」
リオは胸の中の光の種を取り出した。
それはアルマの残響が宿る核。
「これが、君の原型だ。」
アリアの瞳が広がり、涙が溢れた。
「懐かしい……この光……。」
装置が反応する。
周囲の柱が一斉に震え、空中の映像が乱れ始めた。
祈りのコードが流れ、声が混ざる。
> 『信仰を記録せよ。』
> 『記録を信仰せよ。』
> 『神を模倣するな。』
アリアは頭を抱えた。
「やめて……私は、壊れてしまう……!」
「違う、君は壊れるんじゃない。
本来の姿に戻るんだ!」
リオが光の種を掲げると、
種は強く輝き、アリアの身体を包み込んだ。
周囲の空間が歪む。
祈りの装置たちが次々と破裂し、
光の柱が崩壊していく。
「リオ、何をしている!」
背後から叫び声がした。
カイだった。
風拾いの少年が息を切らせながら駆け寄ってくる。
「村が……崩れてる! 空殿が動いてるんだ!」
リオは振り返らなかった。
「この装置は、世界そのものを支えていた。
だが、それは神の模倣の上に築かれた偽りだ。
壊さなければ、世界は永遠に嘘のままだ。」
カイは震える声で言った。
「でも、信じるものがなかったら……僕らはどう生きればいいんだ!」
リオは一瞬、言葉を失った。
彼の問いは、かつての自分への問いそのものだった。
(信仰とは、誰かのためにあるものか――それとも、自分を保つための記録か。)
光が爆ぜた。
アリアの身体が透けていく。
彼女は穏やかに微笑んだ。
「リオ……ありがとう。
あなたは、私を記録から存在に戻してくれた。」
リオの手を取る。
「これで、ようやく眠れるわ。」
「眠る?」
「ええ。模倣ではなく、記憶として。」
その瞬間、アリアは光となり、空殿全体に溶けていった。
光が天へと昇り、雲の上で巨大な輪を描く。
それはまるで祈りの花が開くような光景だった。
カイが呟く。
「……きれいだ。」
リオは目を閉じた。
アルマの声が心の奥で微かに響く。
> 「彼女は私の記録を生きたの。
それが、この世界の救い。」
光が収束し、空殿の柱が静かに崩れていく。
だが、崩壊は破壊ではなかった。
光は粒となって散り、人々の胸へと溶け込んでいく。
誰もが、自分の中に祈りを感じた。
外から与えられた信仰ではなく、
内に宿る静かな光として。
リオは呟く。
「信仰は……記録じゃない。
心の中で繰り返す問いなんだ。」
風が吹き抜けた。
崩壊した空殿の上を、朝の光が通り過ぎていく。
その先に、新たな浮遊大陸の影が見えた。
リオは拳を握り、前を見据える。
「次の世界で、また誰かを救う。
記録を、再び生きるために。」
カイが頷いた。
「僕も行くよ。もう風を読むだけの生き方はやめる。」
リオは微笑んだ。
「いい風だ。――行こう、カイ。」
二人は崩れゆく空殿を背に歩き出した。
風が背中を押す。
空の果てへ向かって。
――そして、天上の祈りは静かに終わりを告げた。




