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転生輪廻譚 ― 終焉より来たる光(The Cycle Beyond the End)  作者: Futahiro Tada


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灰に沈む世界で、リオは死の形を見た

第4章 灰の大地ネイフェルム


1 灰に沈む世界で、リオは死の形を見た


 風がなかった。

 呼吸の仕方を忘れたような、世界そのものが停止したかのような静寂が、リオの耳を塞いだ。

 アトラシアの崩壊から光の奔流に呑まれたあと、彼が目を開けたのは――かつて世界と呼ばれたものの終わり、灰だけで形成された白黒の大地だった。

 空は色を持たず、灰色が永遠に続くキャンバスのように広がっている。

 地平線はぼやけ、形という概念そのものが崩壊しているようだった。

 足元の地面を踏むと、砂でも石でもない、焼かれた骨の粉をさらに砕いたような柔らかい感触が靴底に吸い付いた。

 ――ここは、どこだ?

 問いは声にならず、喉の奥で霧散した。

 声を出すという行為すら、この世界では生の証明として拒まれているように感じられた。

 ただ、ひとつだけ分かることがある。

 ここは間違いなく、輪廻の外側――あるいは輪廻の底だ。

 アトラシアの最深部で触れた原初の記録、その続きとして訪れるべき場所。

 リオは肩に乗せた灰を払うように首を振り歩き始めた。

 足跡がつく――しかし、次の瞬間には風もないのにすぐ消えてゆく。

 永続の拒絶。記録の拒絶。

 この世界は残すことを一切認めていない。

 そう、ここは死の大地ネイフェルム。

 存在したものがすべて灰に帰り、名前だけでなく記憶すら溶かされる場所。

 歩くほどに、胸の奥がざわつく。

 何かに見られている。

 だが、気配という言葉では足りない。

 形のない観測者が無数に漂い、リオの存在を淡々と測定しているのだ。

 「……ここが、輪廻の境界なのか」

 今度は言葉が出た。

 声が出た瞬間、灰の世界が微かに揺れる。

 その小さな揺らぎに呼応するように、視界の端から影が寄ってきた。

 ――影?

