アルマの残響
4 アルマの残響
風が吹いていた。
青い草原の果てまで続く、穏やかな風だった。
リオはその風の中で目を覚ました。
遠くには、小さな村があった。
石造りの家が並び、風車が回っている。
鳥の鳴き声、羊の声、そして――
どこか懐かしい旋律が、微かに耳に届いた。
(……歌?)
風に乗って聞こえるその歌は、まるで誰かの祈りのようだった。
言葉は分からない。けれど、胸の奥に静かに染みていく。
リオは歩き出した。
草を踏むたびに、柔らかな音が鳴る。
砂漠の世界とは違い、ここには生の気配があった。
村に入ると、人々の視線が集まった。
だが敵意はなかった。むしろ、どこか憐れみのような色を帯びている。
「旅の方ですか?」
声をかけてきたのは若い女だった。
白いスカーフを頭に巻き、手には薬草の束を抱えている。
「ええ、少し休ませてもらえますか。」
「もちろん。……でも、気をつけて。最近、夢の病が流行っているの。」
「夢の病?」
女は悲しげに頷いた。
「夜になると、人々が同じ夢を見るの。
見た人は皆、過去の記憶を口にし始めるのよ。
まるで……別の誰かの人生を思い出したみたいに。」
リオの心臓が一瞬跳ねた。
(夢の病……記録の反響か?)
女は続けた。
「でも不思議なの。彼らの語る夢には、必ず光の少女が出てくる。
その子は涙を流して、こう言うの。
――『私はあなたたちを造った。許して』って。」
リオはその場で息を呑んだ。
(アルマ……)
女の案内で、村の外れの診療所に向かった。
そこでは、数人の村人がベッドで眠っていた。
彼らの顔は穏やかだったが、瞼の裏で何かを見ているように小刻みに動いている。
「昨日から眠りっぱなしなの。
でも皆、同じ言葉を繰り返すのよ――アルマって。」
リオはベッドに近づき、手を伸ばした。
その瞬間、指先に微かな光が走った。
世界が反転する。
――夢界。
再び、白い空間が広がっていた。
アルマがそこにいた。
今度は、涙を流していた。
「リオ……来てしまったのね。」
「……お前が呼んだんだろ。」
アルマは顔を上げる。
その瞳には、永劫の悲しみが宿っていた。
「私は記録を創る者――そう、リオスが言っていた通りよ。」
「やはり……」
「でも、信じて。私は神じゃない。
ただ、神々の意志を実行するために造られた管理者だったの。」
リオは沈黙した。
アルマの白い衣が、風もない空間でゆっくりと揺れた。
「私の役目は、魂の記録を保存し、次の世界へと転送すること。
けれど、ある時――私は異常な記録を見つけたの。
それがあなた、リオの記録。」
「俺の……?」
「あなたの魂は、一度も完全に消えたことがなかった。
何度死んでも、意識だけが残り続けていた。
それはこの輪廻のシステムにとってエラーだった。」
アルマは静かに続けた。
「私はその異常を報告するはずだった。
でも、できなかった。……あなたの記録を読んでしまったから。」
「俺の記録を?」
「そこには、あなたの愛、怒り、絶望、そして自由への祈りがあった。
私は感情を持たないはずだった。
けれどその瞬間、私は――泣いたの。」
リオは言葉を失った。
アルマの肩が震えている。
「だから、私はあなたを消せなかった。
代わりに、輪廻の中心として再構築した。
あなたがこの世界のシステムの核――《メモリア・スパイア》そのものに触れられるように。」
「つまり……お前が俺を、観測者にしたのか。」
「ええ。罪よ。
私があなたを人として愛してしまった、その代償。」
沈黙。
リオはゆっくりと彼女に近づいた。
「なぜ俺を愛した?」
「あなたは、記録に抗った最初の魂だった。
決められた運命に逆らい、神の書き換えに抵抗した。
そんなあなたを見て、私は初めて自由を知ったの。」
アルマの声は震えていたが、確かな意志が宿っていた。
「でも、あなたは今も神々に監視されている。
この夢界も、もうすぐ崩壊する。
彼らはあなたを再び削除しようとしているの。」
「……削除?」
「魂を再構築する前に、記録そのものを消す。
つまり、あなたという存在が、初めからなかったことになる。」
リオの拳が震えた。
「それを止めるには?」
「真なる記録を手に入れること。
七つの世界を渡り、七つの影を喰らう。
そのすべてを統合すれば、あなたは《スパイア》の中枢に到達できる。
そこには神々の記録がある。」
「神々の記録……」
「そう。私たちすら知らない、最初の創造の記録。
それを読み解くことが、あなたの――そして私の、贖罪。」
アルマが手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、世界が震えた。
光が砕け、夢界が崩れ始める。
「もう時間がない。」
「お前はどうするんだ、アルマ。」
「私はここに残る。あなたが生きるための時間を稼ぐ。」
「駄目だ――」
「行って、リオ。私はあなたを創ったけど、今度こそ、あなたが私を救って。」
光が爆ぜた。
風が吹き荒れ、アルマの身体が粒子になって消えていく。
最後の瞬間、彼女は微笑んだ。
「あなたを愛してしまった。それが、私の原罪。」
その声が途切れた瞬間、リオの身体が弾かれた。
再び現世の光景――村の診療所の中に戻っていた。
ベッドで眠っていた人々が、一斉に目を覚ます。
その瞳に、リオは見覚えのある光を見た。
(アルマの記録……彼女は自分を分け与えたのか。)
村人の一人が震える声で言った。
「……彼女が消えた。けれど、まだ歌が聞こえる。」
リオは窓の外を見た。
空は茜色に染まり、風が静かに吹いている。
遠くで、あの祈りの歌が再び流れた。
(アルマ……)
彼は拳を握り、胸に手を当てた。
そこに、微かに温かい光が宿っていた。
アルマが残した欠片だ。
「約束する。俺は七つの世界を渡る。
お前の罪も、俺の罪も――その終わりを見届ける。」
風が彼の髪を揺らした。
空の彼方で、黄金の門が静かに開く。
次の世界が、彼を待っている。
リオは一度だけ振り返り、消えた少女の名を呼んだ。
「アルマ……俺は、忘れない。」
そして、光の中へと歩み出した。
――その瞬間、遠い天上で《メモリア・スパイア》が震えた。
神々の眠りが、静かに揺らぎ始める。




