最初の揺らぎ
最終章 星継ぐ観測者
1 最初の揺らぎ
新生輪廻が誕生して、どれほどの時間が流れただろうか。
時間という概念は、リオにとってすでに意味を失いつつあった。
観測者となった今、彼の感覚は世界の呼吸と同調し、
光の瞬きが時を刻む代わりに、魂の脈動そのものが時になった。
白い胎動で満ちていた母室は静まり返り、
その中心に立つリオの姿は、かつての少年ではなく――
世界の一部そのものだった。
だが、その表情には以前と変わらぬ柔らかさが残っていた。
「……大地が息をしている」
リオが瞳を開くと、
視界いっぱいに揺らぎの網が広がった。
土の匂い。
空の熱。
魂の温度。
世界が生まれ変わったばかりの、柔らかな息吹。
ネイフェルムはもう灰の大地ではない。
土には草が芽吹き、
雲は青空を渡り、
風には未来の匂いがあった。
「……これが、新しい輪廻の始まりか」
観測者となったリオの胸で、
世界の核が静かに脈打つ。
輪廻は正常に動いている。
魂は新しい世界へ旅立ち、
命は再び循環を始めた。
だが――。
リオは目を細めた。
「……ひとつだけ、濁りがある」
輪廻に走る薄い影。
小さな棘のような痛み。
世界の呼吸に混ざった、ほんの僅かな異物。
それは、鋭利ではない。
暴力的でもない。
ただ――
優しすぎる。
「……これは……誰の揺らぎだ?」
リオは胸に手を当てる。
心の奥底で、懐かしい魂の気配が震えていた。
かつて、灰の大地で共に歩み、
リオの選ばなかった未来の影として生き、
リオが生まれ直すことを選んだ魂。
「……カイ……?」
その名を呟いた瞬間、
世界がわずかに脈動した。
魂の光が、遠くで揺らいだ。
リオは視界に生まれたばかりの魂を映す。
それは、光の卵のような形をしていた。
固い記録も、輪郭もなく、
ただ柔らかい可能性として揺れ続けている。
本来、転生した魂は完全に記憶を失い、
新しい世界に溶け込む。
だが――
その魂は違った。
とても小さく、
弱々しく、
生まれたての風に吹かれれば消えてしまうほどの光なのに。
揺らぎは、確かに言っていた。
――り……お……。
リオは思わず膝が抜けそうになった。
「……カイ……本当に……」
観測者になった彼にとって、
魂の声が聞こえることは特別ではない。
だが、
彼の声が聞こえたことは、
世界がどれほど揺らぎを許しているかを示していた。
自分の選んだ特例として、
輪廻はカイの魂を、やさしく抱きしめている。
だが同時に――
この異常は危うさを孕んでいた。
「世界が、揺れている……」
観測者の瞳は、
新たな世界の地平に広がる巨大な影を捉える。
黒い霧が、空の端で渦巻いていた。
世界が生まれる度に、
必ずその影は姿を現す。
「……忘却の祖……」
ノウスが恐れていた、
輪廻の最初の審判者。
観測者にとって最大の敵――
記録を喰らい、魂を無に還す存在。
《ノウスの真祖》。
リオが視線を向けると、
黒い霧は音もなく形を変え、
ゆっくりと近づいてきた。
距離も、方向も、空間の制約もない。
世界そのものの隙間を通って、
霧は観測者の元へ現れた。
その中心に、
ひとつの目が浮かび上がっていた。
まるで世界の裏側から覗き込むような、
深淵の瞳。
「お前が……リオか」
声は無数の囁きの集合体だった。
男でも、女でも、
大人でも、子でもない。
ただ声の形をした存在。
リオは眉を寄せ、霧の中心を見つめた。
「……お前が、ノウスの……」
「そう。
祖だ」
霧が波打ち、形を変える。
無数の魂の影が揺れ、
笑い、叫び、倒れ、祈り続けている。
「忘却は輪廻の影だ。
お前が世界を再構築した瞬間……その影もまた、再誕した」
「……お前も世界の一部、ということか?」
「当然だろう。
忘却がなければ、輪廻は膨れ続けて破綻する。
観測者が選ばなかった未来を、
私が回収している」
リオの胸が痛んだ。
亡霊たち――
あの灰の瘤は、
ノウスが刈り取りきれなかった可能性の残骸だった。
「だが、今回は違う」
霧が冷たく震えた。
「輪廻は歪みを抱えたまま再構築された。
観測者、お前だ」
リオは睨み返した。
「歪み……?」
「お前は、ひとつの魂を生かした。
本来消えるべき魂――
観測者候補失敗の影だ」
カイの名前が胸を刺した。
リオは一歩前に出る。
「……お前には関係ない」
「大いに関係ある。
輪廻にとって例外は毒だ。
お前のその選択……美しいが、危険だ」
霧の中心の目が細くなる。
「観測者よ。
お前の最初の責務は――
例外の削除だ。」
リオの全身が凍る。
「……カイを……消せと言うのか?」
「そうだ」
霧が静かに、淡々と告げる。
「お前が選んだ例外を消すこと。
それが、
観測者としての《最初の決断》だ。」
リオの胸が激しく脈打った。
怒りでも、恐怖でもなく。
魂そのものが震えていた。
「……断る。」
ノウスの目がわずかに揺れた。
「断れば……輪廻は崩れる」
「崩れない。
俺が導く限り、崩れさせない!」
リオの言葉に、世界が脈動する。
その瞬間、ノウスの声が冷たく低く沈んだ。
「……ならば、証明しろ。
例外を抱えたままでも世界は壊れないと」
霧が広がり、
空間そのものが引き裂かれる。
黒い渦が空に生まれ、
世界は震えた。
「観測者よ。
輪廻の最終試練を、始めよう」
霧が世界中へ散っていった。
忘却の影が大地を覆い始める。
世界の再構築は、
まだ終わっていなかった。
ノウスが消えたあと、
リオの胸に残ったのは深く重い痛みだった。
「……カイ……」
遠くで揺らぐ、小さな魂の光。
それだけが、リオの心を温めた。
だが同時に――
その光が輪廻の揺らぎを引き起こしている事実は、否定できなかった。
「世界が……乱れ始めてる」
観測者の視界には、
大地に走る黒い亀裂が見えていた。
生まれたばかりの芽が枯れ、
魂の流れが歪み、
記録の糸がねじれる。
「ノウスは……例外だけを狙ってるんじゃない。
輪廻そのものを揺るがそうとしている……!」
リオは拳を握った。
「カイを……守る。
絶対に守る。
例外ごと、世界をつくり直す!!」
その瞬間、世界の核が光り、
母室の上に白い道が拓けた。
世界は観測者に応えている。
リオは一歩、踏み出した。
次に向かうべき場所は――
魂の揺らぎが最も強く現れている場所。
そこは、新生輪廻の最初の世界。
新たな世界の名は――
「……《黎明界アウローリア》か」
リオは最後の決戦へ向け、
静かに歩みを進めた。
揺らぎの中心には、
カイがいた。