 しかしそれは、影にしては白すぎた。

 雪のように淡く、煙のように薄い。

 そして輪郭がない。

 誰かが失った魂の名残のようだった。

 影は音もなく漂い、リオの前に立った。

 言葉は発しない。ただ、記憶だけが流れ込んでくる。


 ――死者の声だ。

 それは感情を伴わない。

 ただ「ここにいた」という証拠の断片だけを、リオの胸に刺す。

 家族を探していた旅人。

 戦争で全てを失った少年。

 誰にも看取られずに眠った老人。

 失敗した錬金術師。

 名もない兵士。

 海に沈んだ街の歌手。

 愛を告げられなかった少女。

 それらはどれも、名前がなかった。

 この地では名前は消える。

 人生も、想いも、後悔も、すべて灰へ還される。

 リオは息を呑んだ。

 ――生と死の境界とは、こんなにも静かで、残酷なのか。

 影はゆっくりと後退し、灰の地平に溶けていった。

 その消え方は、別れですらなかった。

 「存在しなかった」という結果だけを残して、世界の余白へと消えるのだ。

 リオが胸を押さえる。

 冷たさではない。むしろ熱に近い。

 まるで奪われた記録たちが心臓の裏から叫んでいるようだった。

 「……こんな世界は、終わらせなければならない」

 声に確信が宿った瞬間――

 灰の大地に、変化が訪れた。

 遠くで何かが生まれたような気配がした。

 灰の世界では、本来ありえない現象だ。

 リオは足を止め、耳を澄ます。

 ザザ……ッ。

 音。

 灰を踏むような、しかしもっと湿って重たい音。

 やがて、地平線の白灰色の濃淡の中から誰かが歩いてくるのが見えた。

 黒。

 この世界で唯一存在しないはずの濃度が揺れている。

 影でも、亡霊でもない。

 ただの人影だ。

 だが、近づくにつれ、その輪郭は微妙に揺らぎ、形を変えていた。

 男とも女ともつかず、背の高さも揺れる。

 視界に映るたびに違う人物に見える。

 そして、ついに目の前に立った。

 「ようやく来たね、リオ」

 声は若くもあり、老人のようでもあり、同時に幼い――複数の声が重なっている。

 その顔は、リオの記憶の中の誰にも似ていないのに、同時にすべての誰かにも似ていた。

 「……あなたは、何者だ?」

 問いかけた瞬間、人物は微笑んだ。

 灰の世界で微笑みが生まれること自体、不気味に美しかった。

 「私は《境界の番人》。生と死のあいだで迷った記録を、この灰へ還す者だよ」

 境界の番人――

 輪廻の本質に最も近い存在。

 リオは一歩踏み出した。

 しかし、その前に番人が手を挙げる。

 「焦らないで、リオ。

  君には見るべきものがある。

  そして、この世界で忘れてはいけない名前がある」

 「名前……?」

 番人が静かに頷く。

 「そう。君がずっと追いかけてきた存在。

   アルマの名が……この灰の大地でも消えなかった理由をね。」

 その言葉は、灰よりも重くリオの胸に落ちた。

 ――アルマ。

 彼女の名が、この記録の墓場に消えず残る?

 ありえない。

 この地はすべてを奪い、削り、名前すら灰へ帰す。

 アルマもまた、輪廻の一部だったはず。

 「……アルマは、ここにいるのか?」

 リオの問いに、番人は首を横に振った。

 「いるとは言えない。

  でも、いなかったとも言えない。

  彼女は君が見るべき最後の記録を、この世界に置いていった」

 リオの心が激しく波打つ。

 番人は指をさした。

 灰の嵐の向こうに、丘のような盛り上がりが見える。

 そこにだけ、灰が舞い上がらず、静かに沈んでいる。

 「行きなさい、リオ。

   アルマの最終記録が君を待っている。

  そしてそれを見たとき、君はようやく、輪廻の本当の姿を理解するだろう」

 リオはゆっくりと頷いた。

 足元の灰が澄んだ空気に反応するように震えた。

 歩みを進めるたびに、胸の奥で何かがざわめく。

 ――アルマの記録。

 それは、彼女が最後に残した想い。

 いや、想いですらないかもしれない。

 罪か、祈りか、別れか。

 分からない。

 だが、行かなくてはいけない。

 リオは灰の地平へと歩き出した。

 彼の背後で、番人が静かに呟いた。

 「……リオ。

  君はまだ気づいていないだろう?

