砂の都セレナリア
2 砂の都セレナリア
砂漠は燃えていた。
陽は頂にあり、すべてを焼くような熱が大地を覆っていた。
風は乾き、砂は光を反射し、遠くに揺らめく蜃気楼が城壁の幻を作り出す。
リオはその中心に立っていた。
足元の砂は白く、粒が細かい。風が吹くたびに、まるで記憶の灰が舞い上がるようだった。
彼は目を細め、遠くに見える巨大な塔を見た。
それは天へと伸びる白亜の構造物。
先ほど夢の中で見た印――螺旋と目と羽の紋章が、塔の頂に刻まれていた。
「……ここが、次の世界か。」
唇に残る乾き。喉の奥が焼けるようだった。
それでも彼は歩き出した。
光と砂の向こう、かすかに人の営みが見える。
白い石造りの街――セレナリア。
かつて神々の祝福を受けた「記録の都」。
彼が街の門に辿り着くと、門番たちは奇妙な目で彼を見た。
旅人風の服装も武器もなく、ただ一人で砂を越えてきた者など、そうはいない。
「名前は?」
「……リオ。」
「所属は?」
「……ない。」
門番が眉をひそめる。
「身分証の紋章もない。外界から来たのか?」
「外界……?」
「なら、記録のない者だな。」
その言葉に、リオの胸がざわついた。
記録のない者――まるで彼自身の魂のようだ。
門番は不審そうに見つめたあと、小さく息を吐いた。
「まあいい。セレナリアは巡礼者を拒まない。だが、中央神殿には近づくな。お前のような記録のない者は、記録官に喰われるぞ。」
喰われる――
その一言が、砂よりも重く響いた。
街に入ると、冷たい影が彼を包んだ。
石造りの道、アーチの屋根、香辛料の香り。
人々の声が響く市場では、異国の言葉と祈りが交錯していた。
「水を……」
喉の渇きに耐えきれず、リオは屋台に近づいた。
老人が壺を差し出す。
「旅人か。顔が死んでおる。ここは魂の渇きを癒やす街じゃ。」
老人はにやりと笑った。
「ただし、魂を癒やす水は記録で支払うんだ。」
「記録?」
「そう、思い出だよ。心に刻まれた記憶をひと雫、器に流す。それで水が出る。」
リオが眉を寄せると、老人は壺の縁を指で叩いた。
たしかに、通りの人々は自分の額に触れ、何かを抜き取るようにしてから壺に手を差し入れていた。
すると、水が湧き、飲むことができる。
「……記憶を対価に、水を得るのか。」
「ここじゃ常識さ。だが気をつけな。飲みすぎると、何も覚えちゃいられなくなる。」
リオは静かに壺を見つめ、結局飲まなかった。
喉の渇きよりも、自分が何者かを失う方が怖かった。
通りを歩いていると、鐘の音が響いた。
高く、重く、空間を裂くような音。
人々が一斉に立ち止まり、祈りの姿勢を取る。
「記録官の行列だ!」
誰かが叫んだ。
リオも顔を上げる。
白い法衣に身を包んだ神官たちが、ゆっくりと通りを進んでいた。
その先頭に立つのは、長い黒髪を後ろで束ねた青年。
彼の瞳は蒼く、肌は冷たい石のように滑らかだった。
だが、何よりも異様だったのは――彼の周囲に漂う霧だった。
灰色の霧が、神官の歩みに合わせて蠢き、
すれ違う人々の頭上から、薄い光の粒を吸い取っていく。
それは、記憶。
記録を喰っている。
「……あれが、記録を喰う神官か。」
リオの胸に、なぜか怒りが燃えた。
自分の魂も、そのように奪われてきたのではないか――そんな確信が湧いた。
行列が通り過ぎたあと、リオは一人、後を追った。
神殿区に入ると、熱は静まり、空気が重くなった。
大理石の柱、青く輝く壁画、そして中央には巨大な円形の祭壇。
その中心に、先ほどの神官が立っていた。
彼はリオの存在に気づき、ゆっくりと顔を上げた。
「外界の者よ。何を求めてここへ来た?」
低く澄んだ声だった。
リオは一歩踏み出す。
「聞きたいことがある。お前たちは……なぜ人の記録を奪う?」
神官は微笑した。
「奪う? 我らは浄化しているのだ。」
「浄化?」
「この世界は、記憶で腐っている。
人は過去を捨てられず、痛みを抱えたまま生き続ける。
我々はそれを取り除く。
記録を喰らい、魂を軽くする。それが救済だ。」
リオは拳を握った。
「……それで人が何も覚えていなければ、それは生きていると言えるのか?」
神官の蒼い瞳が、わずかに揺れた。
「お前は、面白いことを言う。名を。」
「リオ。」
「……リオ。奇妙だな。お前の記録が見えない。」
神官は手を伸ばし、リオの額に指をかざした。
しかし、次の瞬間――
光が弾けた。
「……これは……」
神官の指先から黒い火花が散る。
リオの周囲に、見えない力場が展開していた。
「お前の魂は……壊れているのか? いや――別の世界の記録を持っている。」
リオは息を呑んだ。
その言葉は、彼が求めていた答えの一端だった。
「俺は、ここへ来る前に……誰かと出会った。
彼女は言った。俺は欠けた記録を集める者だと。」
神官の瞳に、わずかな興味が宿る。
「欠けた記録……輪廻の子か。」
「輪廻の子?」
「この世界に伝わる古き予言だ。
七つの記録を継ぎ、世界を一つに戻す魂。
だが、それが現れたとき、記録の塔は崩壊し、神々は沈黙すると言われている。」
リオは沈黙した。
神官の声は穏やかだったが、その瞳の奥には畏怖と憎悪が混ざっていた。
「お前がその子なら、私はお前を喰わねばならぬ。」
「なぜだ。」
「この世界が続くためだ。輪廻の子は、終焉を招く存在だから。」
神官の体から灰色の霧が噴き出す。
それは意思を持つように蠢き、リオを包み込もうとした。
リオは咄嗟に腕を振り払った。
その瞬間、彼の胸の奥で何かが光る。
黄金の紋様が掌から浮かび上がった。
それは、螺旋と目と羽の印――《メモリア・スパイア》の印章。
神官の動きが止まる。
霧が逆流し、神殿の床を割った。
「その印は……神の記録装置の……!」
リオの声が響く。
「俺は世界を終わらせに来たわけじゃない。
――繰り返しを終わらせに来たんだ!」
神官は膝をつき、血を吐いた。
「お前の魂……確かに外界の欠片を宿している。
だが、覚えておけ。
記録を喰う者が消えれば、記録は暴走する。
お前が望む真実は、この世界を滅ぼす。」
その言葉とともに、神殿の天井が崩れ落ちた。
リオは瓦礫を避けながら外へ飛び出す。
砂塵が空を覆い、街全体が震えていた。
遠くで人々が叫ぶ。
「神殿が……崩壊した!」
リオは振り返る。
崩れゆく塔の頂で、神官の影が一瞬、空に溶けて消えた。
彼の最後の言葉が、風に残った。
「お前が七つの世界を渡るとき、すべての神は沈む。」
リオは拳を握りしめた。
砂嵐が彼の視界を奪う。
だがその奥に、再び光の門が揺らめいていた。
アルマの声が、遠くから聞こえる。
> 「リオ、次の世界が、あなたを待っている。」
彼は深く息を吸い、門へと歩き出した。
背後で、砂の都セレナリアが静かに崩壊していく。
その光景は、まるでひとつの記録が削除される瞬間のようだった。
――そして、輪廻は再び動き出した。