   この世界が君自身の未来でもあることを。」

 その声は、灰に呑まれて消えた。

 灰の丘は、近づくほどに異様さを増していった。

 遠目には、ただの盛り上がった地形にしか見えなかった。

 しかし足元の感触が変わり始めたところで、リオはようやく理解する。

 ――この丘は、積もった灰じゃない。

 灰にされた何かの層そのものだ。

 踏みしめるたびに、靴底がわずかに沈む。

 その柔らかさの裏側に、無数の気配がある。

 声にならなかった叫び、届かなかった祈り、誰にも見られなかった涙。

 それらすべてが、沈黙した地層となってここに堆積している。

 丘の頂には、一本の杭のようなものが立っていた。

 近づくと、それが杭ではなく柱であることが分かる。

 煤けた白。

 ところどころに黒い焼け跡。

 表面には、かつて文字のようなものが刻まれていたが、

 今はほとんど読めないほど摩耗している。

 ただ、一箇所だけ――

 風に削られず残った小さな文字列があった。

 《ALMA》

 リオの胸が跳ねた。

 「……アルマ……」

 声に出した瞬間、丘全体がかすかに震えた。

 灰がわずかに舞い上がり、すぐに静まる。

 名前は、この世界で最も早く消える。

 それでも、ここには残っていた。

 焼かれ、削られ、それでもなお消えきらなかった痕跡として。

 リオは柱に手を触れた。

 冷たくはなかった。

 熱もなかった。

 それは体温とは別の、記憶だけの温度だった。

 ――その瞬間、視界が反転した。


 灰色の世界が溶け、代わりに「色」が流れ込んでくる。

 淡い橙色の夕焼け。

 風に揺れる古い書庫のカーテン。

 机の上に積まれた厚い本。

 窓辺で、椅子に腰掛けている少女の横顔――

 アルマだった。

 肩までの髪が揺れている。

 風に吹かれた紙の音に耳を傾け、彼女は静かに微笑んでいた。

 視線の先には、幼い男の子が座っている。

 まだリオという名前を持つ前の、少年。

 今よりも少し幼く、あどけなさの残る顔立ち。

 《……ここが、はじまり?》

 リオの意識が囁く。

 これは記憶ではない。

 アルマが残した記録を、リオが追体験しているのだ。

 声が聞こえる。

 アルマの、柔らかい声。

 『ねぇ、きみはいつか、世界を見てみたい?』

 少年が首を傾げる。

 『せかい?』

 『うん。この部屋の外のもっと遠く。

  本の中にしか出てこない場所とか、

  まだ誰も知らない景色とか』

 少年は、少し考えてから言う。

 『……アルマがいるなら、見てみたい』

 アルマが小さく笑った。

 その笑みには、喜びと同時に、かすかな悲しみが混じっていた。

 『そっか。じゃあ、約束しようか』

 『やくそく?』

 『きみがもし世界を壊す役目を与えられてしまったとしても――

  それでもいつか、世界を好きになってくれるって』

 少年は意味がわからないというように目を丸くする。

 『……ぼく、せかいをこわすの?』

 アルマは首を振る。

 すこしだけ、苦笑しながら。

 『本当は、そうじゃないんだけどね。

  でも記録は、きっとそう書くだろうから』

 彼女は窓の外を見た。

 夕焼けが少しずつ夜の色に溶けていく。

 『ねぇ、リオ。』

 その名が呼ばれた瞬間、リオの心臓が強く跳ねた。

 あどけない少年が振り向く。

 『きみがもし全部忘れても――

  わたしは、ここで待ってるから』

 少年は笑う。

 『まっててくれるなら、ぼく、なんかがんばるよ』

 『それでいいんだよ』

 アルマの声は、その場面を最後に、ふっと途切れた。


 映像が、灰に焼かれるように色を失っていく。

 書庫が灰へ。

 窓が灰へ。

 少年も、アルマも、灰へ――

 ただひとつ、約束だけが残った。

 ――きみがもし全部忘れても、わたしはここで待ってる。

 灰の丘の頂に戻る。

 リオは柱に手を当てたまま、震える指をぎゅっと握りしめた。

 「……アルマ。

  きみは最初から、知ってたんだな」

 記録としてのアルマ。

 神官としてのアルマ。

 創造主の残響としてのアルマ。

 そのすべての前に、ひとりの少女としてのアルマがいた。

 リオと同じように迷い、

 リオと同じように世界に怯え、

 それでもリオを信じてくれていた少女が。

 胸の奥で何かが砕ける音がした。

 それは長い旅路でこびりついた自己嫌悪の殻だった。

 (俺は……きみとの約束すら忘れていたのか)

 罪悪感が喉を焼いた。

 世界を滅ぼしたことよりも、

 アルマとの約束を忘れていたことの方が、痛かった。

 灰の風が吹いた。

 音のない風。

 しかし今回は、微かにささやきのようなものを含んでいた。

 ――……リオ……

 アルマの声に似ていた。

 しかし、それはアルマそのものではない。

 もっと淡く、もっと遠い残響。

 (アルマ……きみは……ここまで来たのか?)

 問いかけに応えるように、柱の表面がわずかに光った。

 灰で削られた文字の隙間に、

 薄く、かすかな光の線が浮かび上がる。

 《ここには来ないで。

  もしきみがここにいるなら――それは、約束を破ったってことだから》

 震えるほど小さな文字。

 書いた本人でさえ、読み返すことをためらったような、弱い筆跡。

 だが、その一文字一文字に、

 リオには確かにアルマの迷いが宿っているとわかった。

 (……そうか)

 リオは空を仰いだ。

 灰色の天蓋が広がるだけの空。

 それでも、彼はそこにまだ見ぬ世界の気配を信じることにした。

 「ごめん、アルマ。

  俺、約束を破って、ここまで来てしまった」

 灰の世界がわずかに震える。

 「でも――」

 リオは柱から手を離し、拳を握る。

 「きみの望んだ通りに、世界を好きになるために来たんだ。

  きみが待っているなら、なおさら」

 声が出るたび、灰の地表に小さな亀裂が走る。

 ネイフェルムは感情を嫌う。

 それでも、拒絶しきれない。

 そのとき、背後から足音がした。

 ザザ……ッ。

 柔らかく灰を踏む音。

 さきほどの境界の番人とは違う、もっと軽やかなリズム。

 リオが振り向くと、そこにはひとりの青年が立っていた。

 白髪でも金髪でもない。

 灰色の髪が、風もないのにゆっくり揺れている。

 瞳は淡い琥珀色。

 服は、この世界に合わないほど鮮明な黒。

 どこかで、見覚えがある顔だった。

 しかしいつどの世界で会ったのか、思い出せない。

 青年は静かに微笑む。

 「やぁ。やっと追いついたね、リオ」

 その声を聞いた瞬間、リオの心臓が跳ねた。

 知っている。

 何度も、どこかで聞いた声。

 「……カイ?」

 思わず口をついた名に、青年は首を振る。

 「半分、正解。半分、不正解だね」

 彼は胸に手を当て、丁寧に頭を下げた。

 「はじめまして。

  ――いや、おかえりと言うべきかな。

  僕は《カイ=ネイフェル》。

  ネイフェルムの第一の死者であり……君の、最初の相棒だよ」

 リオの頭の中で何かが崩れた。

 最初の相棒。

 第一の死者。

 ネイフェルムに、最初に灰として刻まれた魂。

 そしてカイという名を持つ者。

 リオは思わず、一歩後ずさった。

 「……じゃあ、今までのカイは……?」

 カイ=ネイフェルは静かに笑った。

 その笑みには、どこか懐かしさと申し訳なさが混ざっている。

 「きみの隣にいたカイは、君の魂が記録の空白を埋めるために作り出した、

  《関係の幻影》だよ。

  本体は――ここ。

  死の大地ネイフェルムに縫い付けられている」

 灰の風が強くなった。

 世界が、いよいよ本性を見せ始める。

 リオは拳を握りしめたまま、息を飲む。

 輪廻の境界。

 アルマの最終記録。

 第一の死者カイ=ネイフェル。

 すべてが、ひとつの輪郭を持ち始める。

 ――この世界は、終わりではない。

 やり直しの権利を失った魂たちの、最後の待合室なのだ。

 リオはゆっくりと口を開いた。

 「……教えてくれ、カイ。

  ここで、俺は何を裁かれる?」

 カイ=ネイフェルは首を横に振る。

 「裁かれないよ、リオ。

  ここで決めるのは、君の方だ」

 彼は空を見上げる。

 灰色の天蓋の向こうを、ずっと遠くまで見通すような眼差し。

 「生きることと還ること。

  輪廻に戻るか、輪廻そのものを降りるか。

  君が選ぶんだ。

   君自身と、アルマと、そして……君の隣にいたカイの行き先を。」

 灰の世界に、決断の時が近づいていた。

 灰の風が吹き抜けた。

 それは風というより、死者たちの息に近かった。

 無数の魂が溶けたような冷たさと、どこまでも乾いた感触。

 灰の大地ネイフェルムは、相変わらず沈黙した世界だったが――

 リオには、確かに囁きが聞こえた。

 ――おかえり――

 ――まだ、迷うの?――

 ――ここは、終わりのはじまり――

 それらは決して声ではなかった。

 記録にも、祈りにも属さない、もっと曖昧な残響だ。

 そんな風の中心で、カイ=ネイフェルは静かに言った。

 「リオ、きみがここに来られたのには、理由がある。

  この世界は死者の待合室なんかじゃないよ。

  もっと正確に言えば――」

 カイは足元の灰をすくい上げた。

 さらり、と指の隙間からこぼれ落ちる灰。

 「…………選ばなかった魂の墓場なんだ」

 リオは、眉をひそめた。

 「選ばなかった……?」

 「そう。生きることも、死ぬことも、

  輪廻に戻ることも、全部。

  何かを選び損ねた魂が流れ着く場所。

  記録にも回帰できず、祈りにも還元できない……

  消え損ねた想念の行き場だよ。」

 リオは言葉を失った。

 (じゃあ、この灰は……)

 カイが続ける。

 「誰かに忘れられた魂。

  誰にも必要とされなかった記録。

  そして――自分自身を許せなかった魂。」

 その一言に、リオの胸が鋭く痛んだ。

 灰がざら、と揺れた。

 そこに宿る影の声が反応したのだ。

 ――許せなかった――

 ――だから、ここにいる――

 ――きみも同じ――

 リオは強く息を吸い込んだ。

 「……アルマは?

  アルマはここに来たのか?」

 カイは一度、目を伏せた。

 そしてゆっくりと首を振る。

 「違う。

  アルマは選んだんだよ。

  きみを救うことを。

  きみを愛することを。

  きみの罪ごと抱きしめることを。

  あの子は……世界が砕けても、自分を失っても、

  きみだけは忘れないと決めた。」

 灰が、わずかに震えた。

 その震えは、風のせいではない。

 ――アルマの名が持つ意味に共鳴したのだ。

 「だから、アルマの最後の記録は、ここにはない。

  あの子はきみを待つために、別の場所に残響を残した。

  ここにあるのは――」

 カイは周囲を指さした。

 「きみが滅ぼした世界の、最後の息だけだよ。」


 リオは目を閉じた。

 灰が頬に触れる度に、誰かの気配が肌をかすめる。

 恐怖ではない。

 悲しみでもない。

 ――期待だ。

 (……待っている?

  誰が、俺を……?)

 そのときだった。

 世界が、低く鳴動した。

 ドン……ドン……

 地の底から鳴り響く、鼓動のような重低音。

 灰が天へと舞い上がり、遥か遠くの地平線が揺らぐ。

 カイが素早くリオの腕をつかんだ。

 「来たね。《ノウス》が。」

 世界の気温が一瞬で下がった。

 灰が凍りつくほどの冷気。

 息を吸うだけで喉が裂けそうになる。

 ――ノウス。

 忘却を司る存在。

 輪廻の最後の審判者。

 (なぜ……ここに?)

 カイが叫ぶ。

 「リオ、覚悟しろ!

  おまえが選ばなかったものすべてを、ノウスが連れてくる!」


 地平線の向こうから、巨大な影が迫ってきた。

 それは獣でも、人間でも、神でもない。

 形を持たず、ただ黒い揺らぎとして存在している。

 だが、その正体を知った瞬間、リオは息を詰めた。

 ――あれは、俺の生きなかった人生だ。

 どんな人生も、どんな選択も、

 どれかひとつを選べば、残りは失われる。

 ノウスはその失われた可能性すべてを回収し、

 灰の大地へ堆積させる存在。

 影が言葉にならない叫びを上げる。

 リオの足元から、無数の手が伸びてきた。

 《……なぜ助けなかった?》

 《……なぜ壊した?》

《……なぜ逃げた?》

《……なぜ、生きなかった?》

 圧倒されそうな重さ。

 リオは膝をつきかけ――

 だが、カイが肩を支えた。

 「立て!

  リオ、この世界はおまえを裁く場所じゃない!

  選ばなかった自分たちの亡霊が責めてるだけだ!」

 「でも俺は――!」

 言いかけた瞬間、カイが怒鳴った。

 「罪を数えるな!

  アルマはそんなもののために、お前を待ってるんじゃない!」

 リオの心臓が強く跳ねた。

 灰の風の中でも、アルマの声が確かに響く気がした。

 ――きみがもし全部忘れても、わたしはここで待ってる。

 リオは拳を握りしめ、ゆっくりと立ち上がる。

 黒い影――ノウスの本体が、空を覆い尽くしていた。


 風もなく、陽もなく、ただ灰の世界だけがあった。

 リオは影の方へ一歩踏み出す。

 足元の灰がざらりと鳴る。

 その音は、世界の沈黙に対する最初の拒絶だった。

 「……ノウス。

  俺は、おまえに何も渡さない。」

 影が揺れた。

 「俺の選ばなかった人生も、

  俺の壊した世界も、

  全部、俺が抱えて生きる。」

 カイが目を見開いた。

 「リオ……!」

 リオが続ける。

 「おまえが奪うための灰じゃない。

  俺が歩くための道だ。」

 ひび割れた声ではなく、

 強く響く声だった。

 影が波のように押し寄せる。

 だが、その中心で何かが細く、白く光った。

 光は、影を裂いた。

 そこにあったのは――

 灰の中に埋もれていた一本の白い花。

 灰の世界には似つかわしくない色。

 形はかすかに歪んでいる。

 しかしその純白は、まるで世界に最後の希望が残った証のようだった。

 リオは震える指で花を拾い上げる。

 「これは……」

 カイが息を飲んだ。

 「アルマの残響だ。

  きみがここに来る前に、あの子が残したただ一つの祈り……」

 祈り。

 その瞬間、リオの胸に一気に熱が広がった。

 (アルマ……)

 影が吼えた。

 ノウスが本気を出そうとしている。

 カイが叫ぶ。

 「リオ、その花を持って走れ!

  この世界を抜けるには、それしかない!」

 リオは息を吸い込み――

 そして走った。

 灰の大地が重く、足に絡みつく。

 影が背後から追いすがる。

 ノウスの唸りが耳を裂く。

 それでも――

 リオは走った。

 アルマの祈りを胸に抱いたまま。

 選ばなかった人生に背を向け、

 これから選ぶ未来に向かって。

 そして灰の大地の果てに達した瞬間、

 世界が白い光に飲み込まれた。

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